ほけきょうとねんぶつ
「姐さーん」
ねんぶつと名乗った青年が、「ちょっと待ってくんな」と言って、通されたのは座敷部屋の客間。床の間には花が飾られ、高そうな山水画の掛け軸が掛けられている。視界の隅には雑多に放置された本の山。どれも古めかしい。壁の中央には丸時計が一つ掛けられている。
「落語家さん……、の家、なのね」
所在なげに渡された座布団の上に座り、座敷内をきょろきょろと見渡すばかり。
どうやら、ねんぶつさんは誰かを探しているようでドタドタと屋敷内を歩き回っている。締め切った障子のさき縁側に小さな影がトントン、トントン、と動きちゅんちゅんと、聞こえてくる。雀だ。ドタドタと足音を鳴らし、ねんぶつの影が横切るとぱっと飛び立った。
「姐さーん」。
またドタドタと障子を横切る影。今度はスススーッと足音なく、通り過ぎる影。
「?」
それにしても、なんで落語家さんが恐い話なんか聞きたいのだろうか?
落語っていえば、壇上みたいなところで、面白い一言をいって、座布団の取り合いしている人たちのことだ。広海の頭のなかには、色とりどりの着物を着た某長寿番組のことが浮かんでいた。あれ以外の落語家というものを見たことがない。
「ここには、いねえか……っと」
パスンっと障子が閉まる音。
「姐さーん、姐さーん? いねぇのかねぇ。なんでぇ、コンビニ行ってこいって、帰ったらいねーじゃねえかい」
時計がカチ、カチ、カチ、カチ――っと針を進めている。
家の中はねんぶつさんの乱暴な足音が響くばかり、姐さんと呼ばれる人は姿を見せないようだ。いないのではないだろうか?
と、言うことは、その姐さんと呼ばれる人物が話を聞いてくれる方なのだろうか?
……どうしよう。
「ふーむ」
障子に青年の影が映る。
開かれ、困ったように片目を瞑り、顎を掻いている。
その仕草が昭和の映画スターのようで、見た目の歳とは凡そかけ離れたその仕草に、広海はこの青年は見た目よりも歳がいっているのかもしれないと思いなおす。
口調もどこかおじさんくさいし。
「すまねえな、娘さん。どうも、姐さんどっか出かけてるみてえだ」
座布団に正座した広海は不安そうに顔を上げた。
「さて、どうするかねえ……。そうだ。あっしがお話伺わせていただきやすが、よろしいですか? まあ、おいらに話てどうなるってもんでもねえが。まあ、気持ちはわからなくない」
ねんぶつは苦笑いを浮かべ、髪をガサガサと掻く。
広海の向かいにあぐらをかくと、照れたような笑みを浮かべる。
「まあ、なんだあんたも不安かもしれねえが、おいらがしっかりと話を聞いて、伝えとくからよ」
青年はぽんぽんと話を進めていく。広海はと言えば、青年を信用していいのかどうかは計り知れたが、そんなことは抜きに、誰かに話を聞いて欲しいというのが大きい。
広海はそれならと一度上目遣いで青年の真意を探るようにみたあと、「それでは」と口を開いた。
「聞いてほしいのは、私がこちらに引越してきた家のことなんですけど……」
障子を締め切った室内は薄暗く、広海の声はどこか陰鬱に響き始める。
私、この春に上京してきて住む場所を探していたんです。ある不動産屋に訪れ、そこで――。
一枚~~二枚~~三枚~~四枚~~、五~枚……ろくぅまぁい~~。
「??」
「? へ?」
青年がこちらを訝しげ表情で見てくる。
「今の私じゃありません!」
広海は、慌てて否定する。
二人の視線がはっと障子の先に集まる。
そこには人の形がぼんやりと陽炎のように浮き上がっていた。
ゆらゆらと揺れ惑う朧からその声は響いてくる。まるで、奈落の底から漏れでる亡者の嘆き、それは場にいる人間を恐れという鎖でもってジャラジャラと締め付け、地獄へと誘うようだ。
ななまぁ~い~~はちまぁ~い~~
青年は無言ですっと立ち上がり、障子をパンっと開く。
そこには、黒髪の血だらけの女が一人。膝をつき、しな垂れるように座っていた。彼女の黒髪は柳のように垂れ下がり、身体から流れでる血のように見えたのは真っ赤に染まった着物。袖から伸びた蝋のような白い細腕、その手に一枚の紙が握られている。
彼女はその一枚の紙に、恨めしそうな視線を落とし、その蕾のような唇から花が咲くように、亡者の嘆きを搾りだす。
きゅうぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅまぁぁぁぁぁぁぁぁぁあいい―――――――
背筋が粟だつ。広海は目の前に見えるものを否定しようと、意識が消えかける。
今までは屋敷にお化けが憑いていると思い、外にいれば大丈夫と安心していた。でも――、
目のまえには、確かな存在感で広海の視界に納まってくる。
それは一つの信じたくない事実を眼前に突きつけてくる。
驚愕が恐怖に変わり、絶望に変わっていく。もうどこにも逃げ場がない。その答えに簡単に行き着けることに、あきらめの気持ちを受けいれていく自分がいる。
もう私には逃げ場はないのだ。
やっぱり、山崎春のパン祭りの点数が、一枚足りなぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁい
女は悲しそうに底冷えのする嘆きを吐き出し、その黒紫の瞳には怒りにも似た感情が噴出していく。
女はその場に泣き崩れた。
「……姐さん」
「しくしく、しくしく。あと一枚、あと一枚、足りない。ちゃんと、シールがついているやつっていったのにい――――――っ」
青年はちょっと困ったように後ろ髪を掻き、その女に声をかけた。青年はいまもなお声を掛け続けている。
「………………え?」
広海はその光景に違和感を覚える。お化けに声をかけている? いや、そんなはずはない。彼は「姐さん」とそのお化けを呼んでいる。
ということは?
