新しい生活
三日前のことだった。広海は街の大通りから外れた人気のない通りのベンチに腰を下ろしていた。その顔は精根尽き果てたというように、目は虚ろに宙をさ迷っていた。
白のニットのセーターとジーンズのパンツがくたびれている。
その脇には、旅行ケースが一つ置かれている。
「……これから、どうしよう」
広海は溜息とともに言葉を漏らした。広海は昨日の晩から逃げていた。
唯一の持ち物である旅行ケースから通帳をだす。ぺらりと捲るとそこに残高が明記されている。その金額に目を落とし、項垂れる。
貯金はほとんどなかった。会社からは逃げだすように辞表をだしてきた。今の私には友人も遠ざかるだろう。恋人は少し前までいた。でも、それが広海を追い込ませた原因だった。
騙されたのだ。貯金もとられ、借金を二百万背負わされた。あんなに尽くしたのに、広海の目元から涙が溢れる。自分が頑張ればいつか彼は分かってくれる。また優しくしてくれるそう思っていたら、いつのまにか借金取りが毎日アパートに押しかけるようになっていた。しかも会社にまであのヤクザ達がやってきた。恋人はいつのまにか音信不通になっていた。
広海は会社を辞めた。
なりふり構わず辞表をだし逃げるように会社を後にした。借金取りに気づかれる前に、アパートから逃げだした。持ってきたのは、この旅行ケースだけだ。
頼る友人もいない。親に迷惑をかけられない。もちろん、住んでいたアパートに戻るのは借金取りが待ち構えているだろう。
今夜からどうするのかといった現実問題が広海を苦しめた。
新しくアパートを借りるにしても、お金はほとんどない。
広海は虚ろな目で辺りを眺めた。
「――――不動産屋」
街は繁栄を謳歌しているにも関わらず必ず一軒二軒その繁栄に取り残されたような不動産屋がある。広海の目にとまった建物も青いペンキだったのだろう色落ちした看板と昭和の掘っ立て小屋のような店舗であった。広海は涙をぬぐい、疲労した足に鞭打ち腰をあげた。
視線が吸い寄せられるように、ガラス戸にベタベタと所せましと貼られた物件情報の一枚に止まる。
「――ほんとに?」
その一枚の紙に我が目を疑った。紙と紙の間から中を伺うと椅子に腰掛けた老人が眼鏡の位置を時おり直し新聞に目を落としていた。隣でストーブが赤い輝きを灯し、上におかれたヤカンが蒸気を出している。
広海は不動産屋に足を踏み入れた。
「すいませんっ。あの、表の物件の貼紙なんですけど! あれ、本当ですか?」
老人はちょっと驚いたような表情をし、すぐに目のまえの女が何を言っているのか理解したようで、その顔にはすぐに営業スマイルが浮かぶ。
「ああ、どうもいらっしゃい。またずいぶん早いですね。春といってもまだ朝は冷えますでしょう?」
新聞をデスクに置いた老人はこちらに向き直ると、眼鏡を指でくいっと押し上げ柔和な笑みを浮かべた。
「ええと、表の物件ね。っと、どれですかね?」
表の入り口にガラス一面べったりと物件情報が張り出されている。広海はその一枚を指差し、老人に言う。
「あ、あの、これっ、この一万円ってやつです! まだ、空いていますか?」
老人は立ち上がりかけ「あー、あれですね、はいはい、えーと」とデスクの引き出しから一枚の紙を取り出した。
「こちらですね」
老人の取り出した紙には平屋一戸建て、築年数百年ほど、家賃一万円とかかれた、図入りの物件がかかれている。かなり広い。
「そ、それです! あ、あのっ、ほんとうに一万円なんですか?」
「ええ、そうです。家賃一万円。敷金礼金無し」
「敷金もなしですか?」
「ええ、そうです」
広海はその一枚の紙に視線を落とした。築年数百年ほどとかかれている。かなり古い物件である。それでも、安すぎないであろうか?
