三章 ウィンストンの目的4
「今日は少し寒いね」
広いバルコニーに出ると、レックスはそう言って優しく笑った。暗がりだが、彼の吐いた息が少しだけ白くなっているようにも見える。クリスはぎゅっと上着の前を合わせながら、レックスのそばまで歩いていった。
「そうですね。お待たせしてしまいましたか?」
レックスの部屋の窓が開いた音を聞いて、クリスも出てきたのだ。待たせているわけではないとは分かっていたが、レックスが外に出てくるのを今か今かと待っていたのを悟られるのも恥ずかしい。クリスの言葉に、彼は首を横にふった。
「ううん。いま出てきたところだよ」
彼が着ているゆったりとした服は、ウィンストンが準備してくれた部屋着なのだろう。それに上着を肩にかけて羽織っているレックスは、普段見る彼よりも大人びて見えた。
実際、レジナルドの成人の儀式が終わったのだから、彼と同じ十八歳のはずのレックスも、既に大人なのだ。中身もクリスと同じ年しか生きていないとは思えないほど大人なのだが、仕草や表情が、女性のクリスから見てもとても可愛らしい。昔はレジナルドとよく似た顔立ちの子供だったが、より妖艶で美しい青年に成長しているレジナルドに比べて、レックスは未だに少年のような透明感がある。
「ここはとても居心地がいいね。みんなとても良くしてくれる」
そう言ったレックスに、クリスも大きく頷いた。
ウィンストンは必ず食事は一緒にとってくれるし、ここにいる使用人たちも困っていることはないかと、積極的に話しかけてくれる。クリスがロイズの屋敷にいたときは、早く家を出たいと常に思っていたし、近衛として王城近くの兵舎にいた時も、門限や監視や規則などが多くて息苦しかった。それを考えると、自分の家にいる時よりもずっと、居心地がいいくらいなのだ。
そして何より、レックスと一緒にいられる。
昼間も一緒に行動しているし、夜も眠る前にはこうしてレックスと話をしていた。ふたりきりで星を眺めながら話ができる時間は、本当に夢のようだった。次の日も会おうと約束しているわけではないが、レックスは欠かさず外に出てきてくれるし、クリスが外に出ると本当に嬉しそうに笑ってくれる。クリスはその笑顔に胸がいっぱいになり、どきどきとなる心臓が痛いくらいだった。
「少し、話をしてもいい?」
だが、改まってそんなことを聞かれて、クリスはどきりとした。
居心地が良くて夢のような場所だからこそ、いつこの夢が終わるのか——と。そんなことを毎日のように考えてしまう。
「話?」
「うん。クリスが良ければ僕の部屋に来ない?」
「え?」
急に部屋にと言われてクリスが目を瞬かせると、レックスは少し困ったように笑った。
「ごめんね。女性を部屋に誘うのは良くないと思うけど、ここは少し冷えると思うし、他に二人きりで話が出来る場所がなくて」
そんなことを言われて、クリスはぶんぶんと首を横に振った。
あくまで話がしたいだけだということなのだろう。本当に寒いから中に入ろうと言っているのか、それとも長い話になりそうだから座ろうと言っているのかは分からないが、レックスはきっとクリスのために言ってくれたのだ。レックスの寝室に二人きりなんて、と不安なのか期待なのかを覚えてしまった自分がむしろ恥ずかしい。
「はい、大丈夫です」
クリスの言葉に、レックスは部屋の中に案内してくれた。隣の部屋だが入るのは初めてで、クリスの部屋とは趣の違う落ち着いた色合いの絨毯や寝具に、浮き足立つような感覚がする。レックス自身の持ち物はないだろうが、それでも綺麗にたたまれた衣服や机の上に置かれた紙やペンが、レックスの部屋だと思わせた。
ひとりがけのソファに座るように促され、レックスはテーブルの上の茶器から飲み物をカップに注いだ。手渡されるままに口をつけると、外に出て冷えた体がぽっと温まる。中に入っていたのは温かなミルクだった。
「これは?」
「寝る前に温かいものが飲みたいってお願いしたら、エリーさんが作ってくれたんだ。さすがにカップを二つ、とは言えなかったけれど」
