二章 アランの遁走6
アランはロジャーを誘って隣の部屋に移動した。
とりあえず訪ねてきたのが敵ではないと安心させるためにロジャーを彼女に会わせたが、セリーナがいる前で話したくないことの方が多い。ロジャーは椅子でも探したのか、狭い部屋を見回していたが、仕方ないといった様子でベッドに腰掛けた。
「で? いつ帰ってくるのさ」
「……そっちの状況は?」
「気になる?」
ちらりと視線だけで見上げてきたロジャーに「そりゃな」と返す。
何とでもなれと思って出てきたところはあるのだが、それにしても、クラウィスに戻った時に職務離脱の懲罰会議にかけられるのと、投獄されるのとでは心構えが違う。そして、アランがいないことでロジャーや部下達に何かしらのペナルティが課されていないか、と言うところも、身勝手ではあるが気にかかっていた。
「悪いけど大隊長には、アランは急病で動けないから実家に戻ってる、って報告してる。もちろん、トリスタン=クリフォードには事前に連絡したうえでね」
思いがけず兄の名前が出て、アランは眉を上げた。
「なんて連絡したんだ?」
「アランは精神的に参って逃亡してるから、僕が連れ戻すまでクリフォードの家にいることにしてくれって」
なるほど、とアランは半ば感心して頷いた。
そんなことを聞かされたところで、トリスタンは眉を顰める以上のことはなかっただろうが、弟が職務を放棄して逃亡したなんて身内の恥を、彼が外に漏らすはずはない。
西軍の副将軍である父と、部隊長である兄の力を使ったところで、中央軍に対して働きかけができるとは思えない。が、何かしらの言い訳くらいはするだろうし、監査役の人間やデイミアン大隊長がアランを詮議しようと乗り込むには、敷居が高い家に違いない。
精神的に参っているなんて言われると違和感はあるのだが、実際にいつ辞めてやろうかと毎日のように考えていたのだから、当たらずとも遠からずと言ったところか。
「トリスタンは何か言ってたか?」
「くれぐれも内密に連れ戻せ、ってめちゃくちゃ釘を刺されたよ。アランを庇ってるんだから感謝されてもいいくらいだと思うんだけど、なんでか嫌われてるみたい」
ロジャーはそう言って首を傾げた。
たしかに彼はほとんどトリスタンと会ったことはないはずで、トリスタンとしてもロジャーはアランの副官としか認識していないはずだ。
「見た目と話し方が気に食わなかったんじゃないか」
「見た目と話し方なら、お兄さんの方がよっぽど不愉快だと思うけどね」
「まあ、ロジャーとは対極にいるからな」
トリスタンはいかにも軍人といったかっちりとした見た目で、いかにも軍人らしい威圧的ではきはきとした話し方をするのだが、ロジャーの場合はどちらもとても軍人とは思えない。軍服はいつも着崩しているし、相手が部隊長や将軍でもこんな調子で話をするので、アランですら心配になるほどなのだ。
「……隊のみんなは?」
「急病を信じて心配してるのが半分と、また勝手をしてると思って呆れてるのが半分てとこじゃない? 今のところ表立って騒いでる人はいないよ」
「アシュリーも?」
「だね。陰で上層部に密告してたら知らないけど、今のところはそんな気配はないんじゃないかな」
ほっとしたような、とても申し訳ないような、そんな複雑な気持ちで頷く。
そして事態をうまく丸めようとしてくれているロジャーにも、改めて申し訳ない気持ちになった。隊長であるアランが単に隊を放り出して逃げたのに対して、副官の彼は、部下達をまとめて帰ってアランの実家に根回しまでして、なんとかアランの居場所を残そうとしてくれているのだ。
「……ロジャーは俺よりよほど隊長に向いてるんじゃないか」
「冗談。僕はアランが隊長じゃなかったら、副官すらやってないよ」
そう言った彼は、そもそも軍に対する所属意識はないのだろう。彼の家は、軍人のアランとは違って貴族の名家だが、ロジャーにも兄が何人かいる。爵位を継ぐことはできないから、武人として身を立てろと言われて士官の学校に入れられたらしい。だが、いずれはどこかの令嬢のところに婿入りしても良いなんて自分で言っているくらいだから、出世することに興味もないはずだ。
それでいて、彼はアランがこれまで見た誰より、強くて有能なのだから、普通の人間はやっていられない。
「だから、さっさと戻ってきてくれない? 別に彼女と駆け落ちしようと思ってるわけでもないんでしょ」
「……そんなつもりはないが」
苦い息とともに言葉を吐き出す。
