四章 クリスの居場所10
一気に焦るような恥ずかしいような気分で、体が熱くなる。顔まで赤くなっている気はしたが、レックスはそんなクリスには構わずに続けた。
「別に抱きかかえて行ったわけじゃないよ。ウィンストンがクリスを起こして、僕が一緒に手を引いて部屋まで連れてくの。ちゃんと手を繋ぐと付いてきてくれて、寝ぼけててすっごく可愛いんだけどね」
そんな言葉にクリスは思わず口を開けたが、何も出てこなかった。そんな姿をよりにもよってレックスとウィンストンに見られていたなんて、自分で穴を掘って埋まってしまいたい。せめてその時に教えてくれていれば、それ以降は断酒するなりしたのだが、教えてくれなかったのは二人に気を遣われたからか。
しばらくどくどくとなる心臓を落ち着かせてから、頭を下げる。
「……失礼しました。今後は気をつけます」
なんとかそれだけを言うと、レックスは楽しそうに笑った。
「気をつけてくれなくていいよ。いつも無防備で可愛いなって見てるから。たぶんウィンストンもね。僕もウィンストンも、人前だとあんまり休めないと言うか、自分を作っちゃう人だから。迷惑だったら、ウィンストンは翌朝には苦情を言ってると思うし」
そんなことを言われても、レックスにそんな風に見られるのは恥ずかしいし、ウィンストンに至っては苦情を言わないのは単に呆れられているとしか思えない。
「酔って、寝てるだけですかね……?」
「うん。楽しそうに話してて、いつのまにか寝てる」
それはそれでどうかと思うが、酔って何かしらの醜態を晒していなければまだマシな気はする。もしくは、何かをやらかしていたとしても、レックスやウィンストンは黙ってくれているだけか。そんなことを考えてしまうと、もう恐ろしくて何も聞けない。
レックスは自分のグラスに口をつけてから、クリスのグラスを見た。
「飲まないの?」
「……もう一生飲まないかもです」
クリスの言葉にレックスは楽しそうに笑った。
「普段はぜんぜん大丈夫だよ。クリスが飲み過ぎて寝ちゃう時って、たぶん、嫌なことがあった時だよね。落ち込んでる僕を元気づけようとしてくれてるの」
そんなことを言われて、クリスは首を捻る。
そもそもレックスが落ち込んでいるところなんて見たこともないのだが、嫌なことと言われて思い至ることはたくさんある。レジナルド殿下がわざわざレックスを貶めるためだけに来た時や、王宮が危険な任務や嫌な任務をレックスが押しつけようとする時だ。王子の代わりに処刑場に臨めなんてことはその最たるもので、確かにその時には飲み過ぎて気持ちが悪くなった記憶がある。
だが、そんなことに対してクリスが何を言えるわけもないし、レックスも文句も愚痴も言わないから、そんな話をしたことはない。ウィンストンは酒が入るとさらに毒舌になるから、他人に聞かれたら王宮への侮辱罪に問われることは間違いないことを言っていたが、クリスはただただやりきれないような気持ちを内に溜めていただけだ。
レックスも特に落ち込んでいるようにも見えなかったし、元気づけていたという意識はクリスの方にはなかった。せめて他人がいない時には楽しくいられればと思っていたから、色々と明るく話していたのだろう。
「……申し訳ないですけど、嫌なことがあって単に飲んでただけのような気がします」
「だけどその嫌なことって、僕にとっての嫌なことでしょう? 僕自身はもう正直、あまり気にもならなかったのだけど、ウィンストンは完全に不機嫌になるし、クリスが自分のことみたいに怒ってたり悲しんでくれてたりするのが分かるから。それが嬉しかったな」
レックスはそう言って笑ってから、グラスを口にする。
「だから今は大丈夫だよ。嫌なことなんてないし、僕もウィンストンもクリスと楽しくお酒を飲みたいしね。なんならクリスか僕の部屋で飲めば、そのままベッドで寝ちゃっても大丈夫だと思うけど」
そんな言葉にクリスは思わずぶんぶんと首を横に振っていた。
