四章 クリスの居場所9
レックスの指先がクリスの指先に触れて、どきりとした。思わず彼の顔を見てしまうと、レックスはにっこりと笑ってクリスの手のひらをとった。
「手を繋いでもいい?」
ぱっと顔が熱くなるが、クリスはなんとか頷いた。
レックスのひんやりとした手はとても気持ちよかったが、クリスの方は緊張から手のひらに汗をかいているのではないかと妙な心配をしてしまう。
「今日は付き合ってくれてありがとう。こんな風に町を歩いたのは初めてだよ。楽しかった」
そう言ってレックスは本当に楽しそうに周りを見回した。
町と言ってもウィンストンの屋敷のすぐ近くだ。周囲にあるのはヘンレッティ家に関係する人物の立派な屋敷や、護衛や使用人達が暮らすような家が主で、露店や商店が多く並んでいるわけでもない。さほど見るものはなかったはずだが、それでも彼は満足そうだし、クリスはこうして彼と一緒に手を繋いで歩けるのなら、ここが荒野や砂漠でもいいくらいだ。
レックスは幼い頃から王子として屋敷で隠されて暮らしていた。外に出られるのは本物の王子の代わりに他人に姿を見せる時だけで、襲撃や暗殺に怯えながら公務をこなす時に限られたはずだ。当然だが、目的もなく外を歩くなんて真似は出来なかっただろう。
「タッドさん達には申し訳なかったけど。ごめんね、付き合わせちゃって」
そう言ってレックスは背後を振り返ったので、クリスはどきりとする。忘れていたが、後ろにはウィンストンが護衛としてつけてくれた男性が二名いたのだ。彼らの前を歩きながら、レックスと二人で手を繋ぐのは今更ながらに恥ずかしい気はしたが、わざわざ声をかけたレックスは気にしていないのだろう。
クリスもちらりと振り返るが、男性二人は無言で首を横に振っただけだ。
「……レックスの護衛が私じゃダメなんでしょうね」
もちろんウィンストンが万が一を考えて、レックスに護衛をつけたのは分かる。彼のお膝下で治安は悪くないとはいえ、レックスがここにいることがすでに王宮にも知られている可能性はあるし、そうでなくともレックスは普通にしていても目立つのだ。町中でも視線を浴びていたし、良くない男達に絡まれても困る。
だが一応、仮にもクリスはレックスの護衛として配属されていた立場なのだ。今も一応は腰に剣を下げてはいて、もし町中でレックスが襲われるようなことがあれば守るつもりはある。
そんなことを呟いたクリスに、レックスは目元に笑みを作る。
「クリスが剣を向けられたら、思わず僕が前にでちゃいそうだもの」
「……念の為に言っておきますが、レックスよりは私の方が強いと思いますよ」
そんなことで張り合うのは我ながら可愛げがないとは思うのだが、それでもレックスがクリスを守るために前に出られると困る。彼は自分の身を守る訓練をほとんど受けていないが、クリスは剣も人並みには使えるのだし、本当にいざとなれば風の民や火の民を使って相手を怯ませることもできる。
「うん。分かってる。クリスが僕のために強くなろうとしてくれてたことも。クリスが軍に入って護衛として志願してくれなかったら、絶対に一緒にはいられなかったからね」
そんなことを言われて、クリスは思わずレックスの横顔を見る。彼は視線を前に向けたままだったが、代わりにクリスの手のひらをぎゅっと握った。
子供の頃は、名があるロイズ家の令嬢として、王子の友人役の一人だったクリスだが、その役割が求められるのは子供の頃だけだと分かっていた。ある程度の年齢になれば、下手な噂を恐れて周囲に女性は近づけないはずだ。そう考えて、クリスは友人でなく護衛として志願したのだ。友人であれば花嫁候補と見られる可能性があるが、護衛は護衛だ。従属というか、完全に格下の扱いになる。
「クリスは僕のためにきっと色々なものを犠牲にしてるのだと思うのだけど、僕はそんなクリスに『危険だから離れて』って口で言うだけで、本当に離れることもできなかったんだ。本当はアランみたいに、僕から完全に離すこともできたのにね」
レックスはこちらを見たが、何ともいえない表情をしていた。どんな顔をすればいいのか分からないような顔で、いつも相手に合わせて表情や言動を変えているレックスにとっては、もしかしたらそれが素の顔なのかもしれない。
クリスが何を返そうか迷っているうちに、ウィンストンの屋敷の前についてしまって、レックスは自然にクリスの手を離した。
中に入ると、ちょうど外に出ようとしていたウィンストンがいて、クリスは思わず安堵した。もう少しタイミングが遅ければ、二人で手を繋いで戻ってきたところをウィンストンに見られるところだった。別に見られたところでウィンストンは何も言わないだろうし、レックスも気にならないのだろうが、クリスはやはり恥ずかしい。
