三章 精霊たちの聖地6
精霊の聖地は大昔に魔術師達が暮らしていた場所であるらしい。
古くから争いがあったのか、町の周りをぐるりと一周、古くて頑丈な石壁に囲まれている。壁の中は建物が多く並んでいるが、木々が生い茂る場所や緑の丘もあり、中心部には美しい泉もあるのだと聞いている。通常であればそうした土地には風の民や水の民が多くなり、火の民や土の民は少なくなるのだが、そこには風、水、火、土の精霊たちがそれぞれ多く存在しているらしい。
精霊達にとってアルビオンがどういう場所かは分かっていないが、なんにせよ魔術師達は昔からそこで精霊達とともに生活していたのだし、精霊の生まれる土地として崇めてもいた。もしかしたら魔術師達もそこで生まれたのかもしれないという話もあるほどで、古くはここに多くの魔術師が暮らしていたのだ。
ただ、アルビオンは国の中心にも近い場所にあったため、人々に忌避されていた魔術師達は、長い年月をかけて徐々にアルビオンから辺境に追いやられている。結果、精霊たちの聖地に住むのは、精霊たちの姿を見ることもなく恩恵を受けることもない人間たちだけで、魔術師はほとんどそこに残っていない。そこが精霊や魔術師たちにとっての聖地だなどということ自体、住んでいる人々は意識もしていないはずだ。
とはいえ、五年前に魔術師を排除する法律ができた際には、軍はまずそこに兵士を派遣しているから、国にとっても忘れ去られている場所というわけではないのだろう。ここに暮らす五百名ほどの住人に加えて、中央から派遣された百名ほどの兵士たちが駐屯しており、何かしらの有事に備えている。
「風の民」
飛ぶぞ、と呟いたエヴァンが、ふわりと宙を舞って自分の身長を超える高い壁に上った。アルビオンの周りを囲む石の壁は、古くて城壁というほど立派なものではないが、それでも彼が危なげなくその上に立てるほどの強度と幅はあるらしい。
近くでオーウェンが盛大に舌打ちをした。
「一人で勝手なことするなよ」
「この辺りに敵はいないとヘレナが言ったろ」
上からエヴァンの声が降ってくる。声を抑えて言ったオーウェンとは違い、彼は敵がいないと言ったヘレナの言葉を全面的に信用しているのだろう。暗闇では大きいと思うほどの声で言った。
「陽動は本当にエヴァンだけで良いのか?」
塀の上からアルビオンの町並みを見下ろしているエヴァンに、ジャクソンが声をかける。
「あそこの駐屯兵に火の民でも食らわせて、適当に遊んでればいいんだろ」
「派手にやってもらっていいが、戻れなくならないように気をつけろよ。外側に逃げこんだり隠れたり出来る場所はないんだ」
「うるさいな、そんな間抜けな真似するかよ。なんならヘレナの風の民をこのまま借りてくから、いざとなったら飛んで戻る」
オーウェンの言葉にエヴァンはそんなことを言ったが、ヘレナは全く反応しなかった。聞こえていないわけではないだろうが、彼女は別の風の民を操って上空や町の中を探っているところだ。精霊の一つや二つが減ったところでヘレナには影響はないし、返事をする気はないのだろう。
そう思っていると、彼女は目の焦点を合わせないまま口を開いた。
「兵士は表にいるのは三名だけど、詰所に七人。あとは動きはなさそうだから、建物の中で寝てるんだと思う」
「十人だけか。つまらないな」
「不寝番としては多いくらいだけどな。一応は警戒してるんだろ。なるべく騒いで寝てる兵士も引きつけてくれ」
オーウェンが言うと、エヴァンはひらりと壁から飛び降りてきた。
「騒がせるのは得意だ」
「ぽいな」
「気をつけてね」
