一章 魔術師たち8
「ごめん、セリーナ」
ジャクソンはそう言ってから、セリーナの体を慎重に起こした。当然だが、傷口が痛んだのだろう。彼女の口から呻くような声が漏れて、ジャクソンは「ごめん」と繰り返す。
ヘレナに手伝ってもらってセリーナの体を背負うと、ジャクソンはヘレナを促して足を進めた。しばらく痛みに耐えるように息を荒くしていたセリーナだが、やがて彼女の両腕が、ぎゅっとジャクソンの体を強く締める。
「……馬鹿なことしないで。すぐに追いつかれてみんなで死ぬだけよ」
「そうならないように、暴れずに大人しくしがみついててくれよ」
「こっち」
ヘレナが先導するように歩き出す。先ほどまでは自分の手元も見えなかったが、ヘレナの周りだけぽっかりと濃霧が晴れている。精霊の加護があるのか、もしくはそういうふうにヘレナが精霊を操っているのか。
「みんなは」
「……分からない」
苦しそうに言ったヘレナに、ジャクソンは首を横に振る。ここだと呼びかけたいところだが、それで敵の注意をひきたくない。
「みんなにはヘレナの精霊は見えるはずだ。追ってくるさ」
「……うん」
そんなことを言っていると、足音が聞こえてどきりとする。今襲われても動けないと思っていると、そこから出てきたのは兵士たちよりひとまわり小さな姿だった。
「カーティス! 良かった、無事だったんだな」
ジャクソンの言葉に、彼は泣きそうに顔を歪めた。カーティスは何度か頷いてから、ジャクソンが背負っているセリーナを見上げる。彼もセリーナのことは慕っていたはずで、何かを聞きたいはずだと思うのだが、彼は何も言わずに視線を戻した。
「カーティス」
ヘレナは名前を呼んで、何も言わずに手を出した。それは泣きそうで心細そうなカーティスを心配してのものか、それとも精霊に意識を向けているヘレナのための手か。先ほどまではずっとジャクソンが手を繋いで歩いていたのだが、今は両手が塞がってしまっている。
彼は少し迷うようにしながらも、ヘレナの手を取る。ヘレナとカーティスが、二人で手を繋ぎながら歩き出したので、ジャクソンはその後をついていく。カーティスが来てくれて助かった、とジャクソンは心底思う。彼も魔術は使えるし、いざとなればヘレナの精霊を使うこともできる。ジャクソンはセリーナを背負いながら、咄嗟に魔術を使える自信はなかった。
敵に見つかりたくないということもあるが、声を出す余力すらなく、黙々と歩き続けた。他の仲間が合流しないかという希望と、兵士たちが追ってくるかもしれないという恐怖が、頭の中では交互に浮上したが、とにかくヘレナの背中だけを見て、ジャクソンはひたすら足を出す。
背負っているセリーナはぐったりとジャクソンに体を預けており、呼吸も荒い。ジャクソンの背中にもべたりと血のようなものがついている気がするから、出血も止まっていないのかもしれない。それにそもそもセリーナはかなり魔術を使っていた。だからこそ敵に狙われたのだろうが、そこでもすでに体力は限界だったはずなのだ。こうして背負われているだけでも、辛いに違いない。
だが、そんな心配が出来たのも最初だけだった。もう半刻ほどは歩いただろうか。しばらく歩くと、ジャクソンの思考は全て「苦しい」とか「辛い」とかに塗りつぶされた。
足を止めないようにするのが精いっぱいで、何も考えられない。人一人を背負って歩くには、道が悪く、そもそもその前から疲れきっていたのだろう。一歩一歩を出すのに力を使うし、息が上がっているのか頭もぼうっとする。
気づけば地面の段差に足を取られて、顔から転倒していた。
「ジャクソン!」
「セリーナ、大丈夫か」
背負っていた彼女を投げ出してしまっていて、ジャクソンは慌てて彼女の様子を確認する。
衝撃はあっただろうに、セリーナは目を開けていなかった。胸は大きく上下しているが、意識はないように見える。
「ジャクソン……セリーナはここに置いていきましょう」
上から聞こえたヘレナの声に、ジャクソンは弾かれたように顔を上げる。
青白くいまにも倒れそうなヘレナの顔には、先ほど見せたような涙はない。疲れきってしまって涙も出ないのか、それとも無理をして耐えているのか。
誰よりも優しくてセリーナのことが大好きなヘレナがそんなことを言ったことに、ジャクソンは心臓が握りつぶされてしまうような感覚を覚える。
「ヘレナ」
「私とカーティスを助けて」
ごめん、とジャクソンは呟く。
自分があまりに無力で、泣きたくなる。セリーナを連れていけないことも、ヘレナにそんなことを言わせてしまったことも、そもそも自分で何も決断できなかったことも。ヘレナの言葉は、自分が助かりたいという言葉ではなく、ジャクソンを助けたいという言葉だ。
そしてこんなところでセリーナを一人で置きざりにするくらいなら、もしかしたら連れてこないほうが良かったのかもしれない、なんて思った。そうすればもしかしたら他の仲間が助けてくれたかもしれないし、そうでなくてもセリーナは痛くて苦しい思いをせずに済んだ。
そう考えると、息が苦しくなる。動けないジャクソンの耳に、ヘレナの透き通るような声が届いた。
「水の民、お願いセリーナを守って」
ヘレナは青白い顔でそう言って、セリーナの手を握る。
ヘレナはセリーナが助かる可能性があると思って魔術を使ったのか、それとも彼女の苦しさを和らげたかっただけか。ぽかんとヘレナと彼女の使った青い鳥を見ていると、ヘレナの体がぐらりと揺れる。ジャクソンは慌てて彼女を支えた。
