五章 新しい王都の創立2-5
ヘレナが王になる、と言ったのは、レックスやエイベルが国に帰ってしまう前の日だった。
ジャクソンと二人きりで湖の近くを散歩していて、急にヘレナがそんなことを言いだしたので、ジャクソンは慌ててヘレナの手を握った。
「なに?」
「こないだみたいに湖に飛び込みたくないからさ」
ヘレナがまた魔術を使って湖に歩いていってしまうと、ジャクソンには追いかけられないのだ。ジャクソンの言葉に、ヘレナはくすりと笑う。
「水の民、お願い」
彼女はそう言うと、ジャクソンの手を引いたまま湖へと向かった。そしてそのまま湖面に足をつける。
「ジャクソンも来て」
そんなことを言われて、濡れろということかとジャクソンは首を傾げたが、促されるままに水に足を入れようとした。だが、ふわりと足が浮くような感覚と、ふわふわとした水面を踏んでいる感覚に、一気に背すじがあわだつ。慣れるまでは全身が妙な緊張をしていたが、やがて普通に歩けるようになった。
「すごいな、どうなってる?」
「さあ。この子がやってくれてるから」
そう言ってヘレナが指し示したのは大きな青い鳥だ。氷でも張ればできないことはないだろうが、こんな湖面を自由に歩けるのはヘレナだけだろう。今さらながらに特別なヘレナと一緒にいるという特別を、湖の真ん中という見慣れない景色の中で思う。
「手を離したら落ちると思うけど」
「離さないよ」
ぎゅっと彼女の小さな手を握る。
「どうして王になってもいいって思ったんだ?」
「私に出来ることなんてあまりないもの。王になってもそれは変わらないと思うけど、それでも私で良いのなら」
ヘレナはなにもする必要はない、というのはアイザックやオーウェンも言うところで、それでも彼女を王に据えるというのは魔術師の象徴のような存在だからだ。魔術師でないレックスはヘレナの人格についてを語ったが、魔術師であればどうしても彼女と精霊は切り離せない。
新しくここに入ってきた魔術師でも、ヘレナを見れば必ず畏敬の念を抱くのだし、他国からもどんどんと仲間が増え続ける現状では、皆をまとめて従わせるのにヘレナほどの適任はいない。
「ジャクソンはそれでもいい?」
「いいよ」
ジャクソンは力強く頷く。もともとヘレナがどちらを選ぼうと、ジャクソンはなにもいうつもりはなかったし、ヘレナが王になるというのならジャクソンも全力でそれを支えるつもりだった。
そのためにジャクソンはアイザックやオーウェン達と一緒に、レックス達にいろいろなことを学んでいるのだ。この国をどうしていくのか、という話し合いにも欠かさず参加させてもらっている。自分がそれに相応しいとはとても思っていなかったが、魔術師としてヘレナの代わりは出来なくとも、それ以外ではヘレナの代わりを出来ることはあるだろう。
ヘレナが王にならないと言った場合でも、ヘレナが魔術師たちにとって特別なのは変わらない。ヘレナとアイザック達を繋ぐ役割として、ジャクソンの存在は必要だと思っていた。
「私より、ジャクソンの方が大変な気がしてるのだけど」
「そうかな?」
「だって私はもし王になっても、用がなければ診療所に籠るわよ、ってアイザックとオーウェンに言ってるもの」
そんなことを言ったヘレナに、ジャクソンは少しだけ驚いた。彼女は周囲の期待を背負ってしまうし、責任を自分で抱え込んでしまうから、二人にそうした主張を堂々と出来るというのは意外だった。だが、それだけヘレナも大人になっているということだろう。
「二人は別にいいよって言っただろう」
「うん。イベントがある時だけ、年に何回か王様をやってくれればいいよって言ってた」
二人らしい言葉にジャクソンは笑う。
他国は知らないが、アルビオンでは王様が出てくる正式なイベントなど別に必要ないのだろう。レックスのいうとおり、なるべく国民の生活には干渉しないつもりであるし、その上でアイザックやオーウェンが身軽に統制をとるというのなら、本当に国王は飾りだ。
それに怪我や病気をした時に、いつでも王様が手厚く看病してくれる国など他にないはずだ。それはそれで、とても良い国である気がした。ヘレナを頼りにしている人は本当に多い。レックスは国王はいちばん目立つ飾りで、その人物によって国の色が変わると言っていたから、ヘレナがそこにいることだけで意味がある。
国民からしても、強くて攻撃的に見える魔術師が玉座に座るより、医師として治療も行う、優しげで平和的なヘレナが座る方が何倍も安心だろう。
「それでいいと俺も思うよ。それでも大切な役割だし、大変な役割だ」
ヘレナの手をぎゅっと握る。
「俺が出来ることなんかヘレナより何もないし、アイザック達と話をしてるだけだけど、それでもヘレナの役に立ちたいし、側にいたいと思ってるよ」
「ずっと一緒にいてくれるんでしょう?」
