葛藤
その次の日の夜。
――やはり、この屋敷には『何か』がいた。
私は障子から逃げだすように壁にもたれ掛かり、驚愕に眼を見開いた。眼前には信じられない光景が広がっている。
障子の桝目に詰め込んだ人の眼、口、耳―――――――――――――――。
押し迫ってくる悪意が一斉に笑った。
「――――――――――――っきゃああああああああああああああああああああああああああ」
ゲラゲラと笑う障子の枡目には、びっしりと人間の耳、口、目が憑いている。
広海は耳を塞いだ。これはいったい何なの? なぜこんなことが起こっているの? 怖気さえも越えた恐怖に、広海は気が狂いそうになる。
その中心がカンっと両側に開いた。
月灯りの下に、足がじっとこちらを見ている。
右足が敷居を跨いだ。
「――――っ」
左足が敷居を跨ぐ。
「来ないでっ」
足が立ち止まった。
ギギっと耳をつきさすような音が響いた。
音は、足の丁度真上から響いた。
吸い寄せられるように宙を見た。
その空間にヒビが走っている。
「――――?」
裂けたヒビから、赤黒い目がこちらを覗き込んでいた。ヒビが広がり、女の顔だけが裂目から飛び出した。
「――見つけたぁ」
女がこちらを見ている。
「――――――っき」
反射的に持った枕を投げつけた。
枕はそのままガラス戸を揺らす。
「…………」
視線がぶつかった枕にいった瞬間、静寂が座敷を支配していた。
周囲の異変は消え失せていた。
その場で気を失った。
目が覚めると、私はあの屋敷を借りた不動産屋に来ていた。
とんでもない形相をしていたのだろう。自動ドアが開くのを苛立たしく待っていた私を、老人が見つけたときは驚いた表情をしていた。その取り乱し様に、老人は何事かを察し、すぐに椅子を促し、温かいコーヒーを出してくれた。
私は震える手でカップを持ち上げ、口をつけた。
「まあ、落ち着いてください」
老人の心配そうな、そしてやっぱりという顔に、少しずつ落ち着きを取り戻していく。日常茶飯事なのだろう、あの屋敷に関しては。
私の様子を見てとると、老人は苦笑した。
「やっぱり、出ましたか」
その一言が、脳裏にふっと昨夜の件を思い出させた。カップを持つ手が震え、中のコーヒーが小刻みに揺れる。テーブルになんとか平静を保ちながらカップを置いた。
「あ、あれ、あれはっ! あの屋敷は何」
「言ったでしょう? あれは、いわく付きですと。お客様、それを承知でお借りになった」
老人は目元に苦笑を浮かべ、淡々とそれでこの件は終了ですといった顔をした。
「――そ、それは……」
確かにそうだけど。
いわく付きであるから家賃が安く、それを了承した上で、賃貸契約を交わした。
でも……、まさかあんな……。
背筋にぞわりと悪寒が走った。
「元々は、ある武家の屋敷だったらしいです」
老人はコーヒーを一口飲んだ。コーヒーカップをテーブルに戻し、めがねの奥で苦笑した。
「明治時代とともに、武士は廃止され、生計が立てられなくなったんですな。それから、ある豪商が、借金のかたに買い取った。ただ時代が移り変わり、その豪商も商いを失敗し、屋敷を手放した。それからも色々な人間の手に渡ったらしいです。いつ頃からでしょうか。ある噂が流れ始めたのは」
――噂。
「化物の噂ですよ。いつ頃からかは、分かりませんが、あの屋敷には化物が出ると噂が立ちました。それから、また所有者が変わり、どれだけ代わったのかは、私にもわかりません。今の持ち主は賃貸物件として、貸しだすようになりました。あなたもご存知のとおり、それこそ破格の安さで。化物が出る屋敷なんて誰も寄り付かないですからね。中には逆に化物が出ることを売りにして貸し出そうとした大家もいたらしいですよ?」
老人は言葉が喉につっかえたのか、一度咳払いをする。
「その後、すぐに亡くなられたらしいですけど。事故で」
「事故で?」
老人は淡々と告げた。
本当に事故だったのだろうか?
それは祟りとかではなかったのか?
