天井の板目は恐怖の対象
雀だろうか?
窓からのやわらかな陽射しの下、チュンチュンとにぎやかな声が、朝の訪れをさわやかに知らせてくれていた。
コトコトと鍋の蓋が音をだす。
蓋をあげると味噌の芳醇な香りが台所にひろがっていく。くつくつと沸騰しているそれをオタマで小さじ一杯を掬い、口に含む。
じわっと味噌と出汁の味が口に広がり、瞼を閉じた。
結局、一睡もできなかった。
風がガラス戸を叩く音が、こんなに怖かったことはない。
家鳴りが何かが通っていく音に聞こえて、目を瞑ることができなかった。
電気を点け、ずっと天井を見ていた。
すると天井の木目が人の顔に見えてきた。その顔は、女の人で、笑っていた。目を瞑りたいけど、瞼を閉じると、今度はその裏に女の笑い顔が出てきた。
目を開ければ、天井が、目を瞑れば、瞼の裏に。
あの女の顔が出てきた。
妙に生々しく頭にこびりついている。
湯気の立った味噌汁を飲み、一息ついた。
温かい汁が胃に染み渡っていく。
あれから、変なものは見ていない。たぶん夢だったのだろう。自分ではそんなに気にしていなかったが、無意識の部分で脅えていたのかもしれない。それに前日からの極度の緊張によるストレスも原因だろう。
私はきっと自分でも気づかないほどに、疲れていたのだ。
広海は朝食を食べ終え、ほっと一息ついた。そう結論づけると、自然と恐怖が消えていく。
「今日は、色々と買い揃えないと、それに仕事も探さないと」
街は喧騒が行き交っている。大勢の人が駅前や交差点の前でたまっている。
信号が赤から青に変わり人の群が動きだす。バスやタクシーが行き交い、線路の上では電車がガタゴトと走っている。広海は駅を通り過ぎ、アーケード街で一通り買い物を済ませ、求人情報誌をビニール袋に入れた。
屋敷までの帰り道、遊歩道で犬の散歩をしているおばちゃん。小さな公園のベンチでひなたぼっこをしているおじいちゃんが目についた。そんな平和な日常が小川のように流れていく。
まったりとした風景を通り過ぎると、動物園が横目に見える。行ったことはないけれど、有名らしい。学生たちが入り口にたまっている。
広海は羨望の眼差しで見つめた。
溜息を一つ吐き、歩を進めた。
「よいしょっと」
食材のはいったビニール袋を土間に下ろし、一度、上がり框に、腰を下ろした。
開け放った玄関から外の空気が入ってくる。
冬のような張り詰めた空気とは違う、眠気を誘う綿毛のような空気。
鼻孔は芳醇な草花の香りをすいこみ、からだをじんわりと癒してくれる。
昼下がりの住宅街。人の気配は遠く、閑静なという言葉がぴったりな景色に、広海はゆっくりと流れる時間を肌で感じていた。
広海はふっと顔を上げた。
「??」
どこからか、シャキシャキシャキと音が聞こえてくる。
どうも、庭のほうから聞こえてくるようだ。
立ち上がり、玄関から庭に回った。
そこには、植木の剪定をしている一人の男がいた。ねずみ色の作業服を着た白髪短髪の男で、剪定ばさみをシャキシャキと飛び出た枝木をテキパキと切り落とし、形をととのえていく。
そういえば、庭は手が入れられていたことを思いだす。
定期的に手を入れているのだろうとは思っていたが、男は広海の存在に気づく様子はなく黙々と鋏を動かし続けていた。
「……あの」
その背中に声を掛けると、男は一瞬びくりと背中を跳ねさせ鋏を止めた。
こちらにゆっくりと顔をむける。
七十代くらいだろうか、しわくちゃの顔がこちらを認めるとちょっと驚いたような顔で目を見張った。
「こ、これは……、住人の方ですか?」
「は、はい、昨日から、こちらに越してきて……」
「こりゃ、まいった。なんにも聞いていませんでしたので、いつもとおり刈り入れに来ちまったしだいで、いや、ハハっ、こいつはまいった」
男はすまなそうに白髪を掻き、しわくちゃな顔をさらに歪めた。
彼の名前は、草津正二郎、七十二歳。ここ十数年、一週間に一度、この屋敷の大家に頼まれ庭に手を入れているとのことだった。
広海は縁側に座る正二郎に、紅茶をだした。
「すいません、こんなものしかないんですけど」
「ああ、いや、とんでもない」
正二郎は湯のみを手に取り、紅茶に口をつける。
昼下がりの陽射しを受ける庭は、どこか喜んでいるように見える。自由気ままに枝を伸ばした松の木。伸びすぎた下草は刈られ、視界を広くしている。
雀が、手水の縁をトントンと飛び跳ね、水面に嘴をつける。
広海は、そそくさと帰ろうとした正二郎を引き止めていた。
聞きたいことがあったからだ。
正二郎は自分が手を入れた庭に目を向けたまま、口を開こうとはしない。たぶん、なんとなく察しがついているのだろう。
「率直にお尋ねしますけど、この屋敷で、その、見られたことは――」
十数年もこの屋敷の庭木に手を入れていたのなら、間違いなくお化けの噂は知っているだろう。広海はそれがどういったものか、聞きたかった。
正二郎の横顔が気まずそうに顔を顰めた。
「俺は見たことはないなぁ。まあ、俺がこの屋敷にくるときは、いつも昼間だからってのもあるんだろうね。でもよく聞くよ。この屋敷に、化物がでるって」