広海はがくがくと口を開く。
「あなたにも、見えるんですか? お化け」
「……いや、娘さん気持ちは分からなくもねえが、これお化けじゃねーから。だいたい、あんたもさっきの叫びを聞いてただろう? なんでそのまま、私見えちゃったお化け路線で話勧めてこーとするんでぇ」
ねんぶつはめんどくさそうな表情をした。
「しくしく、うらめしやぁ、うらめしやぁ」
「ああ、姐さんおいらが悪かった。今度はなんだぁ、そのシールのついたやつ? 買ってくるから」
向かいには、さきほどの女がずっと一枚の紙――パン祭りの応募はがき――を手に俯き、嘆きの言葉を漏らしている。
いわずと知れた、あのお皿がもらえる山崎パンの大企画。
彼女はねんぶつにコンビニからパンを買ってきてくれとの使いを頼んだ。もちろん、山崎パンと告げていたが、青年が買ってきたのは別のメーカーのパン。彼女は台所に置かれたビニール袋に目を止め、ガサゴソと中を漁った。しかし、探れども探れども山崎パンは出てこない。焦りに疑念が生まれてきた。そして、ビニール袋を逆さまに、中身をテーブルにぶちまけた。そして、一つ一つ確認する。
疑念は確信へと変わり、青年への失望が、己えの絶望へと変わっていく。
「オーマイガっ」
彼女は、今日でようやく修練の日々が終わり、春の訪れとともに届くあの麗しのお皿を思い浮かべては、はがきの点数を見て口元を綻ばせている毎日だった。
それは彼女の生きがい、彼女の歩いてきた道、彼女の人生。
「それをっ! それを、この犬畜生はっ! ううぅ」
「だーれが、犬っころでぃ」
よほど苦やしいのか、涙目ではがきと青年を交互に見ては袖口を噛み締めている。
当の本人は、一切悪びれた様子なくカラカラと笑い、姐さんと呼ばれる女の背中をバンバンと叩いている。「うっ、ごほっ、やめ、やめろ」
広海はそんな二人の向かいで、どこか居たたまれなく、覗き見るような心地でそんなやりとりを眺めていた。
「あ、あのー」
勇気を振り絞り、ひょこりと手をあげる。
ねんぶつが、あっと気づき、女はこちらに怪訝な視線を向けてくる。
「ああ、娘さん、失礼しやした。こちらがあんたの話を聞かせてほしい、おいらの姐弟子、おそろし屋ほけきょう。ほけきょう姐さんだ。そして、姐さん。こちら、えーと……」
ほけきょうとよばれた女はふっと笑みを浮かべ、青年の肩に手をぽんと置き、頭を振る。
分かっていますよ、と。
広海は眼を見張った。眼前の女は、あなたのことはすべて知っているとその黒に紫の帯を宿す瞳が言っていた。
広海は喉を鳴らした。私はまだ名乗っていない。
紫の帯が少し光ったような気がした。女は紅の唇をぬらりとひらいた。
「寿限無寿限無五劫の擦り切れ海砂利水魚の水行末雲来末風来末食う寝るところに住むところやぶら小路のぶら小路パイポパイポパイポのシューリンガン、シューリンガンのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコピーのポンポコナーの長久命の長助ですね?」
「違います」
きっぱりと否定した。
女は捨てられた子犬のような顔をした。
その様子を眺めていた青年がカラカラと笑う。
そういえば、自己紹介すらしていなかった事に、青年はまた悪びれた様子なく、頭を掻きながら言った。
「いや、すまねえな。姐さん、こちら広海さんだ。姐さんに恐ぇ話を聞いてほしいってんで、玄関の前でうろちょろしてたから、連れてきたんだ」
「……うろちょろ」
確かにしていたが、そんなはっきりと。広海はぶすっと頬を膨らます。
呼ばれた、ほけきょうは葉書をはらりと落とし、気を持ち直したようにゆらりとこちらを凝視した。
「――ほんとうに……?」
その黒の瞳に、紫の光輝が灯った。
彼女は音もなく立ち上がり、フっと身体が揺れたかと思うと、「それは、ほんとう……?」と、声が隣から囁かれた。肩に置かれた白い手の感触と確かに感じる女の吐息。
ギギギっと顔をそちらに向ければ、驚愕に見開かれた彼女の紫を帯びる眼が、こちらを興味深く覗き込んでいた。
「――っ、きゃぁっ」
いつのまにか、隣に憑いたように腰を下ろしたほけきょうから遠ざかる。
胸がドキドキと鼓動し、眼前の女に恐れを抱く。
――人間よね? ほんとうに人間よね? 幽霊じゃないのよね?
誰にともなく、問いかけるが、もちろん満足する答えなぞ返ってこない。
向かいに座っているねんぶつは楽しげにカラカラと笑っている。
広海は後悔した。
青年の口車に乗りこんな屋敷の敷居を跨いでしまったことを。
広海は瞳に涙を浮かべ、まるで蛇に睨まれた蛙のような心境で、眼前の女から視線を外せずにいた。
「さあ、姐さん。早く、広海さんに話を聞かせてもらいやしょうぜ?」
その一声によって、金縛りが解けた。広海は青年に促され、ほけきょうの視線にびくびくしながらようやく本来の目的である話を始めるのだった。