「あの屋敷、取り壊そうとは思わなかったんですか?」
「もちろん、考えたようですよ? 化物がでる屋敷なんて、持っていたって何の利益も生まない。だったら、取り壊して、新しくアパートでも建てたほうがいいと」
でも、建てかえられることはなかった。
「怪我人が出るんですよ。必ずね。事故なのか、それとも祟りなのか、わかりませんがね」
ふと疑問が浮かんだ。
「でも、屋敷には手が加えられていますよね?」
「ええ、その通りです。賃貸物件として貸しだすにしても、色々設備は古いですからね。このままでは借り手がつかない。思い切って、改装に踏み切ったんです。結果は――、何も起きなかったそうですよ。なんででしょうなぁ。ある程度の設備がなければ、人は住めない。どれだけ安くても現代においての最低水準を満たしていなければ。それを屋敷のほうも承知しているのか、改装だけは何事も起こらないのです。不思議でしょう?」
老人はコーヒーカップを口につけ、「私は屋敷に意思があるようで気味が悪いですよ」と漏らした。
「まるで屋敷が今の時代に適応するためには、どうすればいいかを考えているようでね。もちろん、それでも人は出ていきます。毎日、化物が出たんじゃたまったものじゃない。安さに目が――こほんっ、失礼」
不動産屋は気まずそうにこちらに視線をむけ、咳払いをした。
きっと安さに目が眩んでと言おうとしたのだろう。
今度は広海が苦笑を浮かべようとして、老人のある言葉が引っ掛かった。
「さっき毎日って、おっしゃいました?」
老人はしまったというような顔をした。すぐに苦笑を浮かべ、やってしまったというように頭を掻いた。
「ああ、私、そんなこと言いました?」
「言いました!」
老人は溜息を吐き、咳払いする。
「話に聞けば、毎日出るそうですよ」
老人は確かにそう言った。私の中で衝撃が走った。確かに、引越ししてその夜から、『あれ』は出ていた。私は言葉を失った。あそこに住み続ける以上、毎夜、現われるのか……。
「契約解除されますか?」
広海は店主を見た。その顔は苦笑を浮かべている。
脳裏に浮かぶ、あの女の生首と、人影……、それと、足と障子のお化け。今は無事でいられるが、これ以上、あの屋敷にいれば、それこそ呪い殺されたりするんじゃないのだろうか……。
「あの、他の、私の前に住んでいた方って……、どうされているんですか?」
それは、今も生きているんですか? という意味だった。
店主はきょとんとした顔で。
「さあ? 今、何しているかは、分かりかねますね」
店主は目じりに皺をよせ、苦笑をまた浮かべた。
問いに対する返答は、あさっての答えであった。
広海は喉の奥につっかえたように、その不安を言葉にすることができず、何か言いかけては、引っ込め、それをもどかしく繰り返していた。
「……契約、解除されますか?」
老人は繰り返し言葉を出した。顔を上げた。
できれば、そうしたい……。
老人は一度、咳払いをし、じっとこちら見つめ、返答を待っていた。
契約を解除。その言葉の意味は、私の住む場所が無くなるということだ。
他に借りるお金なんて、ない。そんなお金ない。ないから、あの屋敷を借りたのだ。それなのに。
「無理にあの屋敷に住まわれることもないでしょう」
広海は俯き、両親の顔を浮かべた。電話をして、事情を話してそれでお金を振り込んでもらえば。そして、屋敷を引き払って、実家に帰る…………。
そうだ。結局、それが一番なんだ。実家に帰れば、友人に裏切られることも、恋人にお金を盗られることも、借金を背負わされることも、路頭に迷うこともない。
分かってはいた。分かっていたけど……。
でも、実家にあの借金取り達が来たら? 母親に迷惑をかけてしまう。
広海は手を握り締めた。……それだけは、なんとしても避けたい。
「お嬢さん。もし出て行かれるならば、こちらに電話してもらえれば、私の名刺です」
老人の差し出した名刺を呆然と受け取りポケットに仕舞いこんだ。
老人は気の毒そうな顔を浮かべている。広海はそんなことには気づかず立ち上がった。
「どうも失礼しました」
そう言って不動産屋を後にした。