三章 精霊たちの聖地7
「火事だ!」
そんな叫びが下から聞こえた。それを叫んだのはここの住民か、それともアルブの魔術師か。地震だ火事だと騒いで住民達を町の外に出すのも、町の各地に散った魔術師の仲間達の役割だ。
「水の民、霧をお願い」
ジャクソンの足元に座り込んだままのヘレナから、そんな声が聞こえた。まだ耳を押さえている彼女に手を出すと、ヘレナは片方の手を耳から離して、ジャクソンの手を取って立ち上がる。
「ごめんね、ヘレナ。大丈夫?」
「びっくりした。セリーナの方が近かったと思うけど」
「耳鳴りが止まらないわ」
「私も」
俺も、とジャクソンは言いながら、町の様子を見回す。ここはもともと町の内外の様子を見るための見張り台なのだろう。町の全体が見回せるし、壁の向こう側の様子も見える。だが、ヘレナが使った水の民によって、みるみると頭上に雲がかかったようになる。それは兵舎や町の外で燃えている赤い炎を受けて、真っ赤に燃える煙のように見えた。
「火事だ! 落ち着いて逃げろ! 南だ。南門に集まれ!」
「建物が崩れるぞ、外に出ろ! まだ大きな揺れが来るかもしれない」
それは煽動している仲間の声だろう。逼迫したような大声で叫ぶ男達に、慌てて建物から出てきた人が顔を見合わせる。当然だが叫んでいるのは知らない男たちだろうが、そんなことに気づく余裕はないだろう。
誘導にのってすぐに建物から出て逃げ出す人々の姿もあれば、困惑したように立ち尽くす人の姿もある。中には火の手の上がる北側に向かって走っていく姿もあり、ジャクソンはヘレナの精霊を借りて叫んだ。
「風の民、風を頼む!」
真っ赤に燃える兵舎の方から風を吹き下ろす。赤い火の粉が舞って人々の元に押し寄せて、北に向かっていた人の足を止めた。力を合わせて火を消そうとしているのか、救助に向かっているのかは分からないが、出来ればオーウェンたちの方向に向かわせたくはない。
諦めたように逃げ出した男たちを見て、ジャクソンは視線を周囲に巡らせる。
わざわざこの見張り台に登ったのは、鐘の音で皆を家から出すという目的もあったが、こうして人々の動きを見ながら風を操って誘導するという目的もあった。あるいは風を操って町への延焼を防ぐためで、人々を追い出すことに成功しても、町が焼けてしまえば元も子もない。町をなるべく万全の状態で占拠するためにも、逃げ遅れる人を最小限にするためにも、なるべく町の状況を把握できる場所で、魔術を操る必要があったのだ。
セリーナもヘレナの精霊を使って、風の民を操る。もうほとんどの住民が起きて外に出てきているのだろう。各所で悲鳴や怒号が聞こえ、大混乱になってきた。霧や煙で視界も悪くなってくると、今度はセリーナが道を作るように風で煙を払う。
「ジャクソン、右手側後方の家から火が出そう」
「どういうことだ?」
「燭台が倒れたみたいで、本当に火事になってる」
「どこだ?」
ヘレナに場所を聞いて見てみたが、目に見えて火が上がっているかは分からない。だが、火が大きくなる前に消さなければ、町の中心から燃え広がってしまう。
「仲間を向かわせよう」
ジャクソンは、下で待機してくれている仲間の元まで降りて、状況を伝える。彼はすぐに人を伴って向かってくれたから、なんとかしてくれるだろう。
下に降りると、住民を誘導している声も多く聞こえてきた。火が上がっているのはジャクソンたちが来た町の北側で、住民たちを避難させるのは南側の壁の向こうだ。そちらには仲間の魔術師たちが構えており、なるべくは穏便に住民たちを抑えることになっている。
「魔術師だ!」
どこかからそんな声が聞こえて、ジャクソンは内心で飛び上がった。
もともとエヴァンは魔術で兵士たちを引きつけているのだから、兵士たちは魔術師の存在に気付いているはずだ。彼らはなるべく北側で足止めしたかったが、それでも町中がこれほどの混乱になれば、兵士たちもこちらにやってきておかしくはない。
ジャクソンが急いで梯子を登ると、ヘレナと目があった。
「兵士がこっちに来てるか?」
「兵士じゃないと思う。あちら側から避難してきた人みたい。騒ぎながら逃げてる」
「場所を教えてくれたら私が吹っ飛ばすけど」
そんなことを言ったセリーナを、ジャクソンは慌てて止めた。