呆れたように言ったオーウェンと、心配そうに言ったヘレナにちらりとだけ視線を向けてから、エヴァンは暗闇に消えていった。オーウェンはしばらく彼の消えた方を見ていたが、やがて口を開く。
「エヴァンが兵士を引き剥がしたら、こっちも動くぞ。——町の様子は? ヘレナ」
「中心にはいくつか灯りのついた家もあって、起きてる人もいるようだけど、一見して外を出歩いてる人はいないわ」
「承知した、助かるよ。みんなは予定どおりに配置につけ。合図を出すまでは待機だ」
オーウェンの言葉をうけて、周囲にいた魔術師達は、壁に立てかけた即席の梯子で壁の内側に入っていく。ここは町の北端であり、壁の内側には木々が茂っている。もうすこし先まで行けば兵舎があるらしく、建物の裏手の森といったところか。
兵士たちは目と鼻の先で寝ているのだが、ヘレナに探ってもらった結果では、近くに人の気配はないということだし、すぐにエヴァンが正面側から注意を引くだろう。ジャクソン達は敢えてここから、暗闇に紛れて町の中に散る予定になっている。
だが、さすがにここに百名が集まってはおらず、半数以上は南東の門の付近に潜んでいた。作戦を実行するのはこちらの北側で、南側の魔術師達はその援護というか、仕上げの役割だ。
「ヘレナ、大丈夫か」
意識の半分以上を町の様子の確認にとられているヘレナを、なんとか壁の上に乗せてやってから、ジャクソンも壁を越える。
「今のところ動きはないわ」
ヘレナ自身に対して大丈夫かと聞いたのだが、彼女は違う意味にとったらしい。壁から降りるのに手を貸そうかと思ったが、彼女は小さく風の民の名前を呼んだだけで、ふわりと地面に着地した。
その瞬間、ぶわっと周囲が明るくなった。
続けて何かがぶつかるような音と悲鳴が響く。エヴァンが、北西側の門近くに立っていた兵士たちに向けて魔術を使ったのだろう。にわかにそちら側が騒がしくなるが、今のところ近くの兵舎は静かなままだ。
大きな火の民の炎が、塀の外側から何度か覗く。
離れていてもあれほどはっきり見えるのは、かなり強力な精霊を使っているのだろう。さすが精霊の聖地というだけあって、周囲にたくさんの精霊が宙を舞っているのが見える。魔術を使うことで精霊の力が弱まるどころか、エヴァンの魔術に呼応するように火の精霊達が集まってくる。
「さすが、得意というだけあって派手だな」
「エヴァンだもの」
オーウェンの感想に、そんな言葉を返したのはセリーナで、彼女は周りを見回して言った。
「これだけ精霊たちがいれば、魔術師同士で喧嘩しなくてすむわね」
「そうだが、それを扱える有能な魔術師の数を揃える必要はあるな。精霊達のいきが良すぎて、これはこれで難儀だ」
そう言ったオーウェンは、かなり大きな土の民を睨んでいるようだった。ジャクソンではとても手を出そうとも思えないような強力な精霊だが、オーウェンはそいつと睨み合いながらも仲間に指示を出す。
「そろそろ寝ぼけてた兵士達も動き出すだろう。くれぐれも気づかれるな。兵士には出来るだけ町の外に出てエヴァンと遊んでもらおう」
北西側の門は町に出入りする主要な門になっており、外にもいくつか建物のようなものがある。エヴァンは外からそれらを焼くなりふっとばすなりしてから逃げる予定にしているから、兵士たちは外に向かうはずだ。
「建物の正面から兵士たちが出ていくわ」
「どっちにだ?」
「エヴァンの方。まだ町の様子を見ようという感じではないみたい」
「それならもう少し待つか」
「エヴァンも今のところ大丈夫。十分に距離はあるし、暗闇で兵士たちに気づかれてもいない」
そんなことを言ったヘレナを、オーウェンは精霊と睨み合っていた視線を外してから見る。
「ヘレナはそんなにあちこち視線をやってて消耗しないのか」
