第10話 白雪のお願い
「お願い?」
マンションまではあと五分ほどというところでの、白雪のその言葉は、和樹にとっても予想外だった。
女子高生に何をお願いされるのかという興味もあるが、先ほどの問答からして、コンピュータ関連だろうというのは分かる。
先に文化祭の準備がどう、と言っていたから、あるいは文化祭で何かプログラムを作ろうとしているのかと思ったが、今はもう十一月も半ば近い。普通は文化祭は終わってる気がする。
「はい。その、私にプログラムを教えてもらえないでしょうか」
完全に予想の斜め上だった。
とりあえず、道端で立ち止まっているのもおかしいので、白雪を促して帰路を進む。
「どういうこと?」
「学校の授業の一つに情報の授業があるのですが……私、パソコンを持ってないので、使い方もあまり分からなくて、授業だけではちょっと厳しく。パソコンの使い方から教えていただきたくて……」
確かに、昨今パソコンを触るのは社会人になって初めて、という人もいるらしい。
和樹などは、それこそ小学生の頃から慣れ親しんでいたが、前に打ち合わせで入社してからパソコンの使い方を学んだ、という人は確かにいた。
今時、インターネットはスマホさえあればいいという人も多いらしい。
「お父さんとかは持ってないのかい?」
彼女の親世代であれば、むしろインターネットはパソコンでやる世代のはずだ。
持っていても不思議はない。
「あの、私、一人暮らしなので……」
「へ!?」
思わず素っ頓狂な声が出てしまった。
彼女が住んでいるのはあのマンションの四階。
富裕層向けの大規模な間取りの部屋であり、入居する際のパンフレットでしか見た記憶はないが、並の家の数倍の広さがあるとんでもない仕様だったはずだ。
「あ……普通そう思いますよね……。ちょっと色々、事情がありまして。高校から一人暮らしなんです」
どういう事情だろうかというのは若干気にはなったが、他人の家のことであり関わるべきではないし、関わること自体が失礼だろう。
いったんそれは置いておくことにして、とりあえず現状、彼女がパソコンを持ってなくて困っている、というのは理解できた。
「話戻しますけど、その、お願いできないでしょうか?」
どうやら本当に困っているようで、切実な思いは伝わってきた。
パソコンの使い方と言っても、どういうレベルなのかが分からないと、承諾もしづらい。和樹が高校生だった時代にもパソコンでの授業はあるにはあったが、和樹は当然だが困ったことはなく、また、クラスメイトもそう困ったような者はいなかったとは思う。
また、自宅にパソコンがあるのは珍しい時代でもなかった。
高校を卒業してから五年あまり経つわけだが、あるいは事情が変わっているのかは分からない。ただ、スマホの普及が影響しているのは確かだろう。
「どういうことが知りたいとか分からないと、何とも言えないな……教科書とかあるのかな?」
「はい」
「じゃあ今度、それ見せてもらっていいかな。確かに俺はおそらく詳しいけど、逆にだからこそ何を勉強するのかが見当がつかないんだ」
白雪が首を傾げる。
「俺にとっては子供の頃から当たり前でも、君が分からないようなこともあるだろうけど、それがどこか見当もつかないというか」
「ああ、それでしたら意味が分かります。確かに」
この手の話は、勉強ができる人間にとって、できない人間が『何ができないのか分からない』というのに通じる。
パソコンの場合これが極端で、場合によっては『クリックする』や『ドラッグする』すら通じないケースがあるのだ。
「あの、ということはご承諾いただけるのでしょうか?」
「ああ……うん。まあその教科書見せてもらってから判断、でもいいかな。俺が教えられるようなことかどうかも分からないし」
話の流れで承諾したようになってるし、実際拒否するつもりはなかった。
特に締め切りがきつい仕事の予定はないし、貼りついて教えるという事にもならないだろう、というのもある。
「わかりました。明日お持ちしても?」
明日は土曜日。
和樹は基本平日に仕事を持ってくるようにしているので、土日は原則休養日にしている。
とはいえ。
「え? 俺の部屋に? いや、さすがにそれは……」
さすがに女子高生を部屋に上げるのは、先日は緊急事態だったから仕方なかったとしても、本来すべきではない。
「駄目なんですか?」
「いや、さすがに女性が男の部屋に軽々しく来るべきじゃないだろう」
「先日お邪魔しましたが?」
「あの時は……俺も怪我をしてたし。けど、その、君も女性なわけだし……」
「何かされます?」
「するつもりは全くないけど、そういう問題ではなく……」
「なら、問題はありません。別に何も考えがなくてお願いしてるわけではないです。先日のやり取りから、月下さんは信頼できる大人の方だとは思ってますので」
そんな簡単に信頼されるようなことがあっただろうかと思うが、それを問い質すのはさすがに躊躇われた。
正直なところを言えば、彼女は確かに美人ではあるが、高校生、それもおそらくは一年生だ。となれば、十五、六歳。和樹とは八年の年齢差がある。
さすがにこれでどうこうする気にはならないが、世間がそう見るかは別の話だ。
「同じマンション内で移動するだけですから、ほぼ見られませんし」
確かにその通りだ。まあ最悪、隣人に見られる可能性がゼロではないだろうが、制服を着てくるとは思えないので、そうなればいかようにも説明はできる。
それにエレベーターから一番近い部屋なので、見られる可能性自体が非常に低い。
この様子だと、郵便受けに教科書だけ入れてくれ、と言っても受け入れなさそうだ。
それに考えてみれば、実際教えるとなったら、パソコンがある和樹の家に結局彼女を上げなければならない可能性が高い。
しかし、少なくとも男の部屋に来るな、という理由でこの頼みを今更拒否するのは、さすがに大人げない。
「……わかった。まあ明日は基本家にいると思うから、いつでもいいよ。買い物は今日済ませたしね」
そうしている間にマンションに着く。
「では明日、九時頃に伺います。よろしいでしょうか?」
「ああ、それでいいよ」
エレベーターが三階で止まり、和樹は降りる。
上がっていくエレベーターを見送りつつ、和樹はどこで間違えたのだろう、と自問するが答えは出なかった。