「戻られたのですね」
「うん。楽しかったよ。時間と機会をくれてありがとう」
「感謝には及ばないですよ。普通の待遇なら自由に過ごせる休日くらいは当然あります。それだけ働いていただけば、自由に使える給金も当然ありますしね」
どこか皮肉っぽく言ったウィンストンの言葉に、レックスは笑う。
「たしかにこれまでは休日とか給金とかいう概念はなかったな」
「でしょうね。さんざん無償無休で働かされてきたのですから、好きなだけ自由にされてください」
「無休ってほど忙しくはなかったけどね。でも、もう好きなだけ自由にさせてもらってる。毎日、ウィンストンと働けるのも本当に楽しいもの」
そう言って嬉しそうな顔をしたレックスに、ウィンストンも目を細めて笑ってから、外に出ていく。もう夕食の時間になると思うのだが、これからどこかに行くのだろうか。
「出かけられるんですね」
「うん。今日はウィンストンがいないから食事は二人だけだよ」
「そうなのですね」
「たまにはお二人でどうぞ、って言われたから、わざわざ外出してくれたのかもね」
そんなことを言われて、クリスはなんともいえない気持ちになる。妙な気を使わせてしまったことが申し訳ないような気もするし、単に用事のあるウィンストンに揶揄われているだけのような気もする。
いつも食事をしている部屋へと向かうと、すでに食事の支度は出来ているようだった。
ウィンストンと三人で食べるだけでなく、エイベルや彼らが紹介してくれる人たちと食事をしたりすることも多いから、それなりに人数の入る広い部屋なのだが、今日は二人分しか食器が置かれていない。料理を運んでくれた使用人達に礼を言ってから、二人で乾杯をする。
二人きりになったところで、クリスは気になっていたことを聞いてみた。
「……ウィンストンはご結婚なさらないのでしょうか」
「誰か相手がいるの?」
「それも知らないですけど」
クリスの言葉にレックスは笑った。
だが二十はとっくに過ぎているはずだし、彼のような立場の人間からすると早く結婚して跡継ぎをと言われてもおかしくはない。もともとが公爵家の嫡男であるのだし、国として独立すると彼が王太子ということになるのだ。レジナルド王太子殿下などは、幼い頃から婚約者候補が吟味されていたと聞くから、ウィンストンも最初からそうした相手がいてもおかしくない。
だが、ウィンストンは食事はクリス達と一緒にとることが多かったし、夕食の後も仕事に戻るような状態で、彼こそ休日や休息などあるのかは謎だ。友人や女性と会っているところなど、想像もできない。
「謎だよね。今度、聞いてみようか」
「レックスでも聞いたことないですか?」
「うん。聞いたら普通に教えてくれそうな気はするけど」
そうかもしれない、とクリスは頷く。
中央にいた頃も、三人で食事や話をする機会など山ほどあったのだが、なんとなくそうした話題は避けていたのだ。クリスがレックスのことを想っているのはウィンストンは知っていただろうし、レックスはほぼ籠の中の鳥で、恋愛や結婚など許されるとは思えない。ウィンストンも、敢えてそんな話題を出す気にも聞く気にもならなかっただろう。
「そもそも私生活が想像出来ないよね。いつもウィンストンはウィンストンだもの。一緒の屋敷で生活していても、休んでるところも寝ぼけてるところも酔い潰れてるところも見たことないしね」
「たしかに、ウィンストンはウィンストンですね」
クリスはそう同意して笑う。
だらけているところなど想像もできないし、落ち込んだり悩んだりしているところすら見たことがない。ムラがあるとすれば機嫌が良い時と、悪い時くらいか。隠すつもりもないのだろうが、嫌いな人間と会った時に滲みでる不機嫌さはすぐに分かる。
そして不機嫌さすら全く見せないのがレックスで、たいていはにっこりと笑んでいるか、穏やかに見える。たまに元気がないと思う時くらいはあっても、ほとんどマイナスの感情などうかがわせてくれないのだ。
「レックスも見たことないですよ」
「そうかな? 休んではいると思うけど。クリスはたまに酔って寝てたよね」
「は?」
「覚えてないの? 何度か僕とウィンストンで部屋まで連れて行ったけど」
そんなことを笑いながら言われて、クリスは思わず固まった。
必死に記憶を辿ってみるが、そんな場面は全く思い出せない。そもそもクリスはさほどお酒も強くないので、そんなに飲んでいるつもりもないのだ。そう言われると、気づけば朝になっていたことは何度もあるのだが、普通に自分の部屋のベッドで普通に目覚めるから、当然自分で帰っているものだと思い込んでいた。




