一章 にせもの王子たち7
「アラン」
レックスが呼びかけたのは、扉付近に立つ護衛の一人だった。
背が高くて姿勢が良くて、いかにも軍人といった男の人だが、最近配属されたばかりなのか随分と若く見えた。護衛には話しかけても必要最低限のことしか言ってくれない人が多いのだが、彼はいつもクリスを部屋に案内してくれる道中で、レックスの容態などを丁寧に教えてくれる。明日も来ても良いかと聞くと、彼はいつも快く頷いてくれるため、クリスはいつも彼を選んで話しかけていた。
「はい」
アランと呼ばれた男性はレックスに近づいてから、跪く。
「少しだけクリスと二人きりになれないかな」
レックスのそんな言葉にクリスはどきりとした。
レックスのところにお見舞いにきてから四日目の朝のことだった。昨日もレックスが眠っている間は小さな水の精霊を使って彼の体を癒していて、その甲斐があったのかどうかは分からないが、今日は朝からレックスは起きてクリスを待ってくれていた。アランは朝はレックスが簡単な食事を取れたのだと教えてくれたから、着実に回復しているのだろう。
昨日は起きていてもやはり辛そうには見えていて、あまり彼は口を開かなかった。だが、今日は朝から顔色は良さそうに見えていて、レックスはクリスが来るなり二人きりで話をしたいと言ったのだ。
そんなことが許されるのかどうか、と思っていたのだが、アランはあっさりと頷いた。
「それでは我々はしばらく部屋の前で待機していますね。必要があれば呼んでください」
「ありがとう」
彼はレックスの言葉に頭を下げ、そして同僚の護衛を促してから一緒に部屋を出る。それを視線で追っていると、レックスの声が聞こえた。
「彼は僕のこと知ってるよ」
急に言われた言葉にどきりとする。なにが、というところは全く無かったが、『僕が本物の王子でないことを』知っているということなのだろう。クリスがレックスを見下ろすと、彼はにっこりと笑った。
「僕のために毎日、来てくれてありがとう。あまり覚えてなくて申し訳ないんだけど、もう丸三日もずっと一緒にいてくれてるってアランから聞いたよ」
「いえ……怪我の具合はいかがですか」
「まだ自分では起き上がれないんだけど、たぶん大丈夫」
そう言って笑ったレックスの笑顔は、先日見たようなものではない。やはりどこか作っているような白々しい笑顔をして、クリスを見上げる黒い瞳が細められる。
「もう大丈夫だと思う。心配してくれてありがとう。クリスももう来てくれなくても大丈夫だよ」
そんな言葉に胸がぐさりと刺されるように痛む。
「……ご迷惑でしたか?」
「そんなことはないんだけど、クリスもずっとここにいても退屈だろうし」
そんなことはない、と咄嗟にクリスは首を振ったが、そう言う問題ではないのだろう、と思い直す。
考えてみれば、彼にとっても屋敷の人間にとっても、本当に迷惑だったのかもしれない。もしかしたらクリスがずっとここに居座ることで、他の人間が入ってきづらかったかもしれないし、屋敷の人間もクリスのことが気にかかるようで、食事だのなんだのと声をかけてくれていた。レックスだって、生死の関わるような大きな怪我をして眠っているところを、家族でも医師でもないクリスが眺めていたところで、休まらなかったかもしれない。
そんなことを考えたら、自分がとても悪いことをしていた気がして、涙が出てきて止まらなくなった。そしてそれにレックスが驚いたような顔をして、クリスはさらに焦る。こんなところで泣いていたら本当に迷惑に違いない。
「ごめんなさい」
「ごめん」
クリスとレックスの言葉が重なった。クリスはもう部屋を出ようと思ったのだが、立ちあがろうとすると彼の手がクリスの腕を掴む。その際にレックスが少しだけ痛みを堪えるような顔をしたので、クリスは動きを止めた。彼は腕を離しながら首を振った。
「ごめん、本当に迷惑なんかじゃないんだ。だけどクリスが誰かに命じられて訪ねて来ているなら、もうその必要はないって伝えたくて」
「そんなことは……誰かに命じられて来たわけではありません」
なんとか涙を拭きながらそう言うと、レックスは少しだけ首を動かす。
「それならどうしてクリスはここに来てくれるの? 僕なんかのところにいたところで、何の得もないと思うけど」
得、なんて言ったレックスの顔を見下ろす。
損得で言うなら、きっと得はあるのだ。父はレックスがにせものだと分かったうえでクリスをレックスの元に付けているのだし、そのうえで王子に気に入られるように、と常に言っていた。クリスもずっと王子に嫌われないようにと振る舞っていたのだし、その延長でいけば、レックスに取り入ることに何かの意味はある。
だが、彼が本物の王子だと思っていた頃は、レックスもきっとそんなことは言わなかっただろう。彼はクリスの瞳を見上げて、静かに言った。
「クリスがそれを選べるかどうかは分からないけど、ここにいても良いことはないと思う。これまでも僕を助けるために死んだ護衛達がたくさんいたし、僕の身代わりになって死んだ子供もいた。今回も僕は助かったけど、周囲にいた人が三人巻き込まれて亡くなったって聞いてる」
亡くなった人がいる——ということに、クリスはどきりとする。ここにいたら、いずれクリスも王子を狙った襲撃に巻き込まれる可能性があるということか。思わず息を飲んだクリスを見上げて、レックスは口元を歪める。
「馬鹿みたいだよね」
「え?」
「僕を助けるために死ぬなんてさ」
口元は笑っているようには見えたが、黒い瞳の奥は深くて暗い。
