一章 軍の兵士たち5
なんとなく背中の傷が痛んで、アランは起き上がる。
雨が降るのかもしれない、なんて思ってから、ひとりで苦笑する。前にそれをロジャーに言ったところ『古傷が痛むなんておじいちゃんみたいだね』なんて言われたのを思い出したのだ。
天幕の外に出ると、星は見えなかった。空は白くけぶったようになっており、やはり雨は近いのかもしれないなんて思う。周囲は闇に飲まれたようになっているが、野営をしている所々には火を置いて目が届くようにしてある。雨が降ると厄介ではあるのだが、その時はその時だろう。別に敵を警戒しているわけではないから、火を消してしまって見張りも天幕で眠れば良いだけだ。
「あれ、隊長。どうしました?」
「小便」
「行ってらっしゃい」
軽い口調で送り出してくれる。
どうも隊長と副隊長がこんなのだからか、全体的に雰囲気は軽い。隊によっては隊長に口答えも意見もできないなんて隊もあるようだが、アランとしてはこちらの方が居心地は良かった。隊長であるアランがいつも誰かしらに怒られているような気がするから、この中隊も下に見られがちなのだが、演習の成績なども全く悪くはないのだ。
近くの林で用を足してから、ふと足を止める。
「風がないな」
ふと、先ほどまで吹いていた風が止まった気がして、アランは思わず一人で呟いていた。
そして気づけば視界が随分と白く染まっていて、アランは眉根を寄せる。先ほど見たように霧なのか靄なのかがたちのぼっているのだろうか。だが、それにしても白い。
林の中で微かに足音がして、アランは神経を研ぎ澄ます。獣ではない。明らかに人間の足音だった。その足音はひとつではなく、二つだろうか。確実に複数人が息を潜めている。視線を巡らせるが、二つ先の木が見えるか見えないかほどの視界の悪さだ。音の場所からするとまだ距離はあるが、何者だろう。
——狙いはなんだ。
アランは要人を護衛しているわけでもないから、軍の駐屯を狙う人間がいるとも思えない。
「こんばんは」
は、と思わず口から息が漏れた。
全く気配を感じなかったにも関わらず、すぐ目の前の木の裏から人が出てきたのだ。そしてその姿はとても小さく、そして声も子供だ。
そしてその顔に見覚えがあって、アランは息をのむ。同時に彼女の後方から足音がして、思わず身構えた。すると今度はアランの背後から大きく踏み込んでくるような音がして、思わず振り返る。
——と、目の前に小ぶりな剣の閃きがある。
喉元に剣先を突きつけられて、アランは息をのむ。そして目の前に対峙している女性にもやはり見覚えがあり、アランは瞳を大きくした。
明るい緑色の瞳は、睨みつけるようにしてアランに向けられている。今日はフードをかぶっていないから、太陽の下で見ればきらきらと光る金髪があるのだろうが、今は暗くて色は分からない。
先日は魔術を使って攻撃してきたが、先ほどの動きからすると、一応は剣も使えるのだろう。そして背後には、先日の少女が一人と、その背後から迫っていたもう一人。姿は見えなかったがあの時の男性だろうか。
魔術師、ということは、もしかしたらこの白く立ち込める霧も魔術なのか。
「死にたくなければ剣を捨てて両手をあげて。それから大声を出したら殺すわよ」
目の前の女性の声に抗わず、アランは剣をそっと足元に落としてから、ゆっくりと両手を上げた。
「こんなところで何してる?」
「あなたは?」
「用を足しにきただけだよ」
そう言うと、返答が気に入らなかったのか女性は眉を寄せる。
「私たちはジャクソンを返して欲しいの」
そう言ったのは、アランの背後の少女だった。アランは目の前の女性から目は逸らさないまま、首を傾げる。
「ジャクソン?」
「あなたの馬車の中にいるでしょう」
「ここで捕まった金髪の男か?」
「そう」
「なるほど、君らの仲間か」
背後の少女と会話をしながらも、アランは真っ直ぐにアランを見つめてくる女性の視線に気を取られていた。
彼女の真っ直ぐで真剣な瞳は、とても綺麗で——そしてとても怖い。前に見た時よりもずっと恐ろしい気がしてしまって、心の中がざわついた。その感情の意味をアランは知っているが、敢えて考えないようにする。
「魔術師は捕らえて衛兵に引き渡すのが法で、法を遵守するのが軍だ。馬車に乗っているのが君たちの仲間なら、たぶん彼も魔術を使えるんだろうな」
アランの言葉に目の前の女性が瞳を大きくする。
