幼少期④ ~いじめ以上・虐待未満~
自分でも書いてみて驚かされるのだが、父親に関しては辛い出来事や恨み事のみが堰を切るように溢れ出てくることだった。
人間像を描いたり、しっかりとした考察をしたりするよりもまず愚痴で満たされ、弾けるほうが先だ。
まとめ上げることが、今の私でも困難なのだ。
想像はついていたがこんなにも極端だとは、改めて私は「ろくな大人になれなかったんだな」と実感して気が沈んでしまう。
幼少期とタイトルに付けてはいるが、7歳――小学1年生のときの話を2つする。
前話でも書いたように、父は遊んでいるのかいじめているのか区別のつきづらい人だった。
何かアクションを見せてくると強い恐怖が背中を走り、逃げることばかり考えてしまう。それもまた数々の痛い、辛い、哀しい出来事の積み重ねなのだろう。
こんな出来事があった。
そのとき何をしていたのか、事の始まりまでは覚えていないが、私は畳に仰向けに寝転がっていた。
すると彼は私の両脚を持ち上げ、足先を頭に近づけて、お尻の持ち上がった体勢へと持ち込むと、その上にズシリ乗っかってきた。
プロレスで言えば後方回転エビ固めのフィニッシュ、下品な用語を持ち出して言えばちんぐり返しでホールドしてきたのだ。
重たいし、胸部が圧迫されるし、頭に血が上って非常に苦しい。
大人の体重を跳ね返す力なぞあるわけがない。もがいても、もがいても、抜け出せない。
そして何よりも、「絶対やめてくれない」。
それがどれだけの時間だったかわからないが、永遠に、永久に続いていたように今でも思えるぐらい、長い事、乗っかられていた。
ひたすら泣いても、叫んでも、「頑張って逃げてみろよ」と取り合ってくれない。
「助けて」「助けて」「助けて!!」。
もはや死にたくないから飛び出した言葉だったことに、当時の両親は気付いていただろうか?
父はこんなんだし、母の方は「うるさいなあ」と言った風に別室で我関せずでいたことだろう。
自分のちっぽけな生涯で見てみても、この時ほど長く叫び、泣いたことはこの出来事以外にない。
ちなみに2番目は母方の祖父の死だ。
時間にして、結局30分ぐらいだっただろうか?
今思い出してみても1時間、あるいは2時間はあのままだったように思える地獄だった。
拘束を解かれると体中が痛み、すぐには起き上がれない。
「どうして助けてくれないのか」
きっと無言の抗議をしに行ったのだろう、テレビを見ていた母親のところに行くと珍しくギョッとされる。
「何、その目!?」
そんなことを言って鏡を持ち出してきた。
何のことからわからない私に鏡を向けると、
――特段驚きはしなかった。
泣き過ぎで、瞼の毛細血管がズタズタになり、紫一色に腫れ上がっていたのだ。
「写真、撮っとこうか」
「すごいよこれ」
なんて面白がりながら母親と父親はカメラを持ち出してきた。その時撮られた写真は現存するか不明だが、眼球は血走り、真っ黒になった瞼をしている泣きっ面の私の――7歳の肖像を、当時確かに見た。
今思い返してまとめ返してみると違った感想はある。
「やっぱり異常だ」「頭がおかしいひとたちだ」。
でも7歳の写真の私はそんな考えなど及ぶわけもなく、これが自分の普通なんだと受け入れている。
その時心の内に満ちていたのは諦観であり、安堵感だった。
「やっと、終わってくれた」「終ってくれてよかった」
両親による数少ない記念撮影のさなか、笑わない眼はそう語っていた。
【続く】
昨日は特別な日でしたのでお休みとさせていただきました。
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