二章 レックスの行方6
クリスは朝食を食べるとすぐにロイズの屋敷を出て、馬に乗って手紙に書かれていた町へと向かった。さほど遠い町でもなく、昼頃には到着する。
子供の頃には何度か来たことがあったが、その時の記憶よりも随分と小さく寂れた町だった。
別の大きな町に行くための道沿いにあるというわけでもなく、山に入る人々がひっそりと暮らす町なのだろう。余所者のクリスが馬で入ると、奇異な視線を向けられる。軍服を着ているわけでもないが、それなりの格好をして、立派な馬に乗っているから余計目立つのだ。こんなところに何があるのだろうと思っていると、近くにいた子供に話しかけられた。
「お兄さん、どこから来たの?」
裸足で薄っぺらい寒そうな服しか身につけていないが、人懐こいような笑顔は、物乞いや掏摸などには見えない。
馬が珍しいのか、丸い瞳はクリスではなく馬の顔に向いている。クリスは馬を降りると、実家のある町の名前を告げた。
「あ、ごめんね。お兄さんじゃなくてお姉さんだった」
本当に焦ったように言われて、クリスは首を横に振った。女性で一人だと目立つから、敢えて目立たないように女性らしくない格好をしているのだ。髪も短いし、ぱっと見ただけでは男性に見えてもおかしくはない。
「気にしないで。ね、パメラって知ってる?」
「知ってるよ」
「人の名前?」
「ううん。お店」
店名だったのか、とクリスは頷く。案内して欲しいというと、少年は快諾してくれた。馬と一緒に歩けることが嬉しいようで、視線は馬とクリスを行ったり来たりしている。
「頭を撫でてもいい?」
「どうぞ。なんで裸足なの?」
「もうぼろぼろで底が無くなっちゃって。今は妹の分を作ってるから僕は我慢」
代わりに履けるような布もないということだろうか。まだ本格的な寒さにはなっていないが、それでも足は真っ赤になってしまっている。
だが、少年はさほど気にもしていないようで、嬉しそうに馬の頭を撫でていた。本当は乗りたいのかもしれないが、乗ってもしも怪我でもされては困る。気性の荒い馬ではないが、子供を乗せたことなどないのだ。
「ついたよ、ここ」
連れて行かれたのは小さな店で、申し訳程度に机と椅子が置かれている。何も陳列されてはいないから、食事をとる店なのだろうか。奥にいた店主は、いきなり現れたクリスと馬を見て驚いたような顔をした。クリスも何を言えば良いのかと迷っていたが、やがて店主の方が口を開いた。
「女か?」
急にそんなことを言われて、クリスは警戒しながらも「ええ」と答える。
「なるほど。カッシュの町に宿を取れと伝えろと言われてる」
「は?」
「あんたじゃないのか? 目立つ女がうちを訪ねてきたらそう伝えろって言われたんだが」
目立つ女なんて言われるのは心外だが、たしかにこの町に余所者は珍しいだろうし、馬を引いてくることも予想していたのなら確かに目立つかも知れない。
「いえ、私です。ありがとうございます」
もとよりウィンストンがこんな町にいるとは思っていなかったが、カッシュというのもさほどここから離れていない。もしかしたらカッシュまで行っても、同じような伝言のみで、ウィンストンと接触できるのはもしかしたらさらに先の先なのではないだろうか。もしくは、ウィンストン本人でなく、誰か彼の代理がいるのか。
「誰に言われました?」
「たまーに来てた客だよ。名前も知らんが、ふらっとやってきて、伝えてくれって大金を置いてった。もらっていいんだよな?」
「いいと思いますけど」
相手がウィンストンが指示した人間なのだとすれば、そんなところに金を惜しみはするまい。
「まじか。なんかやばい金だろと思ってビビってたんだが」
たしかに伝言を伝えるだけで金を置いて行かれたのなら、怖くて使えないかもしれない。そんなことを考えていると、男は真剣な顔で頷いた。
「あんたに言っても仕方がないのかもしれんが、ありがとう。これでなんとか首の皮が繋がったよ」
「え?」
「今年は天候が悪くて、自分たちが食べるものすらギリギリでな。次の税も滞納すれば村人全員、強制労働送りになるところだった」
そんな言葉に、クリスは息をのむ。
寂れた町には見えていたが、そこまで逼迫していたのかと思う。強制労働というのは、なんらかの罪を犯した人間が無給で働かされるというものだ。仕事は劣悪な環境での道や堤の整備から、荒地の耕作から徴兵までさまざまで、最低限の衣食住だけを与えられて一生死ぬまで働かされる。ある意味で死刑よりも恐れられる刑罰でもあるのだ。
長期間にわたって税を払わない悪質な村については、村人全員が強制労働に回されたなんて話を聞いたことがあったが、目の前の男性や、案内をしてくれた少年が悪質な村人のようにはとても見えない。
だが首の皮が繋がったということなら、一応はその金を使えば、回避できるのだろう。ありがとうと言われてもクリスがどうすることもできないが、とりあえずは伝言を承った旨を伝える。
「……伝言ありがとうございます。カッシュの町に宿をとれですね」
「ああ。カッシュまでの行き方は分かるか?」
「大丈夫です」
今から出ても陽が落ちる前には辿り着けるだろう。クリスは馬に戻ってから、道案内をしてくれた少年を見下ろす。
「案内してくれてありがとう」
「うん。僕も馬に触らせてくれてありがとう」
