三章 精霊たちの聖地8
「ちょっと、可愛すぎるんだけど」
そう言って赤子のお腹のあたりに顔をうずめたセリーナを遠くから見て、ジャクソンは少しだけ羨ましいと思ってしまった。
ろくに知らない人間が覆い被さってきて、赤子は大泣きしているのだが、セリーナの方はさほど気にした様子もない。彼女は一人で楽しそうに笑いながら、あやすように抱き上げた。布の包のまま腕の中におさまる小さな小さな子供は、それでもやっぱり泣き止まずに、結局は用を足して戻ってきたお母さんの腕の中に戻った。
「ごめんなさい、泣かせちゃって」
「いえ」
セリーナといくつも変わらないように見える若い母親は、強張った顔で言った。
アルビオンの住民たちは夜分に寝ているところを叩き起こされて、そのまま町の外に追い出されている。アルビオンの近くの町までは、大人の足で歩いて一日と半分といったところか。彼らは最低限の水などだけ与えられた状態で隣の町まで歩いて逃れているはずで、運が悪くなければ今頃は辿り着いているだろう。
ただ、怪我人や老人など動けない人間を町の外に放り出して野垂れ死にさせるのも忍びないと、動けない人間たちは一つの建物に集められて保護されていた。ここにいる大半は怪我をして動けない軍人達だが、赤子を受け取った母親も、産後の体調が悪く歩ける体力がないと、町を占領した魔術師達の中に泣く泣く残っている。生後間もない子供を抱えた状態で、恐怖と不安とストレスしかないだろう。
そんな彼女を心配して、セリーナやヘレナは甲斐甲斐しく世話を焼いているようだった。特にセリーナは赤子を抱けるのが嬉しいようで、隙を見てはちょっかいを出している。実のところ、ジャクソンも赤子を近くで見て抱きあげたい衝動にはかられているのだが、そんなことを大の男のジャクソンがしては、母親に怯えられるだけだろう。
「ヘレナ」
ジャクソンが控えめに声をかけると、兵士たちの怪我を見ていたヘレナが、こちらを見た。
仲間にはほとんど怪我人はいなかったが、兵舎は完全に倒壊しており、兵士たちの怪我人はそれなりにいる。それでも動ける人間には仲間達と一緒に町を離れてもらっているから、ここに残っているのは十名ほどか。住民たちを外に追いやったのよりも半日ほど遅れて出てもらったのは、少しでも増援を呼ぶ時間を遅らせたかったからだ。
「何かあった?」
呼んだのはヘレナだけだが、駆け寄ってきて聞いたのはセリーナだった。彼女に遅れて、ヘレナも歩いてくる。
「そろそろアルブから魔術師が合流しても良いらしいが、遅れているようだ。ヘレナ、悪いが付近を見てもらえないか」
「分かった」
「船はついたんでしょ?」
「ああ。船はついてるし、早馬で駆けてきた一人はすでにここに着いてる」
ヘレナとセリーナと一緒に建物を出て歩いていると、ヘレナはすぐに口を開いた。
「心配ないわ。もう近くにいる」
いつの間に精霊を飛ばして周囲を探っていたのだろう。相変わらず器用なヘレナに感心しながらも、ジャクソンは息を吐いた。
「それは良かった。南側か?」
「いえ、東の方角ね」
「東? 何かあったのかしら」
普通に海からまっすぐにやってきたのなら、南側の道からやって来るはずだ。それが別の方角から来たというのなら、確かに何かあって遅れたのかもしれない。
オーウェンたちに知らせに行く途中で見張り台があったので、ジャクソンは上にいる仲間に声をかける。
「アルブの仲間たちは見えたか?」
「いや、まだだ。敵の姿も味方の姿も見えないよ」
町の中心に高く作られた見張り台の上からは、基本的に全方角が見渡せる。現在は昼夜を問わずに二名がそこから常に周囲を警戒していた。
「ヘレナは東側からじきに来ると言ってる」
「分かった、注意しとくよ。ありがとう」
見張り台の上から手を振ってくれた男に手を振りかえしてから、オーウェンのいた建物に向かった。
圧倒的な魔術を使い、兵士たちを投降させたオーウェンは、彼らを町の外に追い出してからも、休む間もなく働いている。町の地理や建物の状態を把握するためにも、潜んでいる人間がいないかを再確認するためにも、仲間達と一緒に一軒一軒を見て回っているのだ。ちょうどドアから出てきたオーウェンを見つけると、彼もこちらに気づいたようですぐに口を開いた。
「どうだった?」
「もうすぐ着くと思う」
「それなら良かった。なら素直に見張りの連絡を待つか。わざわざすまなかったな、ヘレナ」
オーウェンはそう言ったが、ヘレナは返事をしなかった。ジャクソンが彼女を見おろすと、ヘレナは真剣な表情のまま、視線を虚空に向けている。
「何か気になることがあるか?」
「探してるけど、まだカーティスを見つけられないの」
「え?」
ヘレナの言葉にどきりとする。
