第12話 白雪との約束
白雪はきっかり九時にインターホンを鳴らした。
ややあって、扉が解錠される音が聞こえて、扉が開く。
「いらっしゃい、玖条さん」
昨日会った時とは、当然だが違う服装だった。
少しお洒落に見えるのは――気のせいかどうか。
「お邪魔します、月下さん」
案内されて、リビングまで行く。
和樹の家はリビングにパソコンが置いてある。
繋がれたディスプレイは二台。それがノートパソコンにつながっているようだ。
他にかなり大きめのプリンタなども置いてあるので、さすがにここで仕事をしてるだけあるな、と思う。
「とりあえずどうぞ」
和樹がソファを促したので、そこに座る。
それを確認すると、和樹はキッチンへと向かった。
その動きから、お茶を出すためだろうと分かる。
「あ、私が……」
「いやいや。この間はお願いしちゃったけど、君の方がお客さんだから」
一月あまり前とはいえ、キッチンの勝手を知ってるので思わず言ってしまったが、考えてみたら当然の対応だった。
「す、すみません、つい」
恥ずかしさのあまり顔が熱くなっていた。
「うん、まあうっかり言いたくなった気持ちは分かるけどね。さて、と」
和樹がお茶をリビングテーブルに置くと、白雪のカバンを見た。
それで、何を促されているのかはすぐ分かる。
「こちらが教科書です」
カバンから二冊の本を取り出す。
一つは標準的な情報の教科書、もう一つが学校独自のものだ。
和樹は受け取るとパソコンチェアの方に座り、白雪にお茶を勧めつつ教科書をパラパラとめくる。
「こっちはまあ、一般知識に近いか。で、こっちは……ああ、なるほどね。難しいのは……察するにこっち?」
和樹が示したのは二冊目。
その通りなのでそのまま頷いた。
「正直高校生でここまでやるのか、と思うくらいの内容だしね……これは確かに、学校だけでやるのは厳しいかもね」
教科書の内容は、実際にプログラム言語を使ってのアプリの作成だ。
言語のルールを覚えるのだけでも難しい。
ちゃんとやろうと思ったら実際に組んでみるのが一番だが、パソコンを持ってないと自習はほとんどできない。今までは教科書と参考書だけで何とかなってきたが、これだけは白雪にもどうにもならなかった。
学校のコンピュータ室は上級生が主に使っているので、一年生である白雪ではあまり予約が取れないのだ。
「はい。パソコンの基本的な使い方や理論とかは……何とか授業で分かるとは思うのですが、プログラミングって、どうしても馴染みがなさ過ぎて……家で自習したくても、スマホしか持ってないとさすがに厳しくて」
スマホにもプログラミング練習のためのアプリはあるが、画面が小さくてとてもやりづらい。
「学校で配られる端末はないの?」
「うちの学校、学校外への端末の持ち出しは禁止なんです」
もちろん個人で持ってくるのは咎められないし、そういう生徒もいるが、学校の授業のサポートツールとしてのタブレット端末はともかく、プログラミングの授業で使うのはパソコンだ。
馴染みのないそれらに――マウス操作にも慣れてない生徒もいる――苦戦しているのは誰もが一緒で、白雪も例外なく苦戦している。ごく一部例外がいるくらいだ。
「なるほど。この内容なら、一応俺はプロってことになるけど……」
「お願いできないでしょうか……?」
和樹はうーん、と悩んでいる。
「俺が教えるのができるか、ってのがそもそもの問題ではあるんだけど……」
確かにそれはそうだろう。
プロだからといって、教えるのが上手とは限らない。
白雪にも自覚があるが、勉強ができる人が教えるのが上手とは限らない。そこは全く別の話になる。
「あとは……うーん。玖条さん、どこで教えてもらおうと思ってた?」
「え? ここかな、とは……私の家では設備ありませんし」
「……いや、あっさり言われると……その、いいの?」
和樹がやや呆れ気味だった。
言いたいこと自体は白雪にも分からなくはないが――。
「構いません」
「……まあ、家庭教師だと思えば普通……なんだろうけど」
