一章 にせもの王子たち5
クリスから見る精霊は、手のひらに乗るような小さな妖精だった。子供のような可愛らしい容姿をしていて、背中には羽が生えている。羽の色で精霊の種類が異なり、風の精霊は白、水の精霊は青、土の精霊は黒、火の精霊は赤色になっている。
そもそも精霊が見えるのは魔術師だけだが、その魔術師でもそれぞれ見え方が違うらしい。同じ精霊を見ていても、人に見えるものもいれば、動物に見えるものもいるし、単なる光や球として見えるものもいる。それを教えてくれたのはクリスが幼い頃に死んでしまった母で、彼女も魔術師だった。
彼女もやはりクリスと同じように妖精に見えていると言っていた。母は魔術について色々と教えてくれ、その上でそれを父親や兄妹も含めて誰にも知られるなと何度も言った。その頃はまだ魔術師を裁く法などなかったのだが、それでも忌避される存在ではあった。父にも知られるなというのは、それで彼がクリスを守ってくれることなどないと分かっていたからだろう。
実際、父に守られた記憶などない。
彼は母が亡くなるなり後妻とその妻との間にもうけた子供達を屋敷に迎え入れた。一応は亡くなるのを待ったのは、母方の実家がロイズと並ぶほどに有力な聖職者の家だったからだろう。後妻とその娘達は明らかにクリスや兄のことを嫌っていたが、父はろくに屋敷に戻らなかったし、たまに戻っても後継者である兄としか会話をしなかった。後妻達のことも放っておいているような状況で、さらに彼女たちの怒りはクリスに向いたし、父にそれを訴えたところで「それがなんだ」と言われるような始末だった。
そんな彼がクリスと会話をするのが唯一、クリスがレックスの屋敷を訪れる時だった。王子に粗相のないように接して、気に入っていただけるように——と、いつものように言われるクリスは、幼心にも父に期待されているのだと嬉しくなった。
実際、王子様に近づける人間などほとんどいない。その中でクリスが友人役に抜擢されたのだから、きっとすごいことなのだと思っていたのだ。
月に何度か訪れて他愛のない会話をしたり、食事をしたりするだけだったが、クリスは精一杯、気に入ってもらえるように振る舞った。
王子はとても明るくて快活な性格で、家で義母たちに虐げられてばかりいるクリスにとっては眩しすぎるほどだった。きらきらと輝く黒い瞳がとても強くて魅力的で、一緒に話をしているとなんだか恐ろしくすらなる。自分のようなつまらない人間がここにいて良いのだろうか、なんてそんな想いにかられてしまうのだし、邪気のない満面の笑顔を向けられると、自分は本当に笑えているだろうかと不安になる。
いつ王子から「もう来なくて良い」と言われて、いつ父を失望させるのだろうかと、いつもびくびくしながら接していたのだが、ある時を境に王子の雰囲気が変わった。
明るくて快活でよく笑っていた王子が、穏やかでどこか作り物のような笑顔を浮かべていた。
一気に大人びたようにも見えるが、ひと月ほどで急に大人になるわけもない。会話をしていても、これまでは自分の話したいことを言っていた王子が、何故かクリスの反応をうかがうようになったように見えて、気味が悪かった。何があったのだろうと首を傾げていたのだが、その疑問は半年ほどして晴れる。
クリスがいつものように王子の屋敷を訪問すると、通された応接室には知らない大人が三人ほどと、同じ年くらいの男の子がいた。
それぞれに剣を佩き、軍人のような格好をした大男達から睨まれて、クリスは生きた心地がしなかった。王子の屋敷だから当然、ここに護衛達はたくさんいるのだが、その雰囲気よりもずっと硬くて怖い。そんな中でひとりソファに腰かけた男の子は、怯えた様子のクリスを見るとにこりと笑った。
「君がクリスティアナ=ロイズ?」
座ったままそう問いかけられて、はい、と慎重に頭を下げる。相手が誰かは分からなかったが、三人の男達を従えているのは彼に見える。そして王子の屋敷を訪ねるくらいなのだから、身分のある人間なのだろう。彼も王子の友人なのだろうか、と思っていると、廊下から足音が聞こえた。
扉を開けて入ってきた王子は、クリスと男の子に気づくと、驚いたような顔をした。
「レジナルド殿下」
それを言ったのは、まさしくクリスがレジナルド殿下だと紹介された王子だった。クリスは状況が理解できずに固まるが、扉の向こうから入ってきた王子も一瞬、どうして良いのかと固まったように見える。
「やあ、レックス。まだ挨拶の仕方を覚えてないのかな?」
