二章 ヘレナの導き9
ヘレナははっと顔をあげてジャクソンを見た。
その頬には涙のあとがあり、青い瞳も潤んでいる。やはり泣いていたのだろう。だが、それはエヴァンに会えて嬉しいという涙には到底見えず、普段から白い顔はさらに青白く見え、表情は強張っている。大きく開かれた瞳には、どこか怯えたような色もあり、ジャクソンは思わず駆け寄ろうとした。
が、その前にヘレナはジャクソンから逃げるように、走って行ってしまう。
「ヘレナ!」
声をかけたが、彼女は振り返らない。追いかけようと思っていると、視界を遮るようにエヴァンが目の前に歩いてきた。
エヴァンの目線はジャクソンよりも低い。中背か少し小柄であるはずなのだが、いつも雰囲気に圧倒されるからか大きく見える。年齢もジャクソンよりも二つほど下のはずだが、相手はジャクソンのことを年上などと思ってはいないだろう。
彼の瞳は少し青みがかってはいるものの、黒や灰色に見えて、髪も落ち着いた色をしている。顔の造りだけでいうと年齢より若く見える気がするが、それでも雰囲気は大人びている。
「久しぶりだな」
声はまさしくエヴァンだが、長くなった髪をひとつに結んでいたから随分と印象は違った。いつも長めの前髪が瞳を隠していたのだが、今は額が見えていて、その強い視線がそのままジャクソンに刺さる。
「……無事だったのか」
「残念だったって口ぶりだな」
エヴァンはそう言って目元だけで笑った。
クーロの集落で初めてエヴァンに会ったのは四年ほど前で、彼はちょうどいまのカーティスと同じくらいの年齢だった。その頃から魔術師としての才能は頭ひとつ抜けていたし、あまり周囲と馴れ合うつもりはなさそうだったが、それでもジャクソンは年も近いこともあって仲良くなりたいと思っていた。
ジャクソンと同じ倒壊寸前の家の、狭い部屋で一緒に何年も寝泊まりしていたのだから、話す時間はいくらでもあった。お互いのことを色々と話をしたし、彼と一緒に大人達に混ざって剣術も学んだ。そして魔術師としては全く及ばないものの、魔術を使った戦い方について、セリーナも含めて三人でよく検討したのだ。実際に山の中で色々と試してみたりして、お互いの練習台になったりしていた。
そんなエヴァンが姿を消したことを、当然だが仲間や家族として心配している気持ちはあった。
——だがそれと同じくらい、彼に対する怒りや虚しさもある。
彼が王子を襲撃したことによって確実に、軍の粛正が激しくなったのだし、その結果、多くの魔術師達が処刑されている。クーロの集落が軍によって攻められたのもきっとその一環なのだろう。エヴァンのせいでダレル達が殺されたのだなどと言うつもりはないが、それでも彼があのようなことをしなければ、という考えを拭い去ることができない。そうでなくても、もし彼があの場にいてくれれば、もう少しみんなを助けることができたのではないか——なんて、自分の無力さを棚に上げてそんなことを考えてしまうのだ。
何を言えばいいのかわからず、ジャクソンは彼の言葉には答えずに聞いた。
「これまで何処にいたんだ?」
「色々とな。俺はあんたと違って忙しいんだ」
そんなことを言われて、ジャクソンは眉根を寄せる。忙しいということは、単に兵士たちから逃げていたというわけでなく、何か目的があって動いているということだろうか。
「……みんなのことは知ってるのか?」
ジャクソンの言葉に、エヴァンは冷たい瞳の温度をさらに下げた。
「あんたら以外はみんな殺されたって聞いてるよ。軍に襲われたって聞いてヒヤリとしたが、ヘレナが残って良かった」
平然と投げられたそんな言葉に、思わずジャクソンは彼の胸元に手を伸ばした。だが、エヴァンの方は掴まれないようにと軽く後ろに飛んでかわす。睨みつけると、彼の方はふっと口元を緩めた。
「気安く近寄るなよ、燃やすぞ」
「やってみろよ。いくら俺が間抜けでも、この距離で精霊を呼ばせるかよ」
「やってみてもいいが、俺があんたを殺すのはうまくないな」
「やる前から負け惜しみか? ——土の民」