「大丈夫。私はまだ歩ける」
そう言って立ち上がったヘレナだが、もう本当にいつ倒れてもおかしくない顔色に見える。ジャクソンが彼女の背を支えていると、何を思ったのか彼女は上着を脱いだ。そしてそれをセリーナの体にかけようとするのを見て、ジャクソンは慌てて止めた。
「俺の方が大きいから」
ジャクソンは自分の外套を丁寧にセリーナにかける。暑くて邪魔で何度も途中で脱ぎ捨ててしまおうと思ったが、それをしなくて良かったと心底思った。歩き続けているジャクソンは暑いが、動けないセリーナはきっと寒いだろう。
「行きましょう」
ヘレナはそう言って自分の足で歩き出す。手を差し出されたが、それはジャクソンがヘレナを支えるためではなく、ヘレナがジャクソンの手を引くためのものなのだろう。小さな掌に導かれながら、ジャクソンは足元だけを見て歩く。カーティスもしばらくセリーナを見ていたようだったが、やはり何も言わずについてきた。
***
途中で何度か休憩しながら、ジャクソン達はひたすら歩き続けていた。ヘレナは途中で何度か背負って歩いたが、カーティスは小さな体で文句も言わずに歩き続けている。なるべく人のいない場所へと山沿いに移動し続け、気づけばもう日は傾いていたから、半日は歩いたことになる。
山の麓に誰も使っていなさそうな小屋を見つけて、中に入る。扉と窓を内側から厳重に閉ざしてから、三人で身を寄せ合って眠った。もしかしたら誰かがジャクソン達に気づいて通報されるかもしれないとは思ったが、それよりも疲れと睡魔に勝てなかった。
死んだように眠って、何度か固い地面で眠る体の痛みに目を覚ましたが、その度に体勢を変えて瞳を閉じる。体が起きるのを拒否していたのだろうし、頭も覚醒したくはなかったのだろう。
だがその時、痛む頭を起こしたのは、そばで寝ているはずの顔が一つ足りなかったからだった。ジャクソンは慌てて飛び起きたのだが、部屋の隅で膝を抱えるカーティスの姿があって、安堵の息を吐いた。
「起きてたのか、カーティス」
ジャクソンが声をかけると、彼はびくりと顔を上げた。その顔には泣き腫らしたようなあとがあったから、とっくに起きていたのだろう。もしかしたら、あまり眠れなかったのかもしれない。
「大丈夫か」
「ううん」
そんなことを言われて、ジャクソンは驚いて彼の元へと移動する。
ジャクソンが動いても、一緒に眠っていたヘレナは全く微動だにしなかった。意識がないかのように顔も白く、呼吸をしているかすら怪しいほど動かない。先ほどまで抱き込んで眠っていた時には、温かくて呼吸もしていたから、生きてはいるのだろうとは思うが、消耗が激しいのだろう。彼女の周りは常に、心配そうに精霊達が舞っている。
「みんな死んじゃったかな」
ぽつりと言ったカーティスに、ジャクソンはぎくりとした。
それはきっとジャクソンが考えないようにしていることで、それを忘れるために馬鹿みたいに眠っているのだ、と自分でも思う。
「……分からない」
きっと逃げてみんな生きているはずだ、なんて言えるわけもない。少なくともカーティスは、血まみれのまま置き去りにされたセリーナの姿を見ているのだ。
カーティスは膝を抱くようにして、小さな体をぎゅっと丸める。
「なんでまた逃げちゃったんだろうな。父さんと母さんが捕まった時も、俺は怖くて一人で彼らを置いて逃げて、それをずっと後悔してたのに」
カーティスは両親を兵士に処刑されたのだ、と。人から聞いてはいたが、彼が両親の話を口にするのは初めてだった。そこに両親を殺された悲しみや怒りだけでなく、ひとりで逃げてしまったことに対する後悔も含まれていると知って、余計に辛い気持ちになる。まだ幼かったはずのカーティスは、ひとりでそんなものを背負わされていたのだろう。
カーティスは全身をぶるぶると震わせながら、だが、口調だけは淡々と続ける。
「一緒に死んでおけば良かったってずっと思ってたのにな。なんでまたみんなが死んだのに、俺は逃げちゃったんだろ。あそこで死んでた方がずっと楽だったんじゃないかな」
そう言って赤く腫れた瞳をジャクソンに向ける。もうそこに涙は浮かんでいなかったが、それが余計に悲痛な訴えに見えた。
みんなと一緒ならどこでも楽しく暮らせる——と、カーティスに言ったのはジャクソンだった。そのみんなとはいったい誰のことだっただろう。そのみんながいないのに、生きている意味などあるのだろうか、というのは今のジャクソンには何も分からない。
「ヘレナとジャクソンなんか見つけなきゃ良かった」
吐き出すような言葉に、ジャクソンは胸が痛くなる。彼の小さな体をぎゅっと抱きしめる。だが、それでもぶるぶるとした体の震えを止めることはできない。
「ごめん」
他に何も言えずにそれだけを呟くと、腕の中でカーティスがぽつりと言った。
「ジャクソンは謝ってばかりだ」
本当にそうだ、とジャクソンは思う。謝っても済まないようなことをひたすら謝るのは、それしか出来ないからなのだろう。セリーナだったらきっと、カーティスの心を慰めるような言葉が出せるのに、ジャクソンにはそんな言葉はひとつも思いつかない。
「ごめん」
と呟く。
それは無力なジャクソンの免罪符か。それはいったい誰に対するものなのだろう。単に自分を慰めたり誤魔化したりするだけのものであるような気もして、ジャクソンは絶望的な気持ちになった。