だが、だからと言ってまた軍に戻って同じようなことを繰り返すのかと思うと、陰鬱な気分になる。今回は顔見知りだったから特別に助けたのだという自覚はあるのだが、ならば彼女以外の魔術師なら快く見捨てられるかと言ったら、もちろんそんなはずもない。
「彼女が動けるようになったら、一旦は戻るよ。そうじゃなくても、所持金が尽きたからクラウィスに戻ろうとは思ってた。こっそりロジャーに俺の金を持ち出してもらおうかと思ってたんだが」
アランの言葉に、ロジャーは懐から小さな袋を取り出すと、こちらに投げてきた。
「当面の宿代くらいにならなると思うけど」
随分と準備がいい。もともとそれも見越して、準備してくれていたのだろうか。
「……助かるよ」
「その代わり、駆け落ちしたくなっても、ちゃんと戻ってきて返してよね」
そんなことを言ったロジャーは、もしかしたらアランがこのまま戻らないかもしれないと思っているのかもしれない。
もちろん返すよ、と息と共に声に吐き出してから、アランはゆっくり首を横に振った。
「急病だと言ってもらっていても、何かしら処分はあるだろうから、けじめとしてちゃんと処罰は受けるよ。……だけど、その後のことは正直、なにも考えられないな」
「辞めるつもり?」
嫌気がさすほどに魔術師狩りを行っているのは、今の中央軍の所属だけかもしれないが、それでも国王や軍の上層部に指示されれば抗えないというのは、他の軍に異動したところで変わりはしまい。
何を返せば良いのかと迷っているアランに、ロジャーは軽く言った。
「ま、どっちでもいいけどね。アランが辞めるなら僕もやめようかな」
「なんでだよ」
「僕だってどうせなら、女の子を殺すよりは助けたいもん。アランはずるいって言いたくなる、アシュリーの気持ちは分かるよ」
そんなことを言われて、ずきりと胸が痛んだ。
皆がそれを思いながらも軍人として規律を順守しているのにも関わらず、隊長として部下達にそれを強いているはずのアランが、私情だか何だかでぶち壊すのだ。ロジャーやアシュリーでなくても、みんな快く思ってはいまい。
「僕らは思ってても実際にはやれないからね。やっぱりなんだかんだで自分の身が可愛いし、上の命令に従っておくのが楽だしね。だから、それをやれちゃうアランが余計に羨ましいんじゃないかな」
ロジャーの言葉に、アランは首を横にふる。
「……俺も全く同じだよ。ロジャーの言った通り、いままで散々見殺しにしてきたんだ。一人や二人逃したところで何も変わらないし、俺が辞めたところで何も変わらない」
単に自分が逃げたいというだけだ、という自覚もある。単なる保身よりもむしろタチが悪いのではないだろうか。
「まあ、アランも僕も辞めても生きていけるからね。そう言う意味じゃ、生きるために仕方なく士役してるって人間は逃げ場もない。せめて上官にハズレを引かないことを祈るくらいかな」
「……ハズレで悪かったな」
「普通だったら当たりなんだと思うけどね。でも、今みたいな状況なら、眉一つ動かさずに『悪は一人残さず根絶やしにしろ!』みたいな命令をしてもらえる上官の方が、末端としては余計なことを考えなくて楽なんじゃない」
はは、と笑いながら言ったロジャーに、アランはため息をついた。
彼の言っていることはよく分かるし、軍人としてはきっとそうすべきなのだろう、とアランは思ってもいる。だが、人としてそれで良いのだろうか、なんて思いももちろんあるから、アランはどっちつかずなのだ。
常に上が正しい判断をしてくれれば、それにただ従っていれば良いのだろうが、今のところは上の判断が正しいと思えたことなど一度もない。穴だらけの作戦や無茶としか思えない指令を出されたのなら、現場でそれを補完する策を考えるしかないのだ。そして上官に殺せと言われれば殺して、死ねと言われれば死ぬような、そんな兵士になって欲しいとも思えない。
「俺には向いてないな」
「そうかもね」
ロジャーはそう言ってから、ベッドサイドの壁に寄りかかるようにして後ろに置いていた重心を、手前に戻した。
「ま、アランがそんな人間だったら、僕はこんなところまで来てないけどね。でも、戻れるなら戻ってきてよ。もしもアランが処刑されるなんてことになりそうなら、僕も全力で助ける努力だけはするからさ」
ロジャーはいつになく真剣な顔をして言った。
もちろんロジャーが逆の立場だったら、アランもなんとしても力になると言っただろうが、それでも彼がそんなことを言ってくれたことに驚いていた。
「……ありがとう」
なんとか礼だけを言うと、ロジャーはベッドから立ち上がる。そして、彼は「またね」とだけ言うと、部屋を出て行った。