二章 レックスの行方5
悶々とした思考をしながら眠れずにいると、夜になって控えめにドアが叩かれ、クリスは体を起こした。
「ロイズ司教が帰っていらっしゃいました」
ドアを開けると、使用人がそう教えてくれる。
どこかで酒でも飲んで帰ってきたのか、深夜に帰ってきて上機嫌そうに見えた父は、クリスの姿を見るなり一気に酔いが覚めたような顔をした。
「こんなところで何をしてる?」
「レックスが拐われたことをご存知ですか?」
挨拶もそこそこに聞いたクリスに、父は不機嫌そうに眉をよせた。
「急に帰って来たかと思えば、いきなりなんの話だ?」
「レックスが魔術師に連れ去られ、犯人を追っていると聞いています。ご存じありませんか?」
「知らない」
「レジナルド王太子殿下が、生きていることをアピールするために外に出られたとも聞いていますが」
「知らんな。王太子殿下がご無事なら何よりではないか」
そんなことを言った父に、クリスは絶句する。
そもそもレックスにクリスを近づけたのは父なのだ。レジナルド王太子殿下の身代わりとして王子として生活するレックスに対し、気に入られるようにと子供の頃からクリスに言い続けてきたのだし、これまではレックスが危険な目に遭うと、それなりに嫌な顔はしていた。
だが、もはや父はレックスには興味がないのかもしれない。もともと父はクリスをレックスに近づけたかったわけではなく、自分の娘をレックスのそばに立てることで、レジナルドを守っているのだということを陛下にアピールしたかっただけなのだろう。そのためにも、これまではレックスが生きてレジナルドのために働いていることが重要だったのだろうが、今はレックスは完全に隠されている。そうなると、クリスがレックスの側にいることも全く利がないはずだ。
クリスはぎゅっと手のひらを握り込みながらも、父の目を見て訴える。
「レックスがどうなっているのか、捜索はされているのか、犯人は捕まったのか、お父さまなら何か情報が手に入りませんか?」
「入るかもしれんが、それになんの意味がある?」
「意味?」
理解ができないという顔をした父に、クリスは首を傾げる。
「ようやくレジナルド王太子殿下の王城に入れたのだろう。幸い、王太子殿下はお前を気に入っていると聞いている。あんなにせの王子のことより、どうすればレジナルド殿下にもっと近づけるのかを考えればいいはずだ」
「は?」
言っている意味が分からず、クリスは思わず立ち尽くす。
真面目で言っているように見える父を見て、もしかして父は、クリスが自らの出世なり名誉なりのためにレックスやレジナルドのそばにいると思っているのかもしれない、と思った。
王家に近づくためにもレックスに近づき、護衛になってさらに親密になり、最終的にはレジナルドの目に留まる。そんなものが目的であれば、たしかにクリスがレックスのことを考えることになんら意味はない。
返す言葉を失っていると、父の方はクリスに対する興味を失ったようだった。
「寝る。少しは時間を弁えろ」
「お待ちください」
「お前が王太子殿下の側女にでもなれそうだという話なら、明日聞いてやる」
そんな言葉を吐き捨てて、父は部屋へと戻っていく。
それを呆然と見送っていると涙が溢れて来たので、慌てて部屋に戻った。最近は涙腺が壊れているようで、一度泣き始めると止まらなくなるし、なんで泣いているのか、何が悲しいのかも分からなくなるのだ。
寝台に突っ伏していると、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。気づけば朝になっており、クリスは腫れた自分の顔を見て、ため息をついた。
「クリスティアナ様、失礼してもよろしいでしょうか」
ドアの外から控えめに声がかけられたが、ひどい顔を見られたくはない。
「ごめんなさい、まだ着替えていないの。どうかした?」
「朝食はいかがなさいますか?」
「食欲もないし、大丈夫」
「ですが、昨晩も何も召し上がっていないでしょう? お部屋にお持ちいたしましょうか」
心配そうな声がかけられて、クリスは少し考える。全く食欲はないのだが、確かに昨日は朝から何も食べてはいない。それでもお腹が空かないというのはいったいどういうことなのだろう。このまま食べなければ、飢えて死ねるのだろうか、なんて馬鹿なことを考えてから、クリスは外に声をかける。
「ありがとう。それならお願いできる?」
