二章 アランの遁走4
アランはセリーナをなんとか寝台に寝かせると、そのままどっかりと汚い床に座り込んだ。
自分よりはずっと軽いとは言え、人を一人抱えたまま馬に乗るのは思った以上の重労働だったし、目立つ軍馬を町の外れに預けて、そこから馬から降りて運ぶのも大変だった。普通の怪我人ならば背負うなり、部屋を探す間だけでも誰かに預けるなりできるのだが、なにせ彼女は髪も肌の色も目立ちすぎる。適当な外套を調達するまでは、布で巻いたまま抱いていくしかなかったのだ。おかげで両腕は力が入らないし、手首も酷使しすぎて固まってしまったようで、なかなか痛くて動かせない。
ほぐすようにゆっくりと手首を動かしながら、アランは口を開く。
「……お疲れ」
ベットの木枠に寄りかかるようにして声をかけると、彼女が僅かに身じろぎをするような気配はした。
重労働でもなんとか彼女を馬から落とさずに運んで来られたのは、彼女の意識があったからだ。怪我は痛んでいただろうが、セリーナが自分でなんとか落ちないようにとアランに寄りかかっていてくれたことで、だいぶ腕の負担は軽くなっていた。
セリーナは何も言葉を返してこなかったが、アランも口を開けるのも億劫だという気分だったから、しばらく黙ってベッドに体を預けるようにして座っていた。
本当に狭い部屋の中には、彼女を寝かした小さなベッドくらいしかない。壁も床も窓もかなり古く、ベッドも彼女を運んだ時にもぎしりと壊れそうな音を立てていたが、寄りかかっているシーツだけは、白くてさほど汚れてそうには見えなかった。
労働者や旅人が一夜を越せれば、それだけで良いという宿だ。人目を避けるために、敢えて治安の良くない町の外れの安宿をとったのだから、シーツが綺麗に取り替えられているだけでも、かなり良心的ではある。
「水が飲みたい」
後頭部からそんな声がかけられて、アランは重い体を持ち上げた。
立ち上がって寝台を見下ろすと、セリーナは目を開けてアランを見上げていた。顔色は倒れていた時と変わらず、死にそうなほどに血の気がなく青白い。潤んで見える瞳の緑はとても綺麗だったが、その分とても弱々しく見えて、前に見たときのような強さや輝きは感じられなかった。だが、これだけの怪我をしてひたすら馬で運ばれて、意識があるだけでもすごいような気もする。
「大丈夫か?」
体を起こしてやってから、水を飲ませる。
彼女はそれに少しずつ口をつけて、ゆっくりとそれを飲み込んだ。飲むのをやめてからもしばらく何も話さなかったが、やがて目を伏せてから言った。
「大丈夫じゃない」
「どこが?」
「全部」
そんなことを言われて、アランは何を返せば良いのか分からなくなる。
体や怪我のことを言っているのか、こんなところにアランに連れてこられたことを言っているのか、それとも仲間たちのことを思って言っているのか。セリーナがあの集落の襲撃の生き残りなのだとしたら、仲間の大半は今ごろ殺されているか、捕まっているかだろう。彼女がそれを知っているのかは分からないが、アランに何も聞かないと言うことは、それなりのことは察しているような気はする。
それらを全てひっくるめて「全部」なのだろう、と思えば、アランにかけられるような言葉はない。そもそもアランは軍人で、彼女の仲間たちを捕らえにきた人間なのだ。
彼女の体をまた横たえてやると、セリーナの緑色の瞳と目が合う。
「……これからどうするの?」
「君が動けるようになるまでは、ここに隠れておくしかないな」
「ここは?」
「コルヌの町はずれだ。なるべく人目につかなそうな適当な宿を取ってる」
コルヌというのはクラウィスにもほど近い町で、人も多くて活気のある場所だ。クラウィスにいる軍人もそれなりに出入りする場所ではあるが、足元すぎるのか逆にそれで魔術師狩りが入ったこともない。また、中心部は綺麗に整備されているのだが、外れになると少し雰囲気が変わって、働く場所や住む場所のない人々が多く屯する場所になる。仕事がなく中心部であるクラウィスに住めなくなった人間や、逆に仕事を求めて中心部に集まってきた人間たちが、日雇いで働いたり物乞いをしたりしており、余所者が目立つということもない。