魅力的な笑顔でにっこりと言った男の子は、よく見るととても綺麗な顔立ちをしていて、そしてとても王子に似ていた。だが、声が全く違う。ぞくりとするような、人を見下すような声音に、言葉を向けられていないクリスも身体を縮めた。
「申し訳ありません、レジナルド殿下」
そう言った王子が深く跪くのが見えて、クリスは息を飲む。それはまるで使用人がご主人様に跪くかのような礼だ。対等な関係では決してない。
「まあ、いいよ。レックスもこの間までは仮にも王子だったんだろうからね。そんな挨拶の仕方は教わっていないだろう。僕だってそうやって頭を床につけたことなんてないもの」
可笑しそうな口調で言われた内容に、クリスは混乱する。
レジナルド殿下だと思っていた王子はレックスと呼ばれており、仮にも王子だったと言われた。そして頭を下げたことなどないと言った男の子が、王子にレジナルド殿下と呼ばれたのだ。
そしてクリスは自分が突っ立ったままでいることに一気に焦った。これまで王子はそんな風に跪かせることなどなかったのだが、レジナルド殿下と呼ばれた彼は違う。状況は理解できないままに、クリスも慌ててレックスに倣って礼を取る。
するとソファから立ち上がるような音がして、小さな足音がクリスの目の前に来たから、背筋が凍るような思いがする。
「あ、そういえば挨拶をしようと思ったんだった。レックスの側にロイズ司祭のとこの女の子が来てるって聞いたから、僕も会いたくて」
そんなことを言われても顔を上げて良いのか、クリスには判断できない。精いっぱい身体を小さくしていると、顔を上げてよ、と笑いながら言われた。
「レジナルド=オリファントだ。あっちにいるにせものと違って本物だよ」
にせもの、なんて言葉にどきりと心臓が跳ねる。
「本物のレジナルド殿下……?」
「うん。にせものの側にいるなんて不快だし大変だと思うけど、これからもよろしくね。クリスティアナ」
にっこりと笑う顔はとても綺麗だが、きらりと黒い瞳の奥が光って見えるのがとても怖い。
彼はいったいどういうつもりでそんなことを言っているのだろう。本物の王子だと思って仕えていたクリスに対する蔑みか、それともにせものの王子に対する嫌がらせなのか。
「……はい」
と答えて頭を下げるのが精いっぱいだった。
そして、急に王子の様子が変わった理由について、一気に理解した。これまでの王子は天真爛漫といった感じで、誰かの顔色を窺ったりする子供には見えなかった。そして敬礼の仕方を教わっていなかったというくらいだから、彼は事実、本物の王子として育てられてきたのだ。
それが急に目の前に本物の王子が登場して、頭を踏みつけるように頭を下げさせられ、にせものだと言い放たれれば、これまでの世界は一変しただろう。どこかこちらの顔色をうかがうように見えたのは、実際、相手の反応を確認していたのだろう。誰が彼を本物の王子だと思っているのか、にせものの王子だと知っているのか、本物の王子でないならどう振る舞えば良いのか、きっと迷っていたのだ。
「ああ、そうだレックス。今度、他国の使者を呼んだ催しがあるから出席よろしくね。本当は僕が出たいんだけど、ちょっと列席の顔ぶれが怪しいらしいんだよね。殺されないように気をつけて」
顔を伏せたままそれを聞いたから、そんな酷い言葉ににせものと言われた王子がどんな反応をしたのか見えなかった。
するとそばにいたレジナルド殿下が急にしゃがみ込んできて、クリスのあごに手をかける。優しげな手つきではあったが顔を上げさせられると、すぐ間近に彼の顔があって心臓が跳ねた。彼は王子と良く似た顔で、クリスの瞳を覗き込んでくる。
「驚かせてごめんね。もちろんクリスティアナには分かってると思うけど、あれが僕のにせものだってことは秘密だよ。もし他に吹聴されると、僕が止めたって死刑になると思うから気をつけてね」
可笑しそうに口の端を歪めながら言われた言葉に、クリスはびくりと身体を振るわせる。死刑、なんて言葉もレジナルド殿下が言えば、冗談ではないだろう。一気に色々な情報が入ってきて、なんだか泣きそうになる。
泣くのを我慢しているのが分かったのだろう。レジナルド殿下は楽しそうな顔をして、立ち上がる。
「怖がらせちゃったかな。ごめんね」
笑いながら言った殿下は、軽い足取りで歩いて戻ると、ソファに深く腰かける。
「悪いけど、ちょっとレックスに用事があるんだよね。クリスティアナはまた、改めて」
そんなことを言われて、クリスは逃げるように部屋を後にする。その際にちらりとレックスと呼ばれた少年を見たが、彼は跪いたまま微動だにしていなかった。