カーティスは特にジャクソン達に付いてくるとは言わなかったし、ウォルターやキャシーなど世話を焼いてくれる顔見知りもいたから、第二陣で一緒にアルビオンに合流する予定になっていたのだ。
オーウェンも真剣な顔で聞いた。
「予定では百五十人ほどだ。足りそうか?」
「多すぎて数は良く分からないけど、そんなにいない気もする。馬車は四台」
「馬車の数も予定より一台足らないな。動いててもカーティスの場所は特別分かるのか?」
「そういうわけじゃないから、単に私が一人一人顔を見て探してるだけ。だから見逃してるだけって可能性は十分にある……ちょっと待って、もう少し探してみる」
「いや、もうそばまで来てるならこっちから出よう。方角は?」
「東」
「了解、馬を出すぞ」
オーウェンはそう言うと、周囲の仲間たちに声をかけて大股で歩き出した。
ジャクソンも彼について行ったが、セリーナやヘレナも当然のように早足でついてくる。オーウェンが向かったのは町の北で、そちらには兵士たちが使っていた馬が十頭ほど繋がれている。馬は貴重だから逃がさないようにしていたし、ここから逃げ出す住民や兵士たちに奪われて、すぐさまクラウィスに逃げ込まれないようにと注意していたのだ。
オーウェンは厩舎を見張っていた仲間に短く断ってから、馬を出した。
「ヘレナも行くか?」
彼の言葉にヘレナがジャクソンの顔を見て頷いたから、ジャクソンはオーウェンから馬を受け取る。
「ああ、馬は俺が一緒に乗せる」
「私も行く」
そう言ったセリーナにオーウェンは頷いてから、厩舎からどんどん馬を出す。
「それならウィンとカールは残れ。他は付いてこい」
そう言って馬を配ると、彼はすぐに馬に跨った。ジャクソンもヘレナを馬に乗せてから、自身も飛び乗る。道案内はヘレナがしてくれるので、ジャクソンはヘレナの指示する方向に馬を走らせ、オーウェン達はそれについてくる形になる。
ヘレナがもうすぐ着くと言っただけあって、馬を走らせればすぐに集団が歩いてきているのが見えた。相手が慌てたように足を止めたのが見えて、ジャクソンは馬の速度を緩める。
周囲を警戒しながら向かっている彼らからすれば、騎馬の人間が猛然と迫ってくれば敵だと思っても仕方がないだろう。だが、相手は外套などで顔や体を隠しているのに対し、こちらは町から出てきたままだ。馬に乗ったヘレナやセリーナの存在は目立つし、オーウェンの銀髪も遠目からでも良く目立つ。すぐにこちらの正体を察して、足早にこちらに向かってきた。
「オーウェン!」
叫んだのは先頭を歩いていたデュークだった。オーウェンは馬の速度を速め、彼らの鼻先で手綱を引き絞る。
「デューク、何かあったか?」
「オーウェンこそ、どうしてここが分かった?」
「ヘレナに聞いた。仲間が減ったか?」
端的なオーウェンの言葉に、デュークは何度も頭を振った。
「ああ、カルサで南軍の駐屯に出くわした。なんとか逃げてきたんだが、そこでキャシー達の隊とはぐれた。探しに行こうかとも思ったが、いったんみんなをアルビオンに届ける方が先だと思って人は割いてない」
早口で捲し立てるように言ったデュークに対し、オーウェンは徒歩で移動している大勢の仲間達を見回してから、冷静な口調で答えた。
「いい判断だ。俺らが探すから、デューク達はこのままアルビオンに向かってくれ。どのへんで逸れた?」
「詳しくは分からない。いないと気づいたのが、キトーの森の入り口だ」
「馬を貸してくれ。状況は馬上で説明できるし、そこまでは俺が案内できる」
そう言ったのはサスから来たリンジーで、オーウェンもその言葉に頷いた。それから馬に乗ってきた仲間を指名して、馬をリンジーに渡させる。
「ありがとう。疲れてるとこ悪いが、リンジーに一緒に来てもらえるなら心強い」
「……ウォルターやカーティスも、キャシー達と一緒だよ」
デュークが差し込んだ言葉に、ジャクソンは思わず息を飲む。もともとカーティスがいないと分かってはいたが、それでも軍に見つかり隊からはぐれたと聞くと、一気に血の気が引く。
しかもウォルターも一緒なのだ。思わず彼の父親であるオーウェンの表情をうかがってしまったのだが、彼は表面上は特に驚いた顔もせずに頷いた。
「ああ。キャシーの隊は馬車も一緒か?」
「いいや、馬車は途中で一台、故障して動かなくなったんで置いてきたんだ。馬と中身はざっと残りの四台に移しはしたが」
「なるほど。馬車が一緒なら探しやすいと思ったが、了解だ。姿が見えないのはキャシーたちのとこの二十名ほどだけか?」
「ああ、正確にはキャシー含めて十九名だ。残りはファキオから合流予定だった仲間も含めて、百四十名。ここに揃ってるはずだ」
「了解だ。捜索はこっちに任せろ。デューク達は逆にアルビオンの方を頼む」
オーウェンはそう言うとすぐに馬を駆って、その後ろにリンジーが続いた。