正二郎は紅茶の残りを一気に飲み干し、湯飲みを置いた。
「さて、長居しちまったね。俺は帰るよ。まあ、なんだ、できれば、俺はここから出て行く事をお勧めするよ」
最後に庭師はその言葉を残して、屋敷から姿を消した。
まだ季節は肌寒い。
布団を敷いているときに、ふと、あの女の顔が浮かぶ。
「……夢よ」
誰に声を掛けるわけではなく、ただ不安をどこかに追いやりたくてそうつぶやいた。
それでも、あの女の生首を見た部屋で寝るのは気味が悪かったので、隣のもう一つの座敷部屋に布団を敷いていた。
ガタガタと風がガラス戸を叩く。唇を噛み、忌々しそうに風に向かって感情をぶちまける。
「なんなのよっ。そんな風に私を驚かそうとしたって、私はここから出て行かないわよ。ずっといてやるんだからっ」
広海はガラス戸を叩く風に向かって敵意を剥く。ガラス戸はそれに応えるようにガタガタと揺れた。
「――うるさいっ! うるさいうるさいっ」
鳴り止まないガラス戸の音にカッとして、思わず激昂した。
取り乱した自分にはっと我に返り、そしてまた下唇を噛んだ。布団をそのまま無言で敷き終え、掛け布団を頭から被った。
それは他人から見れば、あからさまに何かから逃げるように、見たくないものを見ないようにする行為だった。広海はそんなこと認める気はない。
心のなかで願った。早く朝が来いと。
あれは夢だと何度も言い聞かせた。
実際、自分は寝ていたのか、起きていたのか判別できなかった。悪夢から覚めたような感覚にも似ていた。
そう言い聞かせては、あれをそうだと片付けられないことも分かっていた。
それだけ……、生々しく、あれは私を見続けていたのだ。
電気の蛍光灯が、ジジっと音をだす。
部屋は、電気をつけっぱなしにしている。
ガタガタと風がガラス戸を叩く音が、どこか遠くに追いやられていく。家鳴りが聞こえた気がした。
意識が闇に溶け込んでいく。音が遠ざかっていく。
眠れそう…………。
…………ん。
喉かわいたな。目を覚ました。障子の向こうは暗く、まだ夜は明けていないようだ。水、飲みたいな。布団から起き上がり、障子に手をかけた。
「………………あっ、と」
手をかけたところで躊躇した。意識がはっきりしてくると、急に怖くなってきた。でも、今日はお化けを見ていない。やっぱり、あれは夢だったのだ。
きっと、不動産屋に言われたこと、それに実際に屋敷を見たこと、それが重なって自分でも知らないうちに、気にしていた。それで、あんな夢をみたんだ。
何度言い聞かせたかわからない言い訳を繰り返す。
障子を開いた。
廊下に電灯の明かりが広がった。
開けてすぐにガラス戸に映った自分の姿に一瞬息を飲んだ。
「……驚かさないでよぅ」
ガラス戸の向こうは月がでているものの、暗闇が一艘濃く、春の風が草木を激しく揺さぶらせていることだけがわかった。
障子から抜けてくる明かりが廊下のある部分まで照らしてくれている。
長い年月によって磨かれた床板がまっすぐに暗闇の中に伸びている。
屋敷は手入れがあまりされていなかったのかガラス戸の継ぎ目から外の風が入り込んできていた。
まるでそれが、お化けの呼吸音のように感じられ、寒さとは違う異質な悪寒に身をぶるりと震えさせた。
広海が寝ていたのは、奥の座敷部屋だった。
そのため、台所に向かうためにはあの女の生首が出た座敷部屋の前を通らなければならない。もちろん、電気などは点けておらず、その部屋の前は薄暗い。
まるで横たわる暗闇の中、あの女の生首が潜み待ち受けているようで思わず息を飲む。
それでも意を決し分け入るようにその暗闇に足を踏みだした。
暗闇が息を殺し、足元に絡み付いてくるような悪寒に脅えながら、一歩一歩進む。ガラス戸を手で触れ、不安をまぎらす。それは心の支えにしてはずいぶんと頼りのないものだった。
ガラス戸から手を放す。
ガラス戸の継ぎ目から漏れる風が足元に吹きかかる。その度、びくっと身を竦めながらも、その障子部屋の前を通り過ぎる。
その事実が、心のなかでお化けの存在を消していく。
やっぱり、お化けなんているわけない。
何事もなく、例の座敷部屋の前を通り過ぎることができた。
そして、そろそろ廊下の終わりが見えてくる頃合、私は順調に歩を進め、茶の間に到着した。
茶の間の明かりを点けようと、電灯の紐に手を伸ばす。
その時になぜか台所の方が気になった。
台所の窓から漏れ出る微量な月明かりが、暗闇を少しだけ薄めている。だからそこに『何か』がいた。薄まる暗闇に、輪郭を持った人影がそこにはいた。それは暗闇が一艘濃くなったような人影。
呼吸しようとした喉がひゅっと音をだす。
「――だっ、誰っ」
人影は返答の代わりとでもいうように気味の悪い笑みを浮かべた。
広海はつかんでいた電灯の紐を引っ張る。
パッと明かりが茶の間を満たした。
「……………………何も、いない」
そこには『何も』いなかった。
広海はどこか狐につままれたその状況に、唖然と立ち尽くした。
引っ張った電灯の紐がゆれている。
だれもいない無人の台所に沈黙が訪れる。
「気のせい?」
判断がつかない? ううん。『何か』いた。と思う。