二章 レックスの行方1
クリスが立っている廊下には窓もない。
王城内の廊下なだけあって、単なる通路でもそれなりに広さはある。圧迫感があるというわけではないが、絨毯の敷き詰められた床と、両脇の白い壁ばかりを見つめていると、押しつぶされそうな気分になることがある。天井の四角い模様の数はとうに数えてしまって、白い壁についた僅かなしみをぼうっと見つめて一日を終えるのだ。
毎日のように突っ立っているおかげで、一日中動かずに立っている足の痛みには慣れたのだが、退屈な苦痛に慣れることはない。
いつまでこれを続けるのだろうと思えば、途方もない気持ちになるし、こうしていることに何の意味があるのだろうなんて焦る気持ちは止められなかった。クリスがここにいるのは、何とかレックスに会えないかという思いだけであり、職務上の身分はどうあれレジナルドに対する忠誠心など欠片もないのだ。
憂鬱な一日の任務を終えて控え室に戻ると、同僚に呼び止められてクリスはどきりとした。そして彼に連れられて向かった先は、前にレジナルドと会った部屋に繋がっている小部屋だったので、息苦しいほどに心臓がどくどくと鳴った。
それが期待なのか不安なのか、自分でもわからない。
レジナルドに会いたいと思って、ずっとコンタクトは取ろうとしていたのだ。この小部屋にいた人物までは何とか探したのだが、そこから先は全くつながらなかった。相手はレジナルド殿下であり、これまでは完全に居場所を隠してきた方だ。当然といえば当然だが、そう簡単に会えるわけもない。
ただ、なんらかクリスが動いていることくらいは伝わっていただろう、と思っていたから、もしかしたら相手からコンタクトがあるのではないかという期待はあった。
この間もわざわざクリスを呼び出して、牢のような場所に閉じ込めたレックスに会わせたくらいだ。プライドの高い殿下からすると、あんな粗末な場所で粗末な格好で平伏させられることは恥でしかなく、敢えてそんなレックスをクリスに見せつけているのだろう。レジナルド殿下はクリスなんかには全く興味はないだろうが、レックスに対しての嫌がらせの材料くらいには使っているように思える。もしかしたらまた会わせてもらえるかもしれない、なんて思うのだ。
それを考えるとようやく呼び出しがあったことが嬉しいのだが、それでもやはりレジナルドに会うのはどこか恐ろしく、この期に及んで体が震えそうになる。通された広い部屋で、ひとりぽつんと立っている時間は、気が遠くなりそうなほどに長かった。
やがてドアが開いて入ってきたのは、レジナルドと護衛の二人だった。
毎日、彼が通り過ぎるのを見てはいるのだが、私室だからか上着を脱いでいるレジナルドは、いつもと雰囲気が違っていた。普段が隙のない王者といった貫禄を見せているのに比べて、今は白いシャツと下ろされた前髪で、少し幼くも見える。
漆黒の瞳がクリスを捉えたのを見て、クリスはその視線から逃れるようにその場に膝をついた。
「やあ、久しぶり」
はい、とだけ答えて頭を下げる。
実際のところ毎日のようにすれ違ってはいるのだが、殿下からすれば門番など単なる置き物のようなものなのだろう。
「今度は何の用?」
ここに呼ばれたのはクリスの方なのだが、相変わらずクリスが殿下に近づこうとしたから呼んだ、ということか。
あまりに単刀直入で短い物言いは、どこかレジナルドの不機嫌さを思わせて背筋が凍る。クリスは体を縮めたまま、片膝をついて礼をとる姿勢から、平伏して頭を下げる姿勢に変えた。
「お時間をとらせて申し訳ありません。はばかりながら殿下に直接のお願いごとがあり、参りました」
「なに?」
「レックスは殿下の代わりに、度々外に出て仕事をしているとうかがっています。ならば、私をこれまで通りレックスの側に配置していただくことは出来ないでしょうか。護衛でも従者でも下人でも構いません、レックスの補佐をすることで、レジナルド殿下のために働かせてください」
頭を床につけたまま、一気に言った。
黙って聞いているレジナルドの反応は怖かったが、だからと言って視線を上げて顔色を窺うような勇気もない。すると殿下の足音が近づいてきて、クリスは身を固める。すぐそばに彼の足が見えた。