そちらの方がぜんぜん大丈夫ではない気はするのだが、そんなクリスの反応を見てレックスは楽しげに笑ったから、からかわれているのだろうか。
本当にクリスがレックスの部屋で酔って眠ってしまったら彼はどうするつもりだろう、と。そんなことを考えてしまうと顔から火が出そうだったが、そもそも彼は二人きりだなどとは言っていない。そこにウィンストンもいるのなら、二人でクリスの寝顔を眺めて笑ってるだけのような気もして、それはそれで恐ろしすぎる。
「……あの、これ以上この話題を続けられると、本当に一生飲めなくなるんですけれど」
「それは困るな。ごめんね」
彼はそう言ってにっこり笑ってから、食事を続けた。
綺麗な所作で食事をするレックスを目の前に眺めていると、彼がクリスと恋人になりたいなんて言ってくれたことが、信じられないような気分になった。これまでにも何度も二人きりで食事をとることはあったのだが、その時よりずっと意識してしまう。自分の何倍も綺麗で賢い彼は、本物の王子の何千倍も王子らしく、強くて優しくて立派だ。
レックスは何も持っていないから、大切なのはクリスの存在だけなのだ——と。そんなことを彼は言ってくれて、クリスは本当に嬉しかったのだが、確かにあそこにはクリスしかいなかった。側にクリスしか信じられる人がいなくて、近くにいたのもクリスだけだったから、彼はクリスのことを好きになってくれたのだろう。
そんなことを考えると、急に不安になる。
ここでは彼は姿を隠す必要もないのだし、何でも手にすることができる。当然だが彼ほど魅力的な男性を、好きになる女性はたくさんいるはずなのだ。そんな女性たちに勝てる要素が一つでも思いつくかと言われて、クリスには一つも思いつかない。普通に考えれば、少年のように短い髪で剣を下げた女性と一緒に歩くより、綺麗な女性と一緒に歩く方がいいに決まっている。
今はもしかしたら幸いにもクリスのことしか見ていないかもしれないが、すぐに魅力的な女性たちが現れるのではないか、と。そんなことを考えると一気に恐ろしくなった。
「なに考えてるの?」
レックスに心配そうに覗き込まれて、クリスは慌てて首を振った。
「なんでもないです。ちょっと」
「ちょっと?」
「……いえ、なんでもないです。すみません、ぼうっとしてて」
「やっぱりまだ嫌なことがあった?」
そんなことを言われてやはり慌てて首を横った。
レックスと一緒に町を歩いてこうして二人で食事をできるような環境で、嫌なことなどあるわけがない。
これまでは護衛としてただ側にいるという、それすらいつ断ち切られるかと不安だったのだし、いま一緒にいるだけで精いっぱいで、彼と一緒にいられる未来など何も考えられなかった。その頃の自分からすると、むしろ幸せすぎる悩みではあるはずだ。
そんなことを考えて、なんとか笑顔を作る。
クリスはクリスで家族達に受け入れられず、いつも一人で寂しかったから、同じように一人だったレックスに同情したのかもしれないし、魔術師であるという秘密を隠した自分を、自分を常に偽るしかないレックスに重ねたのではないか、という気もしている。そしてクリスにとってはレックスしか信じられる人はいなかったから、同じようにレックスがクリスのことを信じてくれていると思うことが嬉しかったのだ。
それが恋愛感情だったのかどうかは、自分でもよく分からない。
それでもどうすれば少しでもレックスと一緒にいられるか、と常に考えてきて、一緒にいるうちにどんどん彼のことを好きになった。そして今の自分にはウィンストンもいるし、同じ魔術師であるエイベルもいて、他にもクリスに優しくしてくれる人たちがたくさんいる。本当に信じられないくらいに幸せで、それだけに漠然と不安なのだろう。
レックスは首を傾げるようにしてクリスを見ていたが、やがて口を開いた。
「食事が終わったらね、少しだけ僕の部屋に来てもらってもいい? 渡したいものがあるんだよね」
そんな言葉にどきりとする。思わず目を見返したが、彼はクリスの反応を見ているだけだ。
「はい」
クリスが頷くと、レックスはにっこりと笑った。