「そんなことをしたら余計にパニックになるよ。兵士じゃないなら放っておこう。大半はすでに家を出て避難してる。たぶん大丈夫だと思う」
最初から魔術師の襲撃だと気づかれたくなかったのは、怯えて家の中に篭られたり、散り散りに逃げられたくなかったからだ。なるべく火事や地震の避難という形で誘導した方が、素直に人々は町の外に集まってくれるだろうと考えていた。
高い場所から確認している限りでは、町の外に向かう人々の流れができている。魔術師だという叫びは伝播して、各所で人々の口に上がっているようだが、それは余計に町の外に逃げる足を速めているだけだ。火の手の上がっている方角に魔術師がいると考えるだろうから、わざわざ人の流れに逆らって逃げる人間はいないはずだ。
しばらく上から人を追いやったり、不審な動きがないかなどの様子を見ているうちに、ほとんどの住民は南側に集まったようだった。北側は北側で、オーウェンたちが兵士たちを拘束しているはずで、あとは町で煽動していた仲間たちが、逃げ遅れた住民や隠れ潜んでいる敵などがいないかを探している。ジャクソンがヘレナが見つけた人の場所などを下に指示していると、セリーナの声がした。
「あっさり上手くいったわね」
魔術を使って疲れたのか、彼女はいつのまにか地面に座り込んでいた。ジャクソンは「そうだな」と頷いたが、ここまではある程度、予測通りではあった。
「どっちかといえば、これからかもな」
「そうね、軍隊が派遣されてくる前にこっちの数が増えないと、簡単に取り返されちゃうものね」
「……それもあるな」
いまここには百名ほどの魔術師しかいないし、本格的な軍隊に包囲されるとつらい。町は石の壁に囲まれているし、その周辺はかなり開けた場所になっているから、遠くから魔術を使えるこちらがだいぶ有利ではあるのだが、それでも数が少ないといずれ疲弊する。
そのため、まずは周辺の魔術師に合流してもらって、それからアルブの半分とアルブの周辺の町に散っていた魔術師たちが合流予定にしている。ここから徒歩で逃れた住民や兵士が国に状況を伝えてから、軍隊が派遣されるとしたら、それまでの猶予は一週間というところか。その間にどれだけ仲間を集められるか、というところだが、アルブの魔術師は予定通りであれば今ごろ海上だろう。兵士たちが来る前には合流できるはずで、どちらかといえば、ジャクソンの懸念はその後にある。
各所からアルビオンに魔術師が合流したとして数百名ほど、最終的にサスの魔術師も合流すれば千名近くになると言っていたか。それだけの人数がいれば、軍も手を出すことはないだろうし、アルビオンを防衛することは可能であるだろう。だが、千名が今後ここで生活できるのかどうか、ジャクソンには分からない。
アルビオンにも備蓄はあるだろうし、壁の内外で作物を作っている様子もある。泉もあるし近くに川もあるから水にも困らないだろうが、それでも完全に自給ができるほどの食料を確保するのは難しいのではないだろうか。少し移動すれば山も森もあるし、他の町に行ければ物資の調達もできるだろうが、軍に完全に出入りを封じられるとそれもできない。
アルブの第二陣は船でアルブから人と一緒に物資を運んでくることにはなっている。ただ、それだけで何ヶ月も持ちはしないだろう。
「オーウェンたちは、兵士たちの制圧を完了したみたい」
ヘレナがそう言ったので、セリーナは立ち上がる。
「それなら合流しましょうか」
「そうね、怪我をしてる人がいるかもしれない」
そう言ったヘレナに、ジャクソンは口を開きかけてから、声をかけるのをやめる。
水の民を使って治療をするのは、ヘレナでも消耗する。これから何かあるかもしれないことを考えると、なるべく力は使わないようにと言いたいところだが、怪我人を放っておけというのも彼女にとっては辛いだろう。逼迫した事態になるまでは彼女の好きにさせようと思っていると、ヘレナが口を開いた。
「風の民、降りよう」
高さをものとせずにふわりと降りたヘレナに続いて、セリーナも魔術をつかって飛び降りていったから、二人ともまだまだ余裕はあるのだろう。ジャクソンも下を覗いたが、そのまま飛び降りられる気もしないし、魔術に失敗して落ちて怪我をするのも馬鹿らしい。
梯子を使って下に降りていくと、「遅いわよ」とセリーナに鼻で笑われた。