「ねえ、クリス」
しゃがみこんだのか、すぐ頭上から冷たい殿下の声がして、びくりと体を震わせる。
「仕事があまりに退屈で辛いっていうなら、お父上に頼んでみればいい。近衛の隊長も配置を考え直してくれると思うけど」
「……今の仕事が嫌だなどという、そうした意図はありません」
「ふうん? 僕のために働きたいというなら、今のままで十分だけどね。一応は君の軍服姿も気に入ってるし、他のは大きいのばっかりで暑苦しくてたまらない」
そういう問題ではない——と、レジナルド殿下は分かって言っているはずだ。何でも良いからレックスのそばで働きたいのだと言いたいのだが、そんなことを言っては殿下の機嫌を損ねることは間違いない。クリスはただ懸命に頭を下げるしかなく、床に伏すようにして「お願いします」と繰り返す。
「それなら、僕の従者にしてあげようか。それとも側女にする?」
そんなことを言ったレジナルド殿下の口調は、どこか面白がっているようにも聞こえるのだが、声は相変わらず氷のように冷たい。
「……私などには、そのような役目は務まりません」
「それはそうだろうな。本当ならこうして僕と二人きりで話せるような立場でもない。ねえ、顔を上げてよ」
クリスが顔を上げると、目の前にすぐ殿下の顔があって息を飲む。
他国の姫が霞んでしまうなんて噂されるほどの美しい王子だが、間近で見ても秀麗で妖艶で、そして漆黒の闇を感じさせるような瞳がとても怖い。その瞳がずっと細められると、クリスの心臓が凍りつくような感覚がする。
「気に入らないな。そんなにあれに会いたいの?」
そんなことを言われても、何を言えば良いか分からない。目を逸らすことも許されず、クリスはただ殿下の黒い瞳を見つめる。
「あれのどこがいいんだろうな。身分も地位もないうえに、頼りにしていたヘンレッティにまで裏切られて味方もいない。あるとしたらいま息をしてるという悪運だけだと思うんだけど」
そんな冷たい言葉に、クリスは思わず口を開く。
「レジナルド殿下はレックスの味方ではないのですか……?」
「僕が?」
レジナルドは少しだけ目を丸くした。
レックスは幼い頃からレジナルドのために、命をかけて働いているのだ。レジナルドに向けられるはずの刃を常に向けられていても、それでもレジナルドに逆らうことはない。レジナルドにとってはレックスが一番の味方であっても良いはずなのに、レックスに味方はいないなどと言い放てるのは何故なのだろう。
殿下は可笑しそうに目を細める。
「あれは盾みたいなものだ。クリスティアナだって、手にしてる盾を味方なんて呼ぶとは思えないけど」
「……ですがレックスは人間です」
そんなクリスの言葉に、レジナルドは嘲るような笑みを浮かべる。
そういえば彼はレックスの名前を呼ぶことすらほとんどない。あれとかにせものとか呼んでいるレジナルドは、本当にレックスをただの盾と思っている可能性はある。そんなことを考えていると、レジナルドは薄い唇を開いた。
「確かに言葉は通じるな。本物の盾とは違って貧弱だけど、命じたら自分で動いて僕の代わりをやってくれるのは助かってるよ」
目の前が暗くなるような言葉に、クリスは目を伏せる。
言葉は通じる——と言ったが、もしかしたらクリスもレックスも、レジナルドと言葉が通じたことなどないのではないだろうか。
レジナルド殿下に頼んだところで、クリスがレックスのそばに行けることはないような気がしたし、レックスの待遇を改善してもらうための申し入れなどしても、聞いてくれるとは思えない。逆にクリスが動いたことで、レックスに何かしらの嫌がらせをしようとすら思うのではないか、なんて思ってしまって、これ以上の話ができなくなってしまった。
クリスが退室する許可を求めると、レジナルド殿下もあっさりとそれを受け入れた。
「次に僕に会いに来るときには、せめて軍服じゃなくてドレスを着て正装してきてね」
それなら仕事終わりに呼び出すなと言いたいところだが、だからといってレジナルドのためにドレスを着て向かう気にはならない。
部屋を出ていきながら、クリスは苦い息を吐く。
これからクリスがどうすれば良いのか、全く先が見えなかった。