「案内してくれたお礼をしたいのだけど、もらってくれる? 裸足よりは少しは寒くないと思うから」
そう言って、いつも持ち歩かされている止血用の布を手わたす。布も高級品ではあるので、末端の兵士などには支給されていないらしい。ただの布切れではあるが、怪我をした時などに応急処置をできるようになっているから、少年の両足を包む分くらいはあるだろう。
「いいの?」
「もし、よければ」
施しを与えているようだと不快に思われないか心配だったが、少年は純粋に目を輝かせていた。それを見て、クリスは安堵する。短く別れの挨拶をしてから、村を後にした。
ひたすら馬を走らせて、陽が暮れる前にカッシュに着く。そこは街道沿いの比較的大きな町で、どこの宿を取れば良いのだと首を傾げたが、馬が預けられる大きな宿は一軒しかない。
そこでも何かを言われるかと思ったが、何も言われずに部屋に通された。
もしかしたら誰か訪ねてくるのかと待ってみたが、そんな気配もない。結局、なんの音沙汰もないまま朝になってしまって、とりあえず次の日も同じ部屋に泊まれるようにお願いした。
しかしその日も何も接触はなくて、もしかしたら何か伝言が間違っているのかとか、誰かに騙されているのではないかと不安に思ったまま朝を迎えた。すると翌日の朝、部屋を出ようとしたところで男性に声をかけられる。
「クリス?」
見知らぬ男性に名前を呼ばれ、クリスはどきりと心臓が跳ねた。クリスティアナ=ロイズというのがクリスの名前で、皆はクリスティアナとかロイズと呼ぶのだが、クリスと呼ぶのはウィンストンかレックスしかいない。
「はい」
「ついてきてくれ。少し遠いが、案内しよう」
低い声で言われて、はい、と答える。少し年上くらいに見える男性も、クリスと同じく宿に馬を預けていたようで、ふたりで一緒に馬を引いて町を出る。
遠いとは言われたが、思っていたよりもずっと遠く、クリスにはもうどこを走っているのか分からなかった。たまに休憩を挟みながら、ひたすら前を走る男性の馬についていく。朝から馬を走らせて、陽が暮れる頃にようやく到着したかと思っていたのだが、男は宿のような建物を示して言った。
「そこに泊まればいい。明日になったらたぶん別のやつが迎えに来るだろ」
「え?」
「俺はここに連れてこいとだけ言われたからな」
まだ目的地ではないのか、とクリスは気が遠くなるような気がした。宿で町の名前を聞いたが、聞いたこともない。いったい自分は今どこにいて、どこまで行けば良いのだろう、と密かに息を吐く。もしかしたらもう戻れないのではないか、なんてちらりと考えてしまって、なんとなく途方に暮れる気分になる。
翌朝、男の言ったとおり、違う人間がクリスに声をかけてきた。
「クリス様ですね。長旅でお疲れのところ恐縮ですが、もうしばらくお付き合いください」
丁寧な口調でそう言った男性は、明らかに今までの人物と雰囲気が違う。
「あの、どこまで行くのですか?」
「午後には着くと思います」
場所は教えてくれなかったが、午後には今度こそ目的地に着くのではないか、という気がした。
そこでウィンストンが待っているのだろうか。もしくは代理か。わざわざこんな遠くまで来たのは、もしかしたらウィンストンのヘンレッティ家の領地がこの近くなのかもしれない。国の外れの方にあると聞いていたし、ウィンストンは王家からなんらかのペナルティを受けていると言っていた。もしかしたら、領地を離れられないなどといった制約がある可能性はある。
ようやくウィンストンに会えると思うと、これまでの道のりよりも遥かに短く感じた。
ウィンストンに会ってレックスの話が聞けるかもしれない——と思うことはクリスにとっては唯一の希望だったし、そうでなくても、レックスが姿を消したことを一緒に悲しんでくれるのは、ウィンストンだけではないか、という気もしていたから、余計に彼に会いたかった。
「着きました。こちらです」
やがて案内されたのは、これまでの宿と変わらないような建物だった。町はずれで人目につかない場所に立つ、大きな建物だ。
違うのは店主のような人間がいないことと、中に他の客のような人間がいないことだ。代わりに剣などを佩いた、明らかに鍛えているような男たちが立っている。護衛なのだろうか。クリスが足を踏み入れると、ぎろりとした視線を向けてきて、居心地の悪さを感じた。
案内してくれている男性の背中についていき、階段を上がる。
奥の部屋の前には、二名ほど大柄な男性が立っていて、クリス達が向かうと道を開けてくれた。
「どうぞ」
案内してくれた男性は、そう言って扉を開けてくれた。大きな部屋のようで、扉が開いても中にいる人物は見えなかった。入るように促されて、クリスは中に入る。男性たちは付いてくる気はないようだった。ドアの外で見守っている。
クリスは気おくれのするような、体が痛いほどに緊張しているような、そんな気分で部屋の中に足を進める。
中にいた人物の姿を見た瞬間、クリスは思わずその場に座り込んでしまった。
「クリス……?」
相手もこちらの姿を見て、驚いたように瞳を大きく見開いている。
クリスも名前を呼んだつもりが、声になったかどうかはわからなかった。
ベッドに腰掛けていたのは、二度と会うことはできないのではないかと思っていたレックスで、クリスはこれが夢や自分の妄想でないことを神に祈った。