「月下さんは信頼できる大人の男性だと思っていますので。そういう信頼を押し付けられると迷惑……というのでしたら申し訳ないですが」
「いや、まあ君みたいな子に信頼されるのは悪い気はしないし、まあ君がそこまで言ってくれるなら……わかったよ。いったん引き受けよう。ただ、実際教えてみて、教え方とかで効果がありそうかどうか、君が判断してくれていい」
「はい、わかりました」
内心安堵する。
正直なところ、和樹のことは白雪の中では無条件で信頼できる枠に入ってしまっている。多分それは――彼が父親に被っているからだろう。本当に大変失礼なことだとは自覚しているが。
となると、あと解決すべき懸案がもう一つ。
「あと、その、さっきおっしゃったように、家庭教師、というのが一番近いと思いますが、それであれば無償というわけにはいかず……」
「……ああ、いや、それは要らない。というか、あると俺が面倒になるから、いい」
「え? でもそれでは……」
一般的な家庭教師の相場を調べたが、だいたい一時間に数千円程度。専門職である高度技術の場合相場はさらに上。さらに機材を借りたりなどもすることを考えたら、それなりの謝礼を支払うべきと考えていたし、実際その程度のお金は用意できる。
「俺がフリーでやってるのは昨日話したけど、それゆえに収支……要するに自分のお金は結構きっちり管理しないとならないんだ。なので、君から労働の対価でお金を受け取ってしまうと、それも当然収入として記録せざるを得なくなるし、経費を計算しなきゃならなくなる。けど、俺としては教えるなんて行為は専門外だから、金銭を受け取るに値するかが微妙だし、相場も分からないし……ちゃんと記録するのも面倒なんだ。だからまあ、無償でいい」
「でも、それでは……」
こちらからお願いする以上、時間の都合は和樹に合わせるつもりだったが、それでも和樹の時間を少なからず拘束することになる。
それを無償と言われては、こちらとしても申し訳なさすぎる。
「まあそんな週に何時間も相手してくれ、と言われたら別だけど、そこまでは考えてないだろう?」
「それは……そうですが。せいぜい、週に一、二時間程度かと」
「その程度ならいいよ。俺にとっても気分転換になる程度だし、第一ちゃんと教えられる保証もないし」
「でも……」
少なくとも金銭を払う、という形は受け入れてもらえそうにない。
ならば他に――と考えて、視線を巡らし――。
「あの、でしたら、食事をお作りする、というのはいかがでしょう。もちろん、私が材料を持ってきて、です」
「え?」
「何もしないのは本当に私も頼みづらいというか、居たたまれないので、何かして差し上げたく……でも、私のできることと言えば、他にあまりなくて……といっても、毎日というわけにはいきませんが……」
和樹が少し思案顔になっている。
もう一押し、他に何か提案できないかと考えるが、すぐには出てこない。
「そうだね。それくらいなら……いいか。じゃあ、教えた日の夕飯をお願いする、とかでどうだろう? 教えるのは……とりあえず最初は一週間に一回でいいだろうし、そのくらいなら」
「え? 講義はともかく、お食事はもっと来ても……いいのですけど」
「いやいや。それは君も大変だろうし、見合わない。あと、食事作ってもらうのはいいとしても、君もうちで食べていくように、二人分で。作ってもらって帰すのはいくら何でもだし、俺もまあ、一人より二人の食卓の方がいい」
それはむしろ、白雪の方がメリットがありすぎる提案だ。
ただ、和樹の中ではそれで落ち着いてしまっているらしい。
「あの、本当にそんな条件でいいのですか……?」
「ああ、いいよ。まあ、時間とかについてはちゃんと決めるし連絡とかも考えないとだけど。それに、最初に言った通り、俺の教え方が君のためにならなければ、そもそもすぐ終わるしね」
「わかりました。では、よろしくお願いいたします」
「ああ。まあとりあえず来週にでも最初の一回ってことで」
「はいっ」
白雪はなぜかその約束が、とても嬉しく思えた。