幼少期② ~母親というひと~
私の鮮明に記憶している「最後の愛着形成」は2つ存在する。
ひとつ。
ある日、関東地方に割と大きな地震が発生した。
思いのほか揺れが凄まじく、当時暮らしていたアパートは物音を立て、左右に軋み、たまらず母親に抱き着いてしまう。
彼女はしっかり抱き留めてくれて、その頃にしては珍しかった、大きめの地震を二人でぎゅっと固まってやり過ごしていた。
ふたつ。
ある晩、怖い夢をみた。
母方の祖父母の家を後にし、離れた駐車場へと向かう真っ暗な道。
ひたすら細い石段を登り、街灯もまばらな暗闇を進むのだが……。
どうしたことか、両親が私を置いてどんどん先へと進んでいく。
私の小さな脚では到底追いつけそうもない、まるで暗黒へと吸い寄せられていくような速さで二人は先へと行ってしまう。
走っても走っても、叫んでも立ち止まってくれそうもない。
どうにもしようがなくなった辺りで目が覚め、すぐさま大泣きをして母親に抱き着いた。
彼女は「よしよし」と受け止めてくれてゆっくり、時間をかけて頭を撫でてくれた――。
――――だから、在るにはあったのだ。
こんな私にも、頼るべき場所が。存在が。愛情が。
3歳にもなり入園が間近になってくると、突然彼女は私を突き放した。
要は自立をしなさいと言っているらしかったが……。いかんせん、やり方や人格、性格が「大人げない」女性だった。
何を話かけても、
「うるさい」「あっち行ってろ」。
何をしてみせようとしても、
「余計なことをするな」「静かにしてろ」。
母親のしていることに興味を示しつけても、
「お前には関係ない」。
そんな言葉を真顔で、乳歯しか生えてない子供に吐き捨てるのだ。
抱き着くことも、※外で手を繋ぐことも、キスをせがむことも、彼女の方から一方的に心底嫌がれるようになった。
だから私が再び母親の身体に触れたのは、26歳に腕を組み写真を撮った時になってしまう。
それぐらい、私は母親とスキンシップをした事実が無い。
※路上など危ない場所では、手を繋がない代わりに「きちんと後を付いてこないと父親に殴られた」。
そして、とにかく口が悪かった。
私に対して、または父親に対して。
あるいはテレビのバラエティ番組に対して、とにかく放言や罵倒が酷い人だった。
例を挙げると、いつからか自分の呼び名が「ボケサトシ」になった。
普段おっとりとして、ぼーっとしているからだそうだが、いくら止めてと言っても聞いてくれない。父親や親戚の叔母、優しい母方の祖母までもが面白がってそう呼ぶ始末。
「ボケサトシ」「ボケサトシ」「ボケサトシ」。
やがて弟が生まれるのだが、言葉を発するようになると私のことをそう呼ぶようになってしまった。
しかし、あの人はそれを叱りもせず、笑いながら「ボケサトシ」と呼び続け、次第に私も抵抗を止めてしまった。
これが、2歳まで自分を可愛がってくれた人が実際にやったことである。
だがこれでも、男子の生まれだ。
いつか母親離れは求められるのであり、このような理不尽で冷酷で、受け入れがたいやり方でも我慢しなければならないのだと。すっかり諦めてしまった。
「自分がいい子にしていれば、いつかはまた仲良くなれるのだ」
「彼女みたいな人間を目指せば、彼女みたいな堂々とした大人になれるのだ」
だから――。
でも。
この程度のことで今の自分のようなどうしようもない中年男性が仕上がるわけがない。
「父親」について、語らねばなるまい。
【続く】