「僕が王子だから仕方ないって周りの大人たちは言ったし、僕が助かって良かったって言ってたけど、そんなわけはないよね。僕も自分が王子だと思っていた時には無理やりそれで納得したつもりだったけど、そうじゃなかったのなら、なんで彼らは死んだんだろう」
そんな言葉は重すぎて、とてもクリスには受けとめきれなかった。彼はにせものであることに苦しんでいるだけでなく、にせものである自分のために死んでいった人々のことをも思って苦しんでいるのだ。
何も言えないでいるクリスに向けて、というよりも自分の胸のうちにある言葉を吐き出すように彼は言う。それは王子ではないと知らされてから、何百回と考えた内容ではないだろうか。
「僕のことを本物ではないと分かったうえで、それでも僕を守るために死ななければならなかったなんて馬鹿みたいだし、僕のことを本物だと思って死んでいった人たちも本当に可哀想だよね」
そんなことはない、なんて軽々しくクリスが言えるわけもない。
ここにはレックスの家族はいないように見える。こんな状況でも、子供であるクリスが側に付いていられるほどに彼の周りには誰もいないのだ。ひとりで悶々とそれを考えて、そしてひとりで泣いていたのではないかと思うと、胸が苦しくなる。
本物の王子の身代わりをさせられて、こんな酷い怪我を負っておきながら、それでも自分が本物でないと言うことを苦しまないといけないなんて、それこそ馬鹿みたいだ。本当に苦しむべきはレジナルド殿下だが、彼ならば誰かが自分のための犠牲になっても、それを当然だと考えるのではないだろうか。
「どうしたの?」
レックスに問いかけられて、またクリスがぽろぽろと涙を流していることに気づく。
「レックスも、可哀想だと思います」
そう言うと彼は、少しだけ驚いたような顔をしてから、何故だか眉根を寄せた。
「そうかもね。僕も、僕の周りもみんな可哀想だ。クリスだって僕のことを本物だと思ってたんだろう。そして、そうじゃないと分かった今でもこうして訪れないといけないなんて、本当に可哀想だね」
それはとても意地悪な言葉に聞こえて、クリスは胸が痛くなる。
クリスが可哀想だと言ったことが、同情されているようで不愉快だったのだろうか。そもそも好かれてはいないのかもしれないし、こんなところで張り付いて図々しいと思われているかもしれない。
だが、何となく、彼を本当に心配していたことだけは伝えなければいけない気がして、クリスは精いっぱい首を横に振った。
「私は……これまでは父に命じられてここを訪れていましたが、今は父にお願いして来ています。友達が怪我をしたと聞いたら、心配してお見舞いに行くのが普通でしょう……?」
「友だち?」
初めて聞く単語を発音するかのように、レックスは目を瞬かせた。王子には友人などという概念はないのかもしれない。実際、クリスはレックスのことを友人だなんて考えたこともなかったが、他に言い方が思いつかなかったのだ。
「殿下に対して勝手に友人だなんておこがましいとは思いますけれど……」
「僕は殿下じゃない」
「それなら良かったです。私は王子様を心配しているわけではなく、レックスを心配してここにいるのですから」
そんなことを涙ながらに——というよりも先ほどからずっと泣いてばかりなのだが——訴えたのだが、レックスがそれで心を動かされたようには見えなかった。
彼は泣いているクリスをしばらく眺めていたが、何故だか苦い顔で笑った。
「ごめんね。本気で心配してくれてるのかもしれないけど、なんかもう誰も信じられないんだよね。クリスがなんで僕に近づくのか分からないし、小さくても間諜とか暗殺者の仲間だったらどうしよう——なんて馬鹿なことを考えるのも、もう疲れちゃった」
乾いた声で言われた言葉に、クリスは動けなくなる。
やはりクリスがここにいることを彼は歓迎していないのだろうし、彼のためにクリスが何かをしてあげられるなんて、そんな訳はなかったのだろう。
レックスはクリスの方は見ずに、カーテンの閉じた窓を見つめていた。その瞳は何も映していないようで、それは意識がもどっていなかった時に、ぼんやりと天井を眺めていたあの時の顔と変わらないように見えた。体の傷は水の民の魔術で少し良くなったのかもしれないが、心の傷の方は水の民が癒せるとも思えない。
——だが、あのときクリスが手を握ると、彼は本当に嬉しそうに笑ってくれたのだ。
無意識だったにせよ、一人きりでいるより、誰かが側にいたことがやはり嬉しかったのではないだろうか。そう考えて、クリスはごしごしと目を擦る。
「水の民」
クリスが精霊の名を口にすると、意味が分からなかったのだろう。レックスはこちらを見て訝しそうな顔をする。
「……レックスが早く元気になりますように」
そう言うと、彼の近くにいた精霊がパチンと音を立てて消えて、代わりにレックスがきょとんとしたような顔を見せた。それから何故だか彼は、手のひらをお腹の辺りに当てる。
「いま何したの?」
「何か変わりがありました?」
「……分からないけど、なにか温かい気がして」
そう言ったレックスに向けて、クリスは唇にひとさし指を当てて見せる。
「二人だけの秘密にしてくださいね」
「は?」
「他の人に知られたら、私は家から追い出されちゃうし、誰かに殺されちゃうかもしれない。レックスは私のことを信じられないと思うけど、私はレックスのこと信じたいから」
わけがわからないといった顔をしているレックスに小さく笑いかけて、クリスは鼻先に近寄ってきた小さな精霊の名前を呼ぶ。
「レックスの痛みが少しでも早く良くなりますように——」




