四章 ジャクソンの居場所12
「この子達がいるから?」
じっとジャクソンを見上げていたヘレナは、そう言うと近くにいた水の民を指先に乗せた。
「私がみんなにとって特別なのは私もわかってる。どうして私だけが特別なのかは、いくら考えてもわからないけれど」
ヘレナはなぜか小さな声で水の精霊の名前を呼んだ。
そして何を思ったか泉に向かって足を出したのでジャクソンは驚いた。落ちてしまうと思って手が出たが、ヘレナはするりと抜けて水面に足をつける。
足が触れて静かな湖面に波紋が浮かぶ。
だが、ヘレナは水に落ちずにそのまま湖面を歩いていったので、ジャクソンは思わず目を丸くした。風の民を使って宙に浮かぶことはヘレナにとって朝飯前だろうが、今は水の民の名を呼んでいた。魔術を使って水を操ることはできてもその上を歩くことなど想像もできない。そうしたことを当たり前にやれてしまうことが、彼女が特別だということなのだろう。
だが、ジャクソンは強く首を横に振った。
「俺にとって特別だって言っただろう。みんなにとってはわからないけど、俺はヘレナが精霊を使えなくたって変わらないよ」
「それは嘘」
「なんでそう思う?」
「この子達がいなかったら、私にできることなんて何もないもの。ジャクソンだって私じゃなくてこの子達に魅入られているだけ」
彼女はまるで地面を歩いているのと変わらない様子で、湖面を歩いていく。少し俯いているヘレナの表情が暗いような気がして、追いかけたいと思ったが、ジャクソンには水の上を歩く術などないし、なんなら空を飛ぶことすらできない。
「俺はいまでもできることなんて何もないよ」
「みんなジャクソンを頼りにしてるわ」
「それはヘレナがいるからだろう。俺自身は弱くて知らないことも多くて、アイザック達とは全く違う。何もできないってみんな分かってるよ」
「セリーナやカーティスも頼りにしてる」
「セリーナやカーティスなら、全く魔術が使えなくたって、ヘレナは特別だってというよ」
「そうかしら」
ヘレナは小さくそう呟いた。
歩いて行った彼女とは少し距離があるのに、彼女の声がはっきりと聞こえるのはどんな魔法なのだろう。ジャクソンの方はヘレナに聞こえているか心配で、少し大きな声で言った。
「俺たちが信用できないのか? ヘレナの周りの精霊が急にいなくなったら、みんなヘレナのことを好きじゃなくなるって思ってる?」
「みんなが何を考えているのかなんて分からないもの。この子達もね。明日にはみんな消えていなくなってるかもしれない。そしたらジャクソンはどうする?」
思わぬ問いかけに、ジャクソンは目を瞬かせた。
生まれた時から常に側にいる精霊達が、ヘレナを置いて消えることなどないような気が勝手にしていたが、もしかしたらヘレナはそう考えてはいないのだろうか。精霊が何のためにヘレナの側にだけいるのかは、ジャクソンにも分からないし、当の本人も分からないと言っていた。だから困惑しているのだろう。
もしも彼女の力が何かの使命や責任を負ったものだとすれば——例えばそれが魔術師達を救うためだとか、国を討伐するためだとか、反対にそれを止めるためだとか、そんなものを精霊達が期待して力を貸しているのだとすれば、期待に反した時には去っていく可能性はある。それどころか、精霊達がヘレナの意識を奪って行動することすら考えられて、今更ながらに恐ろしくなった。
精霊達は人々に力を貸してくれるが、強力な精霊に手を出して命を落とした魔術師も過去にはいる。オーウェンやアイザックも、あれだけの強力な精霊を従えてヘレナはよく正気でいられると言っていた。彼女の行動や思いが精霊達の思いと反しても、彼女は精霊の力に飲み込まれずに正しく使うことができるのだろうか。
ジャクソンはふと芽生えた考えを頭の中でふりはらうように、ゆっくりと頭を振った。
