序章 軍の兵士たち3
「元気そうだな」
寝台に横になったままの姿を見下ろし、全く感情の篭らない声でそんなことを言われて、アランは「おかげさまで」と返した。
長兄のトリスタンはアランよりも十歳ほど年上であり、三つ上の次兄とは違い、兄弟というよりなんなら父のような存在である。いつも皺のない新品のような軍服を身につけ、綺麗に前髪を撫でつけ、余程のことがないかぎり動くことのないそのまっすぐな眉は、アランが嫌いな上官のイメージそのままだ。
西軍一部の隊長だとロジャーは言っていたから、アランの知らない間に出世していたのだろう。西軍の副将軍はアランたちの父親であるから、多少は七光もあるのかもしれないが、それにしたって年齢からすると異例の地位ではある。
「アランは中央三部内の中隊長だったように記憶しているのだが」
アランが考えていたことを読んだわけでもあるまいに、その言葉にはどんな意図のあるのだろう。中隊長はせいぜい部下が数十人ほど、それに対して一部の隊長なら配下には数百人ほどの兵士がいるはずで、それを自慢でもしたいのだろうか。久しく会っていない弟が、それなりに怪我をして実家のベッドに寝かされているのだ。他にいう言葉がいくらでもある気はするのだが。
「ブレンダンは近衛だそうですね」
特に意味もなく次兄の名前を出すと、あいつは変わらず一兵卒だ、と吐き捨てるように言われた。
クリフォード家は歴代軍人の家系で将官を多く輩出しており、アランも含め兄弟や従兄弟はみな軍に籍がある。とはいえ当然だがタイプはそれぞれで、父と同じで人の上に立つ資質があるのだろうトリスタンに対し、ブレンダンは未だ軍の内部にいることが奇跡のような、自由奔放な一匹狼だ。当然だが、二人は水と油のように全く合わない。
「一兵卒でもあるまいに、隊長が単独で魔術師と交戦して負傷するというのは、いったいどんな状況なんだ? 現場の配置や指揮がどうなっていたのか、全く想像すらできないんだが」
なるほどそういう話か、とアランは能面のような兄の顔を見上げる。
たしかにトリスタンや父には理解できないだろう。彼らは前面に出ることなどないから、配下が全滅でもしない限りは負傷することもない。そもそも彼らは幹部候補として貴族達と共に軍属の学校で学んだ上で軍に入っているから、兵士として前線で戦った経験などないはずだ。
黙っていると、トリスタンは部下に説教をするような口調で話を続けてきた。
「誰がアランを中隊長に推したのかは知らないが、剣を振り回すしか能がない人間が現場の指揮をとることは、兵士たちにとっては不幸でしかない。五人一班の小隊長でさえ、配下の隊員の把握に努める義務があるのだからな。長が現場に突っ込み現場の指揮をおろそかにすることは、大切な兵士を無為に浪費し、軍にとっても反逆的な行為だと早々に自覚することだ」
どうせ所属に戻れば誰かに聞かされるような説教に、心底うんざりする。
そんな大切な兵士達を無策に魔術師にぶつけようとするのが軍なのだ。どうも数で凌駕すればあとは何とかなると思っている上層部が多く、そんなことを言われても全く説得力がないのだが、彼の言葉はいつも正論じみていて、本気でそう思っているのか単なる詭弁なのかいまいち掴めない。
アランからすると、剣を振り回したことも斬られた経験すらない人間が、まるでゲームの盤面上で動かすかのように兵士を派遣して危険な場所に配置する方が、よほど現場の兵士にとっては不幸なことだと思うのだが。
「現場の状況と配置が知りたいのなら、時系列でお教えしますけれど」
まだ続きそうだった説教に口を挟むようにして言ったアランの言葉に、トリスタンは盛大なため息をついた。
「今の地位を捨てたくないなら、もう少し可愛げを持った方がいい。中央三部長とは話したことがあるが、人を見る目はあるように見えたからな。いつまでクリフォードの名前に惑わされてくれるかは分からない」
トリスタンが部隊長であることをアランは親の七光だと思っているように、彼はアランが若くして中隊長をやれていることもそうだと考えているのだろう。父や叔父が幹部にいる西や南ならともかく、中央ではクリフォードの家柄を敵視する人間の方が多いくらいで、さほど助かった経験はない。とはいえアランも父や兄と同じでもともと幹部候補であり、一兵士の経験などないから、そうした意味では優遇されていると言えるかもしれないが。
「俺を任命したのは三部長でなく大隊長ですしね。彼の人を見る目は知りませんが、彼はクリフォードの名も知らないみたいでしたよ」
我ながら単なる口答えでしかない答えだが、狙い通り兄を苛立たせることは出来たらしい。いつも澄ました顔が目に見えて変わったので、アランは少し満足する。同じ西軍にいるならともかく、トリスタンを怒らせたところでさほど困りもしない。どうせ怪我が治って兵舎に帰れば、次に顔を合わせるのは年始の大祭くらいだろう。
「それは不幸なことだな。その人物の周囲には、クリフォードの名にふさわしくない馬鹿しかいないのだろう」
バカ、と吐き捨てるように言い放たれて、アランは密かに苦笑する。アランの言葉も子供じみてはいたが、彼は彼で意外と大人げない。
