二章 アランの遁走8
少しだけ眠ってから、朝になる前に彼女の部屋に行った。
眠っているかと思っていたが、すぐに扉が開けられたからすでに起きていたのだろう。セリーナはここに来る時に調達した外套を羽織ってフードを目深に被っている。部屋にある薄暗い灯りくらいでは、彼女の肌や瞳の色もさほど目立たないことに安堵した。
アラン達はそのまま町はずれの厩舎に向かってから、預けていた馬を受け取る。朝までこちらの町で飲むなり女遊びをするなどして、明け方に馬に乗って帰る軍人や貴族はいるから、まだ日は昇っていなくても対応してもらえるのだ。
馬の背にセリーナを乗せてから、アランは馬の首と彼女の狭い隙間に何とか入りこんだ。彼女が後ろからアランにしがみつくようにしたのを確認して、ゆっくりと馬を走らせる。
「大丈夫か?」
「……なんとか」
そう答えたセリーナの声は、多少辛そうではある。ずっと寝込むようにしていたから体力も完全に回復はしていないだろうし、傷もまだ痛むのではないだろうか。
アランはなるべく揺れないようにと静かに馬を動かして、町を離れていく。セリーナはぎゅっと両手をアランの腰に回して、顔をアランの背に伏せるようにしていた。アランは軍服は着ていないし、セリーナもフードを被ったままアランにしがみついている。旅人に見えるかどうかは分からないが、さほど目立ちはしないはずだ。
「疲れたら言ってくれ。すぐ休むし、昼には宿を取ってもいい」
「大丈夫。落ちないようにはするから、なるべく進んで。アルブは遠いでしょう?」
「まあ、このペースなら着くのは明後日ってとこだろうな」
アルブまでの地図を思い浮かべながら、そう言った。
ひとりでも馬に乗れるというくらいだから、背後のセリーナは特に危なげなく捕まっている。馬を休ませるためにも水のある場所では定期的に休んで、日が暮れる前には宿を取る。そしてまた日が昇る前に出発した。
そして二日目の宿を取って、狭い部屋で一緒に食事をとった。彼女は積極的に喋りかけてはこなかったが、アランが話しかけると応じてはくれる。
「順調に進んでるから、明日の午前中には着くよ。兵士たちが配置されてそうな場所もなんとなく予想はできるから、そこを避けさえすれば問題なくアルブに入れるはずだ」
「ありがとう」
彼女はそう言ってから、真剣な顔で言った。
「一人だったら地理も分からなかったし、ひと月くらいはかかってたかも」
そんなことを言った彼女は、本気で一人でここまで来るつもりだったのだろう。たしかにセリーナならば、ひと月かけてでも意地で一人で辿り着けそうではある。
「頼るアテはあるのか?」
「なんとかなる」
そうか、とだけ言った。魔術師たちと合流するつもりなら、これ以上はアランにどうしようもないし、一応は軍に戻ると言っているアランに詳しく話したくもないだろう。
「なら、また明日」
そう言って部屋を出ようとしたアランを、何を思ったか「ねえ」とセリーナが引き止めた。
「今日はこっちの部屋で一緒に寝ない?」
「は?」
驚いて彼女を見下ろしたのだが、セリーナはじっと真面目そうな顔でこちらを見上げているだけだった。そういえば彼女はいつも真剣な顔をしているか、難しい顔をしていて、笑った顔など一度も見たことない。
「何を考えてる?」
「いまアランが考えたことと、あんまり変わらないと思うんだけど」
そんなことを言われてアランは眉を上げる。
若い女性に同じ部屋でと言われれば、想像してしまったのは一つしかないのだが、相手はセリーナだし、そもそも彼女は先日まで起き上がることもできなかった怪我人だ。先ほどもアランが包帯を変えたばかりで、怪我の具合も分かっているのだ。
「……怪我人だろう」
「でもだいぶ動けるようになったし」
そんなことを言われても困る。固まっていると、彼女はアランを見上げていた視線を逸らして、ベッドの上で軽く膝を抱えるようにした。
「ま、私に女として魅力があるとは思ってないけど」
さらに困る言葉を投げられて、アランはやはり固まった。
強くて仲間想いでいつも真剣で、どんな状況でもまっすぐに生きている彼女のことを、アランは素直にすごいと思っていたし、彼女が男だろうが女だろうが魅力的だと思っていたに違いない。
しかし、なるべく考えないようにしていたことではあるが、セリーナは女性としても十分に魅力的なのだ。金色の髪も緑色の瞳もとても綺麗だったし、ロジャーが渡した櫛や髪留めを使って綺麗に髪を結い上げていると、まるで別人のように華やかに見えた。同じようにロジャーが渡した部屋着も柔らかい色合いで女性らしいものだったから、余計にそう見える。もともと包帯を変える時などに白い肌を出されるとどきりとしていたのだが、そうして綺麗に整えられた格好を見ると、余計に目のやり場に困ってしまっていた。
「……俺に下心があって助けたと思ってるか?」
もしかしたら、そんなふうにアランがセリーナを見てしまっていたことを気づかれていたのかもしれない。彼女はちらりとアランを見上げる。
「そんなことは思ってないけど。でも、色々助けてもらっても、私に出来ることは他にないし」
助けてもらった礼だと言うことだろうか。たしかに彼女は前に、仲間を助けてくれたら出来ることは何でもするなんて言ったことがあるから、そんなことを考えてしまったのかもしれない。
アランはゆっくりと首を横に振る。
「そんなことを気にする必要はない。セリーナを助けてるのは、単なる気まぐれか、俺の自己満足だからな」
——もしくは贖罪か。