「急に精霊が消えてたら驚くけど、それだけだよ。これまでヘレナが一人で町の人たちのためにやってくれていたことを、他の方法でやれるようにオーウェンやアイザック達と話をしよう」
実際のところ、ヘレナが本当に魔術を使えなくなると困る人間は多いだろうが、ジャクソンは敢えて軽く言った。
こうしてアルビオンで平和に暮らしている間にも、ヘレナは近くに兵士たちがいないかを定期的に確認してくれている。それで何度も事前に兵士たちの動向を察知しているし、何か周囲で異常があった時や物資の輸送を行う際などにも、ヘレナに精霊を飛ばしてもらっているのだ。
その合間にも彼女はクェンティンや怪我人などの治療にあたっていた。いまクェンティンの命がつながっているのも、ヘレナの魔術があったからだろう。彼女の魔術で命を助けられた人々も多い。
周囲はヘレナがここにいるだけで安心して生活できるのだし、アイザック達もクラウィスの攻略にヘレナを連れて行けなくても気にはしないはずだ。だが、ヘレナが魔術を使えなくなる——なんてことはジャクソンも含めて誰も考えていないのではないか。
「もしかしたら精霊がいなくなるかもしれない、ってことが怖いのか?」
「それもたまに考えることはある。考えたって仕方のないことだけれど」
そう言ってヘレナが見つめたのは、彼女が赤ん坊の頃から一緒にいる風の民だ。白い鳥はとても強力で、何かがあった時にはセリーナやジャクソンにも力を貸してくれる。普段はヘレナを見守るように側にいるが、その白い鳥の向ける視線は慈愛に満ちたもののようにジャクソンには見えていた。
「俺がヘレナのことを好きなように、精霊達もヘレナのことを大切にしているように見えるよ」
「そうだといいけど」
ヘレナはそう言って、手をのばした。小さく細い腕には、何羽もの精霊達がとまる。
「たまに私には本当に両親はいないんじゃないかって思うことがある。本当に精霊から生まれていたら良かったのに」
それはどういう感情なのだろう。
精霊の化身と呼ばれるヘレナのことを、本当に精霊から生まれたのではと噂するような声もあるが、ジャクソンはあくまでヘレナのことを人間だと思っている。ヘレナ自身もそうだったら良かったと言うくらいなのだから、実際には人間なのだと分かっているのだろう。
「……精霊になりたいのか?」
「なれるならね」
ヘレナはそう言ってから、瞳を伏せた。
「そうすればこの子達と話ができるし、自分だけが特別だって悩まなくていい。そしてただ、求められるままに力を貸すだけであれば、期待に応えられないことを恐れる必要もないし、みんなのことを助けられなかったって後悔もしないのに」
小さく語られた言葉に、ジャクソンは胸に刺さるような強い痛みを感じた。今さらながらに、自分はヘレナのことを何も分かっていなかったのだ、と自分で自分を殴ってやりたくなる。
淡々としているように見えていたが、ヘレナはいつも苦しんでいるのだろう。
精霊達と話ができないから彼らの意思がわからなくて怖いのだし、いつ精霊達が消えるかも分からない。そして常に特別だと、周囲から勝手に色々な期待をされることが辛いのだろうし、逆に自分の力が及ばずに周囲を助けられなかったことも辛いのだ。
ヘレナは精霊そのもののようだ、と。
そんなことをアイザックは言っていたが、もしかしたら彼女自身もそう振る舞っていたということではないだろうか。精霊たちのように何も語らず、何も考えないようにして、人々の求めに応じる。それがジャクソンの望む通りに動いているように見えるというのは、単にジャクソンが近しい人間だったからかもしれない。当然、色々な人間の希望を同時に叶えることはできないのだし、どこかに拠り所となる人間がいるに違いない。
