二章 レックスの行方9
ウィンストンに案内されたのは、彼の私邸のニ階にある部屋だった。久しぶりに会ったこともあるし、今後の身の振り方はどうあれ、しばらくはこちらで過ごせば良いと言われ、レックスと共に快諾したのだ。
「こちらがレックスの部屋で、こちらがクリスの部屋です。至らない点や要望等があれば、彼らにお伝えください」
ウィンストンはそう言って、使用人たちの名前を一人一人教えてくれた。
こちらの地方では当然のことなのか、それともウィンストンが特別なのかは分からないが、とても新鮮に思える。レジナルドの王城やロイズの屋敷でも、使用人の名前など知らなくて当然だという雰囲気なのだ。クリスも最近、屋敷に寄り付かないこともあるが、知らない顔や名前も多い。
「レックスです、よろしくお願いします」
丁寧に頭を下げたレックスに倣って、クリスも頭を下げる。
「長旅でお疲れでしょうから、明日はゆっくりお休みください。食事は一緒に取りましょう」
「はい。お心遣いありがとうございます」
使用人たちがいる前だからか、レックスはウィンストンに敬語で話をしているのだが、ウィンストンもそんなレックスを丁重に扱っているから、使用人たちは二人のやり取りを不思議そうに見つめている。レックスのことはさすがに話していないだろうから、ウィンストンに敬語を使わせるレックスは他国からの賓客とでも思われていることだろう。
「また明日」
お互いにそう言い合って、クリスは部屋に入る。
一見して豪華絢爛な部屋というわけではないが、枕元に刺繍のされた布がかけられていたり、戸棚には花が飾られていたりと手の込んだ温かみのある部屋だ。大きな窓もあり、開けるとそこは外に出られるバルコニーになっているようだった。
ベッドには着替えなども揃えられていたし、膝や肩にかけられるようなストールや、鏡や櫛なども準備されている。ほとんど何も持たずに家を出てきたから、至れりつくせりで涙が出そうになる。よほど実家に戻るよりも自分の部屋にいるような気分で、クリスは準備されていた寝着に袖を通した。
寝台に横になると、まるで夢のようだと思った。
ここに来るまでには、レックスに会うこともできなかったし、レックスはもしかしたら死んでいるかもしれないと思っていたのだ。代わりに、毎日のように顔を合わせていたのはレジナルドで、クリスの首を絞めた時のレジナルドの冷ややかな瞳がずっと脳裏に焼き付いて離れなかった。だが、今となってはレジナルドと話をしたことも、父や義母たちと話をしたことも、遠い過去の記憶のようだ。
色々なことを考えていると、目が冴えてしまって全く眠れる気がしなかった。もともとウィンストンの屋敷についたのが夕方だったし、もう深夜であるような気はする。
クリスはストールを肩に巻いて、窓を開けて外に出る。
空にはこぼれ落ちてきそうなほどの満天の星があった。きらきらと瞬く星々が綺麗で、クリスは思わず息をのむ。そういえば、星などを見上げたのはいつぶりだろう。
というよりも、空を見上げたのがいつぶりだろうか。最近はずっと足元ばかりを見ていた気がする。
「眠れないの?」
急に声がかかって、クリスは飛び上がるほどに驚いた。思わず口に手をやったのは、悲鳴をあげなかったかどうかが心配だったからだが、そのまま声の方を見る。声で誰かはすぐに分かっていたが、暗闇でも星あかりかレックスの部屋から漏れる灯りで、なんとなくレックスの姿は見えた。
「おどかしちゃってごめんね」
クリスは首を横に振ったが、相手から見えているだろうか。
どきどきと大きく鳴る心臓は一向に落ち着いてくれる気配はない。驚いたからだけではないのだろう。二人きりでいられるというだけで、クリスは本当に嬉しいのだし、幸せな気分になる。
「レックスも眠れませんか?」
「うん。そっちに行ってもいい?」
そんなことを言われて、どきりと心臓が跳ねる。部屋に来るつもりなのかと思ったが、よく見ると、クリスのいるバルコニーとレックスの部屋から出たバルコニーは、仕切りもなく一つに繋がっている。
はい、となんとか答えると、レックスはゆっくりとクリスの隣まで歩いてきた。
「こんなところが繋がっているんですね」
「そうみたい。ウィンストンが気を利かせてくれたのかな」