「うん。もしヘレナが王様でいることが嫌になったり、精霊達が急にいなくなったら、二人で遠くで暮らそう。なんならセリーナを連れて、アランのところに押しかければいい。これまでも散々世話になってるし、あちらではヘレナの精霊なんかもともと見えない人ばかりだ」
ジャクソンの言葉に、ヘレナは可愛らしく瞳を瞬かせたが、やがてふわりと笑った。
「それは素敵ね」
「ああ」
ジャクソンはそう言ってから、ぎゅっと握っていた彼女の手を見下ろす。しばらく迷ってから、その手を持ち上げる。不思議そうにジャクソンを見上げているヘレナの青い瞳を見ながら、そっとその甲に唇を落とした。
「プロポーズさせてもらえないかな」
「え?」
「今すぐってつもりは全然ないし、ヘレナが嫌になればいつでも解消していい。俺がヘレナとずっと一緒にいるよ、っていう誓いを立てたいだけなんだけど」
ヘレナは驚いたような顔で固まっていた。先ほど口付けた白い綺麗な手を、両手で包み込むようにする。
「ヘレナが大人になってから、っていうよりは俺が王の配偶者として相応しいって認められるまでは、待って欲しいと思ってるけど。何年かかるかは分からないけど、堂々とヘレナの側にいられるように頑張りたいなと思ってるんだ」
ヘレナのことは誰もが王に相応しいと言うだろうが、その横でジャクソンが大きな顔をするのは違うだろう。これまでのように保護者としてであれ、婚約者としてであれ、ジャクソンはジャクソンとして認められる必要がある。
「どうかな?」
ジャクソンの顔とぎゅっと包み込む両手を交互に見て、ヘレナは泣きそうな顔で言った。
「嬉しい」
そう言ったヘレナの頬に触れようと、手を離した瞬間に、視界から一気にヘレナが消えた。
というより、足元から湖にどぼんと突っ込んで、冷たい水の中に頭まで埋まる。慌てて水面に浮上すると、驚いたような顔をしたヘレナが見下ろしている。プロポーズをした直後に我ながら格好が悪いが、ジャクソンを知る人たちはみな、ジャクソンらしいと笑う気がした。
ジャクソンも自分で自分に思わず笑う。
「手を離しちゃダメなんだったな」
「うん。大丈夫?」
「めちゃくちゃ格好悪いけどヘレナこそ大丈夫かな」
ヘレナが出した手をとると、彼女はまた精霊の名を呼んだ。ふわりとジャクソンの体が浮くようにして、水面の上に持ち上げられる。改めて水面に足をつけてびしょ濡れになった前髪を持ち上げる。
「うん。何年でも待ってるけど……」
「けど?」
ヘレナは長いまつ毛を少し伏せる。何かを言い淀んでいるようではあったが、しばらく待っていると彼女は湖の青が映ったような、澄んで綺麗な瞳を上げた。
「その前に恋人にはしてくれないの?」
少し上気したような頬と、潤んだような瞳に、心臓が変な動きをした。
鼓動が一気に上がったのを感じて、咄嗟になにを返せば良いのか分からなくなる。ヘレナの瞳はじっとジャクソンを見ていて、ジャクソンはとりあえず今度こそ落ちないように彼女の手のひらをぎゅっと握った。
今だって手を繋いで湖畔を散歩したり、彼女の体を抱きしめることはある。色々と疎いジャクソンには、具体的に彼女の言う恋人と今の関係との違いが何なのかはよく分かっていないのだが、一生一緒にいようとプロポーズをする前に、普通なら告白をするのではないか、という気はした。
「……恋人にもなりたいかな」
幼い子供にしか見えていなかったヘレナが、いつの間にか強くて綺麗な女性になっていることは間違いないし、なんなら彼女の唇に触れたい衝動を抑えている自分を自覚はしているのだ。
ジャクソンは濡れた髪を振ってから、繋いだ手以外は彼女に触れないようにしてそっとヘレナの頬に口付ける。
好きだよと言うと、ヘレナはぎゅっとジャクソンの体に手を回した。
びしょびしょに濡れた服で、ヘレナまで濡れてしまうと慌てて離れようとしたが、ヘレナの方は全く気にせずにジャクソンの服に額をつけた。ジャクソンも諦めて彼女の背中に両手を回した。手を繋いでいなくても、とりあえず抱きしめていれば落ちないらしい。
「濡らしちゃってごめん。寒くないか?」
「ううん。お揃いで嬉しい」
「お揃いか」
一緒に濡れたお揃いが嬉しいという感覚も全く分からなかったが、それでもくっついた体が温かくて心地よい。
「ジャクソン、大好き」
幼い子供の頃から何百回と聞いたはずの言葉が、妙に耳に新鮮に届いた。
アルビオンを占拠し、クラウィスの王都を打倒した魔術師達は、精霊たちの聖地であるアルビオンを王都とする新しい国——カエレスエィスを立ち上げた。施政者が全て魔術師であるというこの国では、徴兵と強制労働を廃止し、各領地に主管と呼ばれる魔術師でない代表を立てる方針を打ち出している。
初代国王はヘレナ=デュルフェルという女王であり、未だ各国から魔術師達は集まり続けている。