「あと数時間は問題ないわ。少し目を休ませられれば、半日くらいなら」
「十分すぎるな」
彼はそう言ってから、今度はセリーナに視線をやった。
「そっちはもう動いていいぞ」
「了解。向かうわね。もうヘレナ連れてっちゃって良いの?」
「こっちはもう十分だ。ジャクソンも二人を頼んだ」
「ああ」
ジャクソンはヘレナの手を引いて、セリーナや他三名ほどの仲間とともに建物の脇を抜ける。兵士たちの大勢いる建物のそばを通るのは緊張したが、そもそも出入り口はこちら側にはないから、出てくる兵士と遭遇することはないし、窓から見つかったところで走って逃げればいいだけだ。
暗い夜道だが、町の外で赤く燃える炎があるし、かすかな月明かりもある。そして目指す目的地は高さがあり闇夜にも目立つため、知らない町でも道に迷うことはない。
歩いているうちに、北西の方角の騒ぎは徐々に聞こえなくなり、しん、とした夜の町になる。なるべく足音を立てないようにと歩くが、それでも自分達の足音がうるさすぎると感じてしまうほどで、緊張しながら向かう。だが、目的地を目の前にして、大きな地鳴りのような音が響いてきた。
地面がかすかに揺れる。徐々にそれは大きくなり、地震のように建物が揺れ始めた。立っていられないというほどではないが、それでも大きな音が響いたから、震源では建物に被害も出ているのだろう。音の方角から少し離れたここでも、家の中で何かが倒れる音や、人々の慌てた話し声などが聞こえてきた。
「普段から偉そうにしてるだけはあるわね」
隣でぽつりとセリーナの声がして、ジャクソンは苦笑する。
「オーウェン?」
「でしょ。土の民もこれだけの大魔術が使えれば、地味なんてものじゃないわね」
オーウェンが先ほど捕まえた土の民を使って大地を揺らしているのだろう。普通の魔術師が土の精霊を動かしたところで、せいぜい地鳴りや地割れが起きるくらいだ。これほどの地震を起こせる魔術師など、ジャクソンは見たことがない。これがアルブで一番の魔術師の実力ということなのだろう。
先ほどまでジャクソンたちがいた方角、黒い建物に大きな炎が襲った。上空に大きく立ち上った炎は、誰かが兵舎に火の民をぶつけたものであるはずだ。兵舎からなるべく人を出した上で、その建物を破壊して燃やすというのは当初の計画通りだ。
「俺たちも上ろう」
ジャクソン達が立っているのは、大きな見張台のような細い建造物の真下で、長い柱に梯子がついている。セリーナは何も言わずに梯子に手をかけてするりと登っていったが、ヘレナは登れるだろうかと思っていると、彼女はまた風の民を使ってふわりと上まで身を運んだ。それを見てから、ジャクソンも梯子を登る。
上まで上ると、そこは三人が立つぎりぎりのスペースしかなく、上には大きな鐘がついている。セリーナはそれの紐を掴むと、ジャクソンを見た。
「もう鳴らして良い?」
「合図もあったし、いいんじゃないか」
そう言った瞬間、頭と耳がおかしくなりそうなほどの大音量で鐘が鳴った。
ジャクソンは思わず両耳を塞いだし、ヘレナも耳を押さえて座り込んだ。紐を掴んでいたセリーナだけは耳を塞ぐことが出来なかったようで、目を白黒させていたが、紐から手を離すと何故だか自分の頭をばんばんと乱暴に叩く。
「ちょっと、耳が死んだわよ!」
「セリーナの思い切りがよすぎるんだよ」
自分の声もおかしく聞こえるほどの衝撃だが、町中に響かせるためにはこれくらいの音量が必要なのは間違いない。セリーナは先ほどまで握っていた紐を睨むようにして言った。
「もうやらないわよ」
「十分だろ」
地震と鐘の音を聞いて、人々が家から飛び出してくるのが見える。