二章 ヘレナの導き10
「ま、ヘレナの風の民が役にたったのは確かだが、別になくてもなんとかはなってたぜ」
「兵士も民間人も全員、焼き払えば逃げられるって?」
「それもアリだな。あんたもセリーナやダレル達を見捨てて逃げたんだから、結局は自分の身が一番ってことだろ」
そんなことを言ったエヴァンに、ジャクソンは地面についていた手をぎゅっと握りこんだ。
すでに誰かから状況を聞いているのだろう。オーウェンからもさんざん見捨てたと言われていたこともあり、今さら動揺するというよりは、エヴァンに対する純粋な怒りしか浮かばなかった。
「ヘレナもな。あいつはいつだって自分とジャクソンが一番だ。あんたは気づいてないのかもしれないが、足手纏いを置いてきたのはあいつだよ」
「セリーナのことを言ってるのか? セリーナを連れて行かなかったのはヘレナじゃなくて俺だよ」
「違う。ヘレナが水の民を使っただろう。全員の視界を奪って動けなくして、あんただけ呼んだんだ」
エヴァンの言葉で、怒りで満ちていた熱い頭に、一気に冷や水を浴びせられたような気分になる。
「どういうことだ?」
ジャクソンは思わずそう問い返しながら、あの時の白さを思い出していた。
視界が全く見えなくなるほどの濃霧。ちょうどジャクソンが敵に襲われていた時に、彼女が水の民を呼んだのだ。それは敵の足を止めるためだったのだろう、とジャクソンは思っていた。仲間の魔術師であれば、ヘレナの精霊達の姿が見えるはずなのだ。彼女のいる場所はすぐに分かるはずで、ジャクソンも自分の足元さえ見えない視界の中でも、ヘレナと合流できた。
「ついでにカーティスを呼んだのは、あいつの魔術が必要だったからだろうな。ヘレナは逃げるのとジャクソンを助けるので精いっぱいだし、あれは足手纏いにはならない」
ジャクソンの背中を片足で固く踏みつけたまま、頭上から声を落としてくるエヴァンに、ジャクソンは体を震わせる。表情は見えないが、声は平坦であくまで冷静だ。
「視界が奪われても、ヘレナの精霊がいればすぐに居場所は分かるだろう」
「ヘレナがわざと隠しでもしない限りはそうだろうな。それで誰か仲間が合流したか? あんたセリーナを背負ってたんだろうから、随分とゆっくり歩いてたと思うけどな」
ヘレナが視界を奪って皆を動けなくしたうえで、自身の精霊を見せないようにした。それは足手纏いを切り捨てて自身が逃げるため、もしくはジャクソンを逃すためだったのだ——と言いたいのだろう。
「……だが、俺にはヘレナの精霊は見えたよ」
「だから、あんただけを呼んだんだろ。ヘレナならそれが出来るし、カーティスも急に精霊の光が見えたって言ってたからな」
その言葉で、エヴァンに状況を伝えたのはカーティスなのだと分かった。ここに来る前に、カーティスと先に会ったのだろう。エヴァンとカーティスは、特別仲が良いというわけでも無かったが、エヴァンはカーティスの才能を認めているようで、彼にしては面倒見よく魔術を教えてあげているようではあった。
「ああ見えてヘレナは計算高くてしたたかだ。あんたを助けるのに必要なカーティスを呼び寄せて、足手まといのセリーナを切り捨てた。——それに気づいてないのは、おめでたいジャクソンだけだよ。他の二人は聡いから気づいてるだろうな」
エヴァンの言葉に、ジャクソンは言葉を失う。
そういえば、彼女が水の民を使ったタイミングも、ジャクソンが窮地にいたときだった。
オーウェンもヘレナはセリーナを置いていくことはできても、ジャクソンを見捨てられないのではないかと言っていた。セリーナが大怪我をして倒れそうになった時でなく、ジャクソンが兵士に剣を向けられた時にヘレナが魔術を使ったのは、偶然ではなく恣意的だったのだろうか。
彼の言葉に、泣いていたヘレナの顔を思い出した。