ジャクソンはしばらく何も言えずに固まっていたが、ヘレナもそれ以上の言葉はないようだった。木々が長い影を落として薄暗くなってきても、ヘレナは動かない。
「風の民」
ジャクソンはヘレナの近くにいた風の民を呼ぶ。そして思いきり助走をつけて飛ぶと、ヘレナの瞳が驚いたように丸くなるのが見えるのが見えた。
小さな悲鳴がジャクソンの腕の中で聞こえた瞬間、二人で湖に突っ込んでいた。何の準備もなしに冷たい水に頭まで沈んで、全身が一気に縮まるが、なんとかヘレナを抱いたまま湖面に顔を出した。
急に動いたことと急に水に飛び込んだことで心臓がどくどくと驚いたように脈打っていたが、本当に驚いたのは巻き込まれたヘレナの方だろう。ジャクソンの腕の中で硬直したように固まったまま、ヘレナが悲鳴のような声を上げる。
「ジャクソン! いきなり何するの」
「驚かしてごめん。でも、これが俺の魔術の限界だな。みんなだったら濡れずに済んだだろうけど」
セリーナやカーティスなどがヘレナの精霊を使えば、そのまま体を浮かせて近づけただろうが、ジャクソン程度の力であればせいぜい遠くまでジャンプすることしかできない。そのまま水面に立っている彼女にぶつかるようにして、二人で湖に突っ込んだのだから、彼女にしてみればひどい暴力だろう。
ヘレナは目を白黒させながらも、水の民の名前を呼んだ。ふっと体が軽くなるような感覚がして、必死にもがかなくてもヘレナと二人で水に浮いていられるようになる。
「ありがとう」
ジャクソンはそう言ってから、水の中でヘレナの体をぎゅっと抱いた。冷たい水の中でも、彼女の体は赤子の頃のように温かい。
「ヘレナの本当の両親がいるかどうかは分からないけど、俺は父親はダレルだって思ってるし、ヘレナやセリーナは妹で、クェンティンやカーティスやウォルターのことは弟だって思ってるよ」
ヘレナはじっと体を固めたまま聞いていたが、やがて顔を上げた。すぐ近くに青い瞳と小さな赤い唇があって、少しどきりとする。
「それを言うためだけに私をここに落としたの? 私たちは家族なのよって?」
「ああ」
「信じられない」
精霊でないから苦しい、ということからは逃れられないだろうが、人間であればヘレナはジャクソンたちの大切な家族だ。
濡れて彼女の頬にはりついていた金髪を指でどけると、ヘレナは長いまつ毛を少し伏せた。
「……私はジャクソンのことを兄だとは思っていないけど」
「そうなのか?」
「家族だから私のことも特別なの?」
「そうだけど、もしも他のみんなと道を別れることになっても、ヘレナに魔術が使えなくなったって、俺はヘレナと一緒にいると思う」
ジャクソンの言葉に、ヘレナは大きな瞳をさらに丸くして見上げてくる。
「どうして私?」
「さあ。最初にヘレナを見つけた時に、ずっと俺が守るって決めちゃったからかな。ヘレナが迷惑になったら距離はとるけど、それでも死ぬまでヘレナの幸せは願ってると思うから」
それは我が子を見守るような心理である気もするし、なんなら彼女の言うように精霊達に魅入られてしまっているのかもしれないが、ジャクソンにとってヘレナが特別であることは間違いない。
ヘレナはまじまじとジャクソンを見てから、首を横に振った。
「一生、迷惑になんてならないと思うけど」
「それは嬉しいな」
真剣な顔で言ったヘレナに、ジャクソンは笑って見せる。
ヘレナのそれが、家族でなく恋人としてジャクソンを求めているのだとしても、彼女が欲しいものを自分があげられるのなら悪くない気がした。
実際にはヘレナが他の男性を好きになって、ジャクソンのことなど必要としなくなる日が来るような気もしているのだが、それはそれでヘレナが幸せなら良いと心底思える自信はある。
「それだったら、ずっと一緒にいてくれる?」
いいよ、とジャクソンは答える。
ぎゅっと彼女の体を抱きしめると、ヘレナの小さな手もジャクソンの体に回った。