ジャクソンが精霊の名前を呼ぶと、彼ははっと瞳を大きくした。ここでジャクソンの方から魔術を使うとは思っていなかったのだろう。周囲に使えそうな精霊は、エヴァンのそばにいる火の民くらいしかいない。
「捕えろ」
素早く精霊を動かす。
一瞬、彼がふらついたように見えた隙に、彼の懐に飛び込んで、胸元を掴んだ。完全に動きを止められなくても、隙を作るくらいなら、その辺の弱い土の民で事足りる。そのまま喉を絞めるように襟元を絞り上げた。エヴァンは顔を歪めたが、すぐに視線を鋭くしてジャクソンを睨みつけた。
彼は口を開いて何かを言ったが、喉を掴んでいるから声にはならない。
「そういえばエヴァンが戻ってきたら、俺が縛り上げろって言われてたんだったな」
それを言ったダレルの顔が浮かんで、ジャクソンは胸の辺りをぎゅっと掴まれるような気持ちになる。本当にそれができればよかったのに、と思う。彼が帰ってくれば、エヴァンをこうして捕えて縛り上げて、ダレル達がきっと何かを言ってくれただろう。そしてそのまま彼が集落にいてくれれば、軍が来る前に逃げ出す決断ができたかもしれない。
「ジャクソン、あとで覚えてろよ」
「あとでな」
魔術を使うのに必要な声をいつでも封じられることを示せば、あとは首元を緩めている。彼の両手は空いているが、単純な力だけでいえば、体の大きいジャクソンの方が強いのだ。
「なんで王子を襲った?」
「理由がいるのか? むしろなぜあんたたちはデニスを助けなかった。今までさんざん世話になった人間が、自分達のせいで処刑されるんだ。ただ見物してるだけの神経の方が俺には理解できないな」
「デニス達を助けるつもりだったのか……?」
「いや」
そんなことを言ったエヴァンに首を捻る。彼は夕日の赤に照らされて、真っ黒に染まる瞳を眇めた。
「助けるのは不可能だったからな。せいぜい騒がしてやっただけだよ。王子を道連れにすれば、多少は浮かばれるだろ」
「だが、そのせいでどれだけ——」
エヴァンのせいでどれだけの魔術師が犠牲になったのだ、と。
思わず声にしかけて、ジャクソンは言葉を飲み込んだ。魔術師を匿ったというだけで首を落とされて処刑された、デニス達のことを思っての行動だったのだとすれば、何もできなかったジャクソンに彼を責める権利などない。
だが、エヴァンの方は口の端を上げる。
「どれだけ魔術師が死んだかって? そんなの俺が知るわけもないが、それがなんだって言うんだよ。死ぬのが早いか遅いかだけの違いだ。どうせ殺されるなら、断頭台に引きずられるより、戦って死ぬ方がマシだ」
そんなことを言ったエヴァンの瞳は黒く、そしてとても強い。全く迷いも感じさせないその口調に、ジャクソンは怒りが半分、それから恐ろしいような気持ちが半分になる。
「死ななくて良かった命もあるはずだろ」
「誰のことを言ってるのかは知らないが、どうせクーロはマークされてた。遅かれ早かれだな」
「エヴァンは分かってて、クーロを見捨てたのか……?」
ジャクソンが思わずそう呟くと、彼は可笑しそうに笑った。
「実際に見捨てたのはあんた達だろ。いや、ヘレナかな」
「どういう意味だよ」
ジャクソンはぐっと手に力を入れる。
彼の手足の動きは注意していたはずが、思わず怒りで注意が散った。その隙に、エヴァンの拳がジャクソンの顎に当たっていた。衝撃に視界がブレると同時に、気づけば膝が地面についていて、背中に肘を入れられる。
痛みに地面に伏すと、そこを足で踏みつけられた。
「いい格好だな」
「……あとで覚えてろよ」
ひととおり咳き込んだ後に、先ほど彼が言ったセリフを真似ると、嘲笑が降ってきた。
「ヘレナに泣きつくのか?」
「ヘレナがクーロを見捨てたなんて、良くそんな酷いことが言えるな。ヘレナは皆のためにずっと動いてくれていたんだ。それに、エヴァンのことも心配してた。あの時もヘレナが貸した風の民で逃げられたんだろ」
ヘレナはエヴァンのことを本当に心配していたし、エヴァンもクーロではヘレナと仲良くしていそうに見えていたのだ。エヴァンはヘレナと同じで『精霊の目』を使える特別な魔術師であり、お互いに仲間意識のようなものがあるようにも見えていた。