わざわざクラウィスの近くまでセリーナを運んだのは、セリーナの怪我が一朝一夕で治るもののようにはとえも見えなかったからだ。たくせる相手がいない以上は、アランが面倒を見るしかないが、当然兵舎に連れ帰るわけにも実家の屋敷に連れて行くわけにもいかない。どうせ軍に戻っても懲罰にかけられるだけではあるので、そのまま逃亡しても良かったが、それでも兵舎なり実家なりに戻らなければ、宿や薬や食料を手配するための所持金もすぐに尽きる。
「何が目的?」
そんなことを聞かれて、アランは首を傾げる。そして立っているのにも疲れて、彼女が横になっているベッドの端に腰をかけた。
「なんのだ?」
「なんで私を助けたの?」
「別に。今までも助けてやっただろう」
「自分が処罰されても? それとも普通の人は死刑でも、あなたなら見逃してもらえるの?」
今朝聞いたばかりの言葉を聞かされて、アランは眉を上げた。
「聞いてたのか」
ロジャーたちと会話をしている時、彼女は目を閉じて眠っているように見えてのだが、起きていたのだろう。セリーナはじっとアランを見上げる。
「仲間を裏切ったの?」
「……そんなつもりはないんだが、色々と裏切ってるんだろうな」
アランはきっと、みなの信頼や期待を裏切ってばかりいるのだろう。
軍に所属してそこで身分も地位も保証してもらっていながら、それに反した行動ばかりをとっているのだし、家族や上官たちにもそれなりに期待されているのだろうが、全くそれを返せてはいない。部下たちもアランのことを信頼して任せてくれているのだと思うが、今やっていることは全てをぶち壊すことだ。
結局、誰にも何も返せないまま、処分されてしまうのだろう。
いずれは立派な兵士になって、大きくなったレックスと再会したい——と。そんな漠然とした希望もあったように思うのだが、今のアランはむしろ彼に会わせる顔がない。
「馬鹿みたい」
彼女がそんなことを呟いて、アランは口を開く。
が、別に何も言葉は出てこなかった。アランは別に彼女に頼まれて助けたわけでもなく、なんなら単なる自己満足だ。それで仲間たちを裏切って皆を失望させているのだと思えば、たしかに馬鹿みたいではある。
何も言うことができず、セリーナも何も言わなかったので、狭い部屋で居心地の悪い沈黙が続く。
アランは脱ぎ捨てていた外套を羽織ると、彼女に声をかけた。
「食べ物でも買ってくる。大人しくしてろよ」
動くのも億劫でしばらく休んでいたかったが、どうせ食べ物などは調達する必要があった。早いところ食事でもとって眠ってしまおうと思ったのだが、何故かセリーナはアランを驚いたような顔で見上げていた。
「それ、ジャクソンの上着なんだけど」
そう言ったセリーナの視線は、アランの羽織った茶色の外套にある。たしかにそれは男物で、セリーナのものではないだろうとは思っていた。まじまじと見ている彼女の表情からすると、それを何故アランが持っているのかと言いたいのだろうか。
「……倒れていたセリーナにかけられていたやつだよ」
これがジャクソンのものだとしたら、もしかしたら彼はあの場から逃れられた可能性はある。セリーナがいたあの場所にまで、追手は及んでいなかったのだ。そしてあの付近に誰もいなかったから、彼は動けない彼女を連れて行けずに、置いて逃げたのかもしれない。
その時にせめて自分の外套をかけていったのだとしたら、それは苦渋の選択だったに違いない。
「そう」
アランの言葉に何を思ったのかは分からなかったが、彼女はそれだけを言うと、アランから視線を外した。
「借りて行ってもいいか?」
アランはそう聞いたが、セリーナは天井を見たままだった。
「軍服は目立つから借りてたんだ。新しいのを調達してくるよ」
「……別に気にしなくていい。そんなぼろの服が役に立つなら使って」
ありがとう、とアランがいうと、彼女は瞳を閉じた。
「疲れただろうから、眠ってていい。隣にも部屋をとってるんだ。戻った時に声はかけるが、もしセリーナが寝ていたら俺はそっちで休むから」
そう言ったのだが、なぜだか彼女は瞳を開けた。
「私はあなたの名前を知らないのだけど」
そう言われて、アランは思わず自分が彼女の名前を呼んでいたことに気づく。彼女たちはお互いに名前を呼び合っていたから、アランの方は勝手に知っていたのだ。
「アランだ」
アラン、とセリーナが名前を呟いた。何かを言うかと思って少し待ったが、彼女は特に何も口にする気はないようだった。
「おやすみ」
そう声をかけて外に出る。セリーナは何も言わずに目を閉じた。