先ほどここで彼女はエヴァンと何の話をしていたのだろう。この話をしていたのだとすれば、あの強張ったような表情も、ジャクソンを見て逃げ出した理由も、なんとなく納得してしまう。
「だけど」
ジャクソンはそう呟いたが、続く言葉は見つけられなかった。しばらく地面を睨むようにしていると、エヴァンはさらに話を続けた。
「あんた、クェンティンに軍に売られたんだろ」
古傷をさらに抉られるような言葉に、ジャクソンは殴られたような衝撃を受ける。そういえば、あの時もヘレナがジャクソンを助けにきてくれたのだった。
「なんであいつそんなことしたんだ?」
「そんなの俺が知るかよ!」
ジャクソンは思わず叫ぶが、エヴァンは冷静に口にする。
「仮に俺があいつだとすれば、理由は言える。ヘレナからジャクソンを取り上げることと、軍に対しての憎しみをヘレナに抱かせるためだな」
は、と息を吐く。
「あんたが軍に処刑される——もしくは処刑されたととなれば、ヘレナは本気で戦う気になるだろうからな。俺ら魔術師が国に対抗するためには、ヘレナの協力が不可欠だ。俺があんたを軍に差し出してもいいが、ヘレナの怒りがこっちに向くのは嬉しくないな」
エヴァンがそう言った時に、近くで足音がした。
夕暮れ前でほとんど人通りはなかったが、完全に無人というわけではなかった。争っている二人を見て、誰かが止めに来たのだろうかと思っていると、聞き慣れた声がした。
「エヴァン、久しぶりじゃない」
「セリーナ」
「なんだかすごくいい眺めだけど、私が代わってもいい?」
エヴァンがジャクソンを足で押さえつけたままであることを言っているのだろう。エヴァンが足を浮かせたので、その隙にジャクソンはその足の下から起き上がった。視線を上げると、日は地平に沈んでしまっていた。赤い色の空が、かろうじて彼らの表情を照らしている。
「元気そうだな。死にかけてたって聞いたが」
「運だけはいいのよね」
「まあ、あんたもヘレナのお気に入りだもんな」
「嫉妬してるの? 自分がヘレナに相手にされないからって」
セリーナの言葉に、エヴァンは楽しそうに笑う。彼らは年も近いし、集落にいた頃からこんな調子で悪態を付き合っていた。仲が良いのか悪いのか分からないが、少なくともエヴァンの方はセリーナを嫌ってはいないだろう。
「相変わらずだな。あんたもヘレナと一緒でジャクソンを守りに来たのか?」
「子供同士の喧嘩に口を出す気はないわよ」
「そんな物騒な精霊を連れてきてよく言うよ。そんな風の民、よく見つけたな」
「ヘレナの精霊を引き剥がしてきたの。新しい子だから、私の方に懐かないかと思ってちょくちょく借りてるんだけど」
「セリーナなんかがヘレナの真似を出来るわけない。手放したら消えるだろ」
「まあね」
セリーナはそう言ってから、ちらりとジャクソンを見た。
「なんか酷い顔してるけど」
「……いつも通りだろ」
「そうかもね。たしかにいつも通りの情けない顔だわ」
笑いながら言ったセリーナに、ジャクソンは何も言い返せなかったが、代わりにエヴァンが目を細める。
「こんな男のどこが良いんだろうな。女の趣味は分からないな」
「私も分からないけど、エヴァンもモテたいならその鬱陶しい髪を切ったら良いんじゃない? 私が切ってあげましょうか」
「別に女はどうでも良いが、鬱陶しいのは確かだ。気が向いたら頼みにくるよ」
冗談なのか本気なのか、彼は口の端をあげてそう言った。無造作に後ろに一つに束ねられた髪は、単に切るのが面倒だっただけか。集落では何度かセリーナに切ってもらっていた気がする。
「しばらくはアルブに留まる予定だから、また会うだろうな」
彼はそう言うと、ジャクソン達に背を向けた。どこかに寝泊まりする場所が決まっているのか、迷う様子もなく暗い町の中に消えていった。