彼女を助けたとしても、その他の助けられなかった人々に対する贖罪になるはずもないが、それでもここで魔術師である彼女を助けられたことを、安堵している自分もいる。
「なにそれ。可哀想な弱い魔術師を助けて、優越感に浸ってるってこと?」
相変わらず率直な物言いに、アランは苦笑した。
「セリーナのことを憐れむ気持ちは全くないよ。そもそも、俺の何倍も強そうだ」
「それ皮肉?」
「そう聞こえたか?」
「ええ。アランが私の魔術を恐れているようには見えないもの。実際、負けてるのも助けられてるのも毎回私の方だしね」
「戦って勝つか負けるかって話じゃないよ」
距離があれば魔術師である彼女の方が有利だろうが、それ以上に精神的な強さで言えば、アランなど足元にも及ばない。そこが伝わったのか、セリーナは首を傾げる。
「強そうに見える?」
「こんな状況で、泣き喚いてないだけでも強いんじゃないか。俺だったら途方に暮れてるよ」
「私だって途方に暮れてたけど」
彼女はそう言ってから、しばらく黙っていた。たしかにこんなところで仲間もおらず一人きりで、途方に暮れないはずはない。下手なことを言ってしまっただろうかと少し後悔していたのだが、やがて彼女はアランを見上げた。
「私を助けたのがあなたの自己満足なら、私の自己満足にも付き合ってくれる?」
唐突に言われた言葉に、アランは首を傾げる。
「なんだ?」
「キスしてくれる?」
「は?」
思いがけない言葉ばかりがかけられて、またしても思考が停止してしまう。
「何を考えてる?」
「明日になってアルブに着いたら、もう二度と会うことはないかもしれないから。お別れに」
彼女はそう言ってから、アランを見上げる。
まっすぐな瞳はアランには眩しすぎるほどに眩しく、緑色の宝石のように美しい。何を思ってそんなことを言ったのかは分からないが、彼女の自己満足ということなら、アランに対しての礼などと考えているわけではないのだろう。
「……いや?」
そんなことを言われて、アランの心臓がどきりと跳ねた。
嫌なわけはないが、躊躇する気持ちもあってしばらく逡巡していた。が、最後はじっとこちらを見上げている大きな瞳に吸い寄せられるように、アランはベッドに膝をついた。彼女の頬に手のひらで触れて、おそるおそる唇どうしを触れされる。
とても柔らかな唇の感触に、頬に触れる指先が震えそうになる。長いまつ毛がすぐ目の前にあって、アランは瞳を閉じた。
そして顔を離して目を開けると、少しだけ顔を赤らめたようにも見えるセリーナが、伏していた瞳を上げるのが見えた。
「アラン。もう二度と会わないかもしれないけど、私のことを覚えていてね。私も、私を助けてくれて、初めてキスをした相手のことは忘れないから」
そんな言葉に、やはり彼女はどこまでもまっすぐなのだ、とアランは考える。
セリーナに惹かれていたとしても、アランはなるべくそれを考えないようにして、何事もなかったかのようにさらりと別れようと思っていたのだ。彼女はアランになど興味はないだろうし、そんな相手に惹かれていることを悟られたくない。そして、いくら別れ難いと思っても、どうせすぐに離れなければならない相手だ。
アランは思わず彼女の体を抱き込んでいた。見た目よりもずっと華奢な体は、アランの腕の中では頼りないほどに細い。背中に手を回すと、彼女の腕もアランの背中に回った。
「……忘れたくても、とても忘れられないだろうな」
「覚えていてねって言ってるのに、なんで忘れたいのよ」
二度と会えない人を想い続けるのは辛いと思うからだが、彼女がそうでないのなら、やはり彼女はアランよりもずっと強いのだろう。
アランはセリーナの体を手放すことができずにしばし迷っていたが、やがて意を決して言った。
「やっぱりこっちの部屋で寝てもいいか?」
「その気になった?」
「……いや、さすがに怪我人にどうこうしたくはないな」
本能はともかくアランの理性では、怪我人に手を出すことはできないし、キスが初めてだと言うくらいなら、そのほかも初めてであるような気もするから、余計に手は出ない。そうでなくとも、明日の別れが余計に辛いものになりそうな気がして、一線を越える気にはなれないのだ。
それなら素直に部屋に戻ればと思うのだが、明日の早い時間には別れてしまうのだと思えば、もう少し一緒にいたいなんて思ってしまった。
彼女の怪我に障らないようにとゆっくりと横になったが、セリーナも特に抗わなかった。寝台に二人で横になってから、彼女の髪を撫でる。セリーナはしばらく心地良さそうに目を閉じていたが、やがてアランの胸に顔をつけるようにした。
「アラン」
「なんだ?」
「いつか私が隠れずに暮らせるようになったら、私に会いに来てくれる?」
そんな言葉に、アランは改めて胸がぎゅっと掴まれたように苦しくなった。
隠れずに暮らすことさえ、今の彼女にはできないのだし、はたしてそんな日が訪れるのだろうか——なんてひどいことを考えてしまった自分がいる。
「ああ」
「おばあちゃんになってても? アランに奥さんと子供がいたり、私に子供や孫がいても?」
「なるべくならそんな歳になる前に行きたいが、よぼよぼのじいさんになって、馬に乗れなくなってもちゃんと探しに行くよ」
そう言うと、セリーナが顔を上げた。いつもより目尻が下がっているように見える彼女の顔は、もしかしたら笑っているのかもしれない。
「それまでちゃんと生きててね」
「セリーナこそ……せっかく助けたんだから、本当に頼むよ」
そう言って、アランは彼女の顔に唇を寄せると、セリーナは口元で笑って瞳を閉じた。