そこに怒りの感情が見えた瞬間に、アランは片手を下ろし、彼女の持っていた剣の刀身を手の甲で叩く。そして、その切先がアランの首元からずれたのを見計らって、彼女の膝に足をかける。簡単に体勢を崩した女性を片腕で地面に押し付け、もう片方の手で先ほど置いた剣を拾い上げるところまでを一気にやった。
アランは持っている剣を慎重に彼女に向ける。
「悪いが、構えが隙だらけだな。剣を使いたいならもう少し学ぶといい。魔術を使えない場面は多いだろうからな」
言ってから、別に彼女は兵士ではないのだが、と思いなおす。
剣を持ったこともなかった普通の少女が、今のご時世で剣を持たざるを得なかったのだとしたら、それは哀れな話ではあるし、アランの言葉も余計なお世話だろう。
魔術は人目のつくところで使えば一発でアウトだ。今回も魔術を使って攻撃してこなかったのは、他の兵士たちに気づかれたくなかったからだろう。だが、遠くから狙われるならともかく、付け焼き刃の剣で接近されたところで全く脅威ではない。
アランの言葉に、女性は気の強そうな瞳で睨み上げてくる。すると背後からどんと少女にぶつかられた。アランを止めようとしたのか、背中から胸に手を回されるようにされ、アランは舌打ちをする。
「おい、近づくな」
「お願い、セリーナに乱暴しないで」
「ねえ、こんな男が本当に協力してくれると思う? 最初から天幕全部、焼いちゃえばよかったのに」
「……君は口を開くな」
改めて自身が押さえつけている女性に剣を向けるが、彼女はわずかに口の端を上げただけだった。
彼女が一番攻撃的で、何をするか分からないところが恐ろしい。前回は彼女に魔術を使われて負傷しているからか、彼女が口を開くたびに魔術ではないかと身構えてしまって疲れるのだ。
この距離でそれを使わせるわけもないが、だからと言って無力化するためにあまり乱暴なことはしたくない。そう考えていたのだが、彼女の方はアランを挑発的に見上げてくる。
「この間も言ったけど、あなたに捕まるくらいなら死んだほうがマシね。この状況では死ねないと思ってるかもしれないけど、まだ後ろにはカーティスがいるのよ」
そんなことを言われて、アランは少し眉を上げる。
たしかにいま手元にはセリーナと呼ばれていた女性がいて、後ろにはヘレナと呼ばれていた少女がしがみついている。彼女たちはすぐに手を出せる位置にいるが、ヘレナの後ろにいた足音については、まだ人物を捕捉できてもいない。カーティスというのは先日彼女たちと一緒にいた男性だろうか。
「カーティスは両親を処刑台の上で首を落とされて殺されてるの。だからきっと彼なら、私もろともあなたを焼き殺してくれる」
そんな言葉に、アランはすっと体が冷えるような感覚に襲われる。
背後で魔術を構えているのは、どこかの処刑台で首を落とされて晒された魔術師たちの子供。当然、そうした存在はあると思っていたし、彼らがアランたち兵士に復讐をしようと考えるのも当然だと思っている。
——思ってはいたが、実際にそれと対峙するような気構えがいますぐにあったかと問われれば、なかったと言うしかない。
彼にとっては兵士であるアランを殺す理由などいくらでもあるだろうし、あの無惨な姿を見ているのだとしたら、確かにここで彼女を殺してあげたいと思う可能性はある。
「お願い、私たちは仲間を助けたいだけなの」
後ろからしがみつくようにしてくる少女は、そんなことを言って、より強くアランの体に手を回す。
そしてセリーナの緑の瞳は、依然として射抜くようにアランに向けられていた。それは人を殺してのうのうと生きている、それどころかそれを軍の命令だから仕方がないと考えているアランを糾弾しているようで、内面が掻き乱される。
アランは魔術師に命を助けられておきながら、その魔術師たちの命を奪っているのだ。
セリーナがそれを知るわけはないのだが、それでも仲間を助けたいという純粋な気持ちで動いている彼女たちに、こうしてまっすぐに真剣な瞳を向けられると、アランは本当に非道な人間なのだと思い知らされるのだし、自分はいったい何をしているのだろうという気にさせられる。
「俺は」
言ったが、言葉は続かない。
このままセリーナを手放して、隊に合流するのか。もしくは彼女たちに協力して彼女らの仲間を助けるのか。頭が考えることを放棄しているようで、何を言えば良いのか全く浮かばなかった。