とはいえ、今回ばかりはたしかに馬鹿と言われても仕方のない失態だったか、とは思う。ロジャーは何も言っていなかったが、戻れば何かしらの処分は受けるのかもしれない。
全く反対の長兄と次兄の背中を見て育ったからか、どうもアランは中途半端な人間だった。
別に中隊長なんて地位にカケラも未練はない。自分の腕には多少なりとも自信はあるのだし、ブレンダンのように命令など聞かずに一人で身軽に動きたい気持ちはある。いっそ軍部から足を洗いたいくらいの気持ちなのだが、それでやりたいことはないし、それで残してしまう部下達に対する未練はあるのだ。
隊長としても力が不足しているわけではないと思っているし、周囲が見えていないわけではない。何かが起こると想定した事前準備も、周囲の隊との調整も、実際に魔術師が現れてからの兵の配置も悪くなかったはずで、特にそこについて責められる点があるとは思っていない。
ただその場を副官に任せてアラン自身が動いたのは失策であり、魔術師を発見した際にそこに一人で突っ込んだ点は愚策としか言いようがないだろう。そのうえでせめて魔術師を捕まえていれば格好もつくが、アランは怪我を負って倒れ、魔術師も全員をとり逃しているのだ。
あそこにいたのがトリスタンなら、大勢の兵を動かして多少の犠牲は覚悟してでも魔術師を捕まえていただろうし、ブレンダンならあそこで人質を殺してでも一人で三人とも捕まえていたかもしれない。
「まあいい。中央の人材不足には興味はないからな。私はお前とくだらない話をするためにわざわざ足を運んだわけではない」
さんざん嫌味を言っておきながら、トリスタンはそんなことを言った。このまま嫌味を応酬したところで意味がないことくらいは分かっているのだろう。はあ、と答えたアランの体を、トリスタンは冷ややかな顔で見下ろした。
「腕は動くのか?」
急に怪我の心配をされ、アランは警戒する。何をさせるつもりかと、包帯でぐるぐるに巻かれた腕を示して見せる。
「見ての通りですが」
「明朝までに報告書をまとめろ。先ほど示すと言った時系列での状況経過と、お前が遭遇した魔術師たちについての全てだ」
当然のようにそんなことを言い放されて、アランは口を開ける。
「すべて?」
「魔術師たちひとりひとりの特徴や彼らの使った魔術の詠唱の一言一句、魔術の効果、彼らの動線やその他、お前の頭の中にあるもの全てだな」
「……ここに来る前にもそれなりに聴取された記憶はあるんですが」
記憶が曖昧だったが、そういえば治療を受けている間中、別隊の兵士たちに囲まれて根掘り葉掘り聞かれていた気がする。追おうとする魔術師たちが使った魔術の情報を知りたい気持ちはわかるから、それについてはそれなりに真摯に答えていたのだ。
「時間が経って思い出すこともある。どうせ散々眠っていたし、これからも無為に寝ているつもりだろう。それならせめて有意義に時間を使ったらいい」
「……うちの上官から命じられたら考えますよ」
「必要ない。中央の将軍には、動けるようになるまではアランの身柄を預かると父から言ってある。今のお前の上官は俺だ」
そんなことを言われて絶句した。
中央の将軍は査問のために王宮に召喚されたと言っていたから、そんなどさくさでアランの身柄を一時実家に戻したということか。
魔術師の情報はそれなりに貴重だ。そうすることでアランから色々と情報を聞き出して把握しようとしているのだろう。軍は典型的な縦割り組織だから、西が先んじて情報をにぎることが何かと有利に働くのかもしれない。
「さすがにまだ文字は書けそうにないんですが」
せめて弱々しく腕をさすって見せる。
というより怪我をしたのはせいぜい昨日のことだ。そんな弟に病床から起き上がって、事態の報告をまとめろと命じるのは我が兄ながら悪魔すぎる。しかも明朝までというのは、くだらない権力争いのためだろうか、もしくは懲罰のつもりか。
アランの言葉に、トリスタンはやはり眉一つ動かさなかった。
「それならそれでいい。口は十分過ぎるほど動くようだから、尋問して記録する人間をここに寄越そう。すぐに手配するから、せめて見られる格好にしておけ」
彼はそう言うと、長居は無用とばかりに部屋を出ていく。夜通しトリスタンの部下に尋問されるくらいなら、自分で記載した方が良かった気もするが、それも腹と腕の怪我がなければの話だ。
アランは苦い息を吐いて天井を見上げる。
——とはいえ、あの場では半ば本当に殺される覚悟を持って、剣を手放したのだ。それでもアランは生きており、部下も生きており、彼女達も捕まっていない。生きているだけマシといったところか。
一度出会っただけで、しかもこちらは殺されかけているのだが、それでも彼女達の強いまっすぐな視線が頭に焼きついて離れなかった。それがいのちの輝きそのものの強くて儚い光に見えたのは、アランが勝手に彼らの命運を案じてしまっているせいか。
しかしそれでも軍に所属するアランに出来ることなど何もない。アランは別に普段から命を脅かされているわけでも、生活に困っているわけでもないのだから、同情するにも烏滸がましい。
それどころか、アラン自身が、いつか彼らを捕まえて、処刑台に送り込む日が来るのかもしれないのだ。