「かしこまりました」
足音が遠ざかるのを聞きながら、クリスは目元に両手のひらを当てて、なるべく目の腫れをなくすようにマッサージをする。少しでもマシになるようにとほぐしていると、料理が運ばれてくる頃には、多少は見られる顔になった。
「父は?」
「ロイズ司祭はもうおでかけになられましたよ。昨夜はお話しできませんでしたか?」
「いえ」
話せたといえば話せたのだが、父とも話が通じないことがわかった、ということしか収穫はない。レジナルドにせよ父にせよ義母や妹たちにせよ、全く意思の疎通ができないのはなんなのだろう。同じ場所にいても、もしかしたらクリスと全く違う世界を生きているのかも知れない。
そしてクリス以外の皆が同じ世界を生きているのだとしたら、もしかしたらおかしいのはクリスの方かも知れない、なんて改めて思ってしまった。
軍人としても国民としても、本来ならレックスよりもレジナルドに忠誠を誓うべきなのだろうし、普通であればにせものの王子より、本物の王子の方がいいと言うに決まってる。クリスがレックスに執着しているからレジナルドは気に入らないのだし、クリスがレジナルドの側室になるために努力をするといえば、父はいくらでも協力してくれるに違いない。
この国で唯一の王子であるレジナルドの王城に召し上げられるということは、通常はステータスなのだ。実際のレジナルドは会いたくもない最低の人間であるが、傍目には非常に美しくて聡明な王太子に見えるに違いない。義母や妹たちもはじめは、なんの身分もないレックスの側について、軍属になっているクリスのことを見下しているようだったが、レジナルドの王城に召し上げられると目の色を変えたから、もしかしたら羨ましく思っているのかもしれない。
「食欲がないとのことでしたので、軽めの食事にしていますが、もし足らなければ仰ってくださいね」
「ありがとう。美味しそう」
トレーに乗せられたスープや果物を見て、クリスは笑顔を作る。だが、すぐに部屋を出ていくはずの彼女が少し躊躇っている様子なのを見て、クリスは首を傾げた。
「どうかした?」
「あの、実はこれをクリスティアナさまに渡すように頼まれたのですが」
そう言って渡された紙には、ここから少し離れた町の名前と、パメラという知らない名前だけが書かれている。
「これは?」
「庭師に渡されました。庭師は知人に頼まれたとのことで」
「知人?」
「名前は聞いても教えてくれませんでした。どうしてもと言われたので、とにかくお見せするだけしようと思ったのですが」
そう言われて、クリスは首を傾げる。
その町に来いということなのかもしれないが、誰か分からない人間から場所や知らない単語だけ書いた紙を渡されたところで、恐ろしくて行けるものでもない。そう思いながら見下ろしていると、ふとその筆跡に見覚えがあって、クリスは息を飲んだ。
——ウィンストンだ。
とても丁寧で綺麗な筆致なのだが、独特な書き方をする文字がいくつかある。それはウィンストンの領地のある地方では普通の書き方なのだ、とウィンストンに教えてもらったことがあった。
そう思って見てみると、それ以外の文字もウィンストンが書いたものだ、という気がする。彼が書いたものを見分けられる程度には、クリスもウィンストンと一緒にいた。そしてそれを相手もわかっていたのだろう。内密にしたい手紙であったとしても、差出人すら分からないものは、気味悪がられて捨てられるだけだ。
「これを頼まれたのは今日?」
「ええ。先ほど手渡されたばかりだって」
「分かった。ありがとう」
クリスはそう言って、渡された手紙を大切に折りたたんだ。そして、目の前に出された食事に口をつける。
ウィンストンが何のつもりでクリスにこんなものを渡して来たのかは分からないが、この時期に、そしてクリスが兵舎を出てロイズの実家に帰って来たところを見計らって手紙を渡してきたことから考えても、もしかしたらレックスのことで何か話があるのかもしれない。
もしくは、そうでなかったとしても、この状況で頼れるのはウィンストンだけだという気がした。
もしかしたら以前、レックスやクリスを殺そうとしたのは、噂通りにウィンストンで、これももしかしたらなんらかの罠である可能性もあるが、その時はその時だろう。そんな疑念が瑣末なことに思えるほど、クリスは現状に行き詰まっているのだし、このままここにいても餓死するだけだ。