「あ、あの、この物件っていわゆる……」
老人は一度嘆息し、少し肩を竦めた。
「どうも、こうも、いわゆる訳あり物件というやつですな」
老人は隠しても無駄だと思ったのか、素直に白状する。
「……訳あり?」
広海は、じっと紙に視線を落としたまま呟くように聞いた。
「あの。……人が死んだとか?」
広海は窺うように老人を見る。
老人の柔和な笑みが固まる。
「いいえ? 人が死んだとは聞いたことがありません」
「ほんとう、ですか? だったら、なんで」
老人は一度咳払いした。
「……出ると、いうことですよ」
老人がぽつりと零した。
「……でる?」
「私は見たことはありませんけどね。まあ、噂がね。大家さんのほうも、これじゃあ商売にならないと、ここまで値が下がったということですかな」
「あの、何が出るんですか?」
「さあ、さっきも言いましたとおり、私は見たことはありませんので。それよりこっちはどうですか? インターホンもついていますし、何よりオートロック。防犯対策もばっちり――」
老人は話をそらすように別の紙を取りだした。
訳あり物件。なんとなく予想はしていた。いくら築年数が古いといってもあの家賃は安すぎるなにかしら理由があるとは思っていた。
「こちらなんかどうかな? 南向き二階の角部屋。日当たりもいいし、なによりオートロック」
だけど。今の私には――、
「あの、この物件見せていただくことできますか?」
「はいはい大丈夫ですよ。この物件はなんとオートロック――――――へ?」
老人がちょっと驚いたような顔でこちらを見上げる。眼鏡がちょっとずれている。
「こちらの、訳あり物件?」
「……はい」
〇〇〇
築年数は百年ほどと聞いている。瓦屋根の平屋一戸建て、見た目どおりの古屋敷。瓦屋根のいたるところに、雑草が顔をだし外壁は漆喰が塗られている。年季の入ったガラス玄関の引き戸を老人が引く。「こちらですね」土で固められた土間が目に入る。
「こっちは?」
「ああ、そっちは」
正面には半分開いた襖から、畳敷きの茶の間が見えていた。その隣には台所、風呂、トイレと水周りが纏っている。古い屋敷である為に、広海は半ば水周りを覚悟していたが、予想とは反対に普通に生活する分には問題なさそうだった。トイレは和式だがちゃんと水洗で、お風呂はバランス窯というやつだ。台所は、湯沸かし器こそついていないが、ガステーブルがあり、流しはタイル張りでちょっとかわいい。
広海はちょっと気に入った。
玄関から右手には土壁に挟まれた廊下が続いている。窓がないために、そこだけ影が落ちている。古い屋敷特有の日が当らない薄暗さが所々に影を落としている。壁の隅、天井、廊下。
歩くたびにギイギイと軋みを上げる。ちょっとだけ恐い。
それにしても暗い。電気を点けなければまったく見えないのではないだろうか? 住むに当って電気代の心配がわいてきた。
先にいった老人が廊下の右壁面をなにやらガタガタと揺らしている。
その左面には部屋があるようだ。薄っすらと障子戸が見える。
「よいしょっとー」
老人が動くと、広海の視界の先に光が満ちてくる。
長い年月によって磨かれ、黒光りする床板が姿を現した。
そこは縁側だった。
なにをしているのかと思ったら、老人は雨戸を開けていたのだ。その内側にはガラス戸が嵌めてあり、老人はガラス戸をカラカラと引いて、外の風を取り入れた。
すぐに春特有の眠気を誘う空気が縁側を満たしていく。
「わぁっ」
広海の視界のなかで老人が何かに驚いて縁側に尻餅をつく。
広海はなんだろうと老人に近寄ると、老人は、足元を嫌そうな顔で見ていた。
まさか、お化け――。
そこには、縁石がありその上にひょろりと長い一匹の――。
「……ミミズ?」がいた。
広海は隣に腰を屈め、老人とミミズを交互に伺う。
「ははっ、いやちょっとミミズが苦手なもので」
老人は恥ずかしそうに顔を赤くする。
広海は笑った。
「お化けが出たかと思いましたよ」
「いやどうも情けないとこを」
老人は頭を掻いている。
広海は改めて視界に広がる景色を眺めた。
築年数百年ほど、訳あり物件。至る所に屋敷特有の古さに怖気を感じるが、それでも――、
春の陽射しが庭にそそぎ、そよ風が草木をゆらす。
鼻孔をくすぐる花の香り。
広海はその香りをめいっぱい取り込むように深呼吸をした。
視界には広いといっていいほどの庭が広海の心を躍らせる。
庭の隅には大きな桜の木が今にも開花しそうな蕾を枝にぶら提げている。根元は草花が生い茂り寄り添うように取り囲む。
桜の花が咲いたら、この縁側にお茶菓子を並べてお花見しよう。
下草が生い茂りわかりにくいが、あの辺には池もあるようだ。微かに水の匂いが漂っている。ただ荒れ果てている印象はなく定期的に手を入れられている印象を受けた。
広海は心をときめかせずにはいられない。三鷹のはずれといっても、しばらく歩けば街中で、駅にも近い。
そんな場所にも関わらず、家賃一万円。
平屋戸建、庭付き。掘り出し物以上に掘り出し物だ。
広海は少しだけ、心が安らいでいくのを感じた。
「あの、ここに決めました」
広海は老人にそう告げた。
このとき、広海の頭からは訳あり物件という言葉はどこか遠くに消えていた。
今日から入居したいという胸を告げ、少し困ったように老人は電話で何事かをしゃべっていた。「大丈夫だそうです」老人はちょっと苦笑混じりそう告げた。電話の相手はどうやら大家さんのようで、クリーニングや前の住人の荷物などの清掃をしなくていいというのであれば、別にいいということだった。家財道具一式ない広海にとっては逆にそれがありがたかった。
それから、その場で書類に判を押して、あとはやっておきますと、老人は言葉を残して去っていった。
旅行バックは適当に空いている座敷部屋の一つに置いた。
六畳一間の畳敷きで、室内の壁も漆喰で塗られている。左手に床の間があり、違い棚がもうけられ、その隣に押入れがあった。
以前は、いつ頃かは不明だけど、客間として使われていたのだろう。
がらんどうの座敷が広がっている。押入れを開くと布団が入っていた。誰が使っていたものかわからないので、少し使うことに抵抗があるが、贅沢はいえない。
布団で眠れるだけでありがたい。広海は顔も知らない前の住人に感謝した。
客間の隣には、もう一つ六畳一間の畳敷きの部屋。
こちらは特に床の間などはなく押入れだけがあった。
広海はそうやって、ひとしきり屋敷を見て回りながら、台所にあった箒とちりとりで簡単な掃除をした。
さすがに埃だらけだったので、苦労した。
気づけば太陽が西に沈みかけていた。
ここから新しい生活を始めるのだ。