エリーさんとはこの屋敷の使用人の一人だ。悪戯っぽく言ったレックスに、クリスは慌てて中身が半分ほど減ったカップを返そうとする。
「ごめんなさい、ひとつしかないんですね」
レックスは椅子をソファの前に移動させると、そこに腰をかけた。そしてカップを受け取ると、首を傾げる。
「飲んでもいい?」
「はい」
「ありがとう。でも、中身はまだあるから大丈夫だよ」
レックスはカップに口をつけて中身を飲み干してしまってから、また中身を注いでクリスの前に置いてくれた。
「ありがとうございます。準備していただいてたんですね」
「うん。誘ったら中に来てくれるかなと思って」
どういう意味で言っているのだろう。彼はそう言ってから、じっとクリスを見た。クリスが座っているソファは高さが低いから、椅子に座っているレックスからは見下ろされているような格好になる。とても真剣なその顔を見上げていると、クリスはどこか不安な気持ちになった。何の話だろうと想像している時間が怖くて、自ら口を開く。
「あの、お話って」
「ここでウィンストンに会った時、ウィンストンが僕たちには話せない目標があるって言ってたの覚えてる?」
これからどうするかという話か、ウィンストンについて話だろう、と身構えてはいたので、想像通りの話ではあった。それでもどきりとしてしまったのは、今後を大きく左右する話だからだ。
「……レックスが協力してくれないなら話せない、と言われていましたね」
「うん。ここ三日くらい一緒にいて、ウィンストンたちが何をしようとしてるのか、僕はなんとなく分かった気がするんだけど」
そんなレックスの言葉に、クリスは密かに息を飲む。クリスも一緒に行動していたはずだが、クリスは何も分かっていない。というよりも、目まぐるしく変わっていく状況に、クリスはただ流されているだけで、具体的なことは何も考えていなかったかもしれない。
視線で話を促すと、レックスはゆっくりと続けてきた。
「そもそもウィンストンのために僕が出来ることって、ほとんどないんだよね。中央ならともかく、ここには彼にとって信頼できる優秀な味方は山ほどいるだろうから。僕が必要になる場面があるとしたら、僕がレジナルド殿下の代わりとして、何かをすることだけだ」
たしかにレックスはただのレジナルドの身代わりだ。利用できるような家柄や地位があるわけでも、特殊な技能があるわけでもない。中央や王宮について他人より詳しいかもしれないが、それは何年もレックスと王宮の橋渡しをしていたウィンストンにとって、欲しい知識でもないだろう。
これまではレジナルド殿下の代わりになるということ自体に意味があり、だからこそレックスは重要だった。だが、ウィンストンに対してそんなものに意味はない。
「王太子殿下としてって、誰に対してです?」
「さあ。それは分からないけど、僕の顔を見たことのある人間は国内外にいるからね。たぶんレジナルド殿下本人より多いと思う」
そう言って、彼は長めに揃えた前髪に触る。
彼の髪型はレジナルド殿下に合わせたものだし、背格好もほとんど同じだ。雰囲気は全く異なるが、顔の造形自体はレジナルド殿下に似て整っており、中性的なものだ。
レックスは国内の貴族たちや国外の使者たちと、顔を見て話もすることもあったし、大勢の民衆の前に立ったこともあった。レジナルド王太子殿下は成人するまで本当に要所でしか姿を見せていないから、たしかに本人よりも王子として顔が通っているはずなのだ。
そう考えると、どきりとするものはある。
「……王子を詐称して立ててやりたいことと言われると、怖い想像しかできないですけど」
「そうだよね。普通に考えれば、王家に対する叛逆行為だ。でも、それは王宮も望んでるんじゃないかと思ってる。そして、そこまでウィンストンは分かってると思うな」
「は?」
クリスは思わず目を瞬かせた。
さらりと言われた言葉が、うまく飲み込めずに頭の中で繰り返す。王家に対する反逆行為を王宮が望んでいる、とはどういうことだろう。そしてそれをウィンストンが分かっている、というのもまったく意味がわからない。