二人きりで会って話をしたいと思えば、廊下に出なくてもこっそりと密会ができる。どういうつもりの『気を利かせ』なのかは分からないが、ここは知らない土地で周囲もウィンストン以外は知らない人間ばかりだ。いざ何かがあったときに、レックスの部屋と繋がっていると思うことは心強い気もする。
「寒くない?」
クリスの格好が薄着に見えたのだろうか。肩に分厚いストールを巻いているとはいえ、下は寝着だ。そんなことを考えて、今更ながらにこんな格好でレックスの前に立っていることに気づいて焦った。暗くてはっきりとは見えないだろうが、普段着ている服とは違う。
ぎゅっとストールの前を合わせると、レックスは自身が着ていた上着を脱いで、クリスにかけてくれた。温かな上着に包まれてどきりとするが、それ以上に首に微かにふれた彼の指の冷たさにどきりとした。
「レックスこそ寒いでしょう」
「ううん。大丈夫」
「でも手が氷みたいに冷たかったですけど」
「本当?」
そういって首を傾げた彼に上着を返すべきか、それとも部屋に戻るように促すべきかと迷ってから、クリスは自身が身につけていたストールを彼の首に巻いた。彼はそれに触れて、にっこりと笑う。
「温かい。ありがとう」
「ずっとここにいたんですか?」
「どうかな。しばらくはいたかも。星が綺麗だったし、もしかしたらクリスが出てくるかもしれないと思って」
そんなことを言われて、クリスは目を瞬かせる。
「私を待ってたんですか? もう寝ているかもしれないのに?」
「別に待ってたわけじゃないよ。もし出てきたら、少し話がしたいなと思ってたんだ」
それを待っていたというのではないかと思ったが、そうではないのだろうか。
「……出て来なかったら朝まで待つ気ですか」
「まさか。眠たくなったら部屋に戻るつもりだったよ」
彼はそういうと、クリスに向かって手を伸ばした。それは僅かにクリスの髪に触れて、クリスは息を止める。
「髪はあの時の火事で?」
そういえばレックスは、短くなったクリスの髪を見る機会もそうなかったはずだ。周囲は髪が短くなったことに眉根を寄せるような人間が多く、もしかしたらレックスにも男のようだと思われているかもしれない。
「おかしいですか?」
「ううん。とても素敵だし似合ってる。髪が長くても短くてもクリスは綺麗だよ」
そんなことを真顔で言われて、クリスは返す言葉に困る。自分では似合っているとは思っていないから余計だが、それでもレックスが冗談やお世辞を言っているようには見えなかった。
髪に触れていた指がクリスの頬に触れる。あまりに冷たい指先に、クリスはそっとその手の上に自分の手のひらを重ねるようにした。
「温かい」
「風邪を引いちゃいません?」
「そうしたら昔みたいにクリスに治してもらうから大丈夫」
そんなことを言われて、クリスは息をのむ。
ウィンストンは魔術師と知り合いなのだと言っていた。それが本当だとしたら、もしもクリスが魔術師だと明かしたところで、きっと彼や周囲は受け入れてくれるのだろう。そうでなくても、こうやってレックスと二人きりで会えるのならば、周囲の目を気にせずにレックスのために魔術を使える。
「それなら大丈夫ですね」
「うん」
レックスはそういうと、クリスの頬から彼の手を放して、代わりに温めるようにしていたクリスの手を取る。ひやりとする両掌が、クリスの手を包んだ。
「僕はクリスのことが大好きだよ」
レックスの言葉に、心臓が止まるかと思った。
目を丸くしたままレックスを見つめるクリスを見下ろして、彼は優しく笑う。
「それを言いたくて、言える日が来るのを何年も待ってたんだ。だからここで何時間待っても、何日待っても僕にとっては短いくらいだよ」
言葉を返そうと思っても、咄嗟になんの言葉も出て来なかった。
少し暖かくなった彼の指がクリスの頬に触れて、いつの間にか流れていた涙を拭ってくれる。
「キスしてもいい?」
レックスはそう言ってから、その返事も何日でも待ってもいいけど、なんて目元を笑みの形にして付け足してくる。クリスも泣きながら笑う。
「私もレックスのこと大好きです」
「うん」
彼はそう言って、顔を寄せてくる。涙を拭っていた指の代わりに、レックスの唇は頬に軽くふれてから、唇に重ねられた。