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恐ろし屋  作者: 九重 まぶた
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古民家

 雲に隠れた月の陰影が滲んだ灯りをふりそそぐ。


 風は生温かく路地をゆっくりと流れていく。無個性な家が立ち並ぶなかに古い屋敷が、雲間から顔をだす月の灯りに照らされる。


 光を帯びた瓦屋根が魚の鱗をおもわせ、夜の海を泳いでいるように見えた。雨風を凌ぐための壁は、漆喰が所々剥がれ落ち、まるで傷跡のような生々しさと柔らかい肌のようだ。柱と壁の隙間にはぽっかりと小さな伽藍堂が奥まで続いていく。


 ねずみはそこを通り道に小さな四肢をパタパタと動かしては細い通路を縦横無尽に駆け抜ける。通り抜けると、陰に満ちた景色が広がっている。


 天井裏の一艘に陰が黒い部分から裂ける音がする。壁の隅にわだかまった陰が煙のように燻った。蛇口から水滴が落ちる音が響く。戸口が閉まる音がした。時計の振り子が時を刻む音。鏡にうつる奇怪な光景。


 屋敷の家鳴りが脈動のように鳴っている。


 ――ギイ、ギイ、ギイ――


 時代を経ることで黒い艶をだした杉の床板。それの軋む音が、障子の向こうから聞こえてくる。音は何度となく廊下を行き来している。


 ガラス戸から入る夜光が、障子を隔てた広海の寝ている座敷に淡く差し込んでいる。


 広海は、視線だけを障子に向けた。

 

 その音は、誰かが廊下を歩いている音に聞こえた。


 広海の視線の先に映る障子に人影はなく、足音の振動だけが微かに、布団の中にうずくまる体に伝わってくる。音が障子のさきからではなく耳元で聞こえた。


 歯を磨き、パジャマに着替え、寝床についた。すぐに眠りが訪れた。訪れたもののいつのまにか、眼は覚めていた。


 春の風が草木を揺さぶる騒音に意識を引き戻された? 


 ……それとも。


 足音が広海の眠る部屋の前で止まった。

 

 視線が障子の先に吸い付くように離れない。

 

 息を殺し、潜むように布団を口元に引き寄せた。鼓動がいやに大きく鳴り響いた。

 

 月灯りはそこに、人影もなにも映さない。カタカタっと、障子が動いた。

 

 春の風が、庭先の木々をざわめかせる。

 

 広海は布団を頭まで被った。

 

 ………………。

 

 ――ギイ、ギイ、ギイ――

 

 足音は部屋から遠ざかっていく。

 

 …………?

 

 広海は布団から抜け出し、猫のように四つん這いになり障子に近づいた。震える指を縁につける。温度を感じられない木の感触が人差し指から伝わる。力をいれ、鼻先がでるほどにずらした。

 

 タヌキかもしれない。

 

 ふいにそんな言葉が浮かんだのだ。だったら、びくびくするだけ損だ。タヌキじゃなくても、何か、小動物かもしれない。きっとそうだ。

 

 古い屋敷。築百何年と聞いた。小動物が侵入する経路などそれこそ数えきれないほどあるだろう。確認したわけじゃないけど。いたるところが痛んでいる割に倒壊せずにこうやって住居として成り立っている稀有な建物だ。

 

 広海は生唾を飲み込んだ。

 

 視界にはガラス戸越しに映る月灯りに照らされた庭が、春の風にざわめいている。ガラス戸がカタカタと揺れる。他にとくに変わったところはない。小動物の気配もない。広海は障子戸を顔がすっぽり入るくらいに引いた。広海の顔が障子戸の堺を通り過ぎる。顔を、足音が遠ざかったほうに向けた。


 そのさきには、土壁に挟まれた薄暗い廊下がひっそりと漂っている。


 廊下の中央に人の足が、こちらをじっと見るように立っていた。


 まるで、広海が顔をだすのを待っていたかのように。もちろん視線なんかあるはずないのだが、その足は、確かに広海をじっと見つめ、広海を見とめると一歩、二歩と、歩いてきた。


 「――――っ」

 

 広海の顔が驚愕に歪んだ。

 乱暴に障子を閉じる。

 

 ――ギイ、ギイ、ギイ――っと、閉じた障子の前で足音が止まった。


(来ないで、来ないで、来ないで――っ)


 手足が、身体が、全身が怖気に震える。


 もう、勘違いじゃない。見間違いじゃない。やっぱり、この屋敷には、『何か』がいる。


 広海は障子戸を開かれないように、その手でぎゅっと縁を持つ。


 はっとする。障子は紙で出来ている。こんな薄い紙、軽く蹴られでもしたら、あっという間に破れてしまうだろう。それは、『足』が入ってくるということだ。


 心臓がドクドクと波打つ。


 (……どうしよう。どうしよう。どうしよう。どうしよう。どうしよう。どうしよう)


 恐怖に埋め尽くされていく頭で必死に考えるが、打開策なんか都合よく見つかるわけはない。視線をいくら部屋に走らせても何もひらめきはしない。

 

 ――ギイ、ギイ、ギイ――。


 「……………………?」


 足音が、部屋からまた遠ざかっていく。


 時計の針がカチコチと脳内に響き続けた。障子戸をありったけの力で閉め続けていた。

 

 どれだけ時間が流れたのだろう。

 

 もう、足音は聞こえない。

 

 広海はようやく解放されたように息を吐いた。部屋の隅、障子戸の終わりを見た。あっちから障子を開けられたらそれで終わりだった。

 

 自分が戸を閉め続けていたことがどれだけ無意味だったのか今更ながら理解する。


「……はぁ」


 それでも、今夜はもうではないだろう。広海は息をつき、項垂れた。


「――見ぃつぅけぇたぁ」


(――え?)


 時間が止まったように思考の一切がどこかに吹っ飛んでいってしまった。


 眼前の障子戸の一つの桝目に、血の色をした唇が「見つけた」とくっきりとひらいた。


 広海は跳ねるように後ろに飛び退いた。


「――っ」


「見ぃつけたぁ」

 

 声に応えるように桝目の一つに目玉がひらき、ギョロリと目玉がこちらを見る。「いた」桝目の一つにまた真っ赤に裂けた唇がひらく。広海の視界に、次々に障子の桝目に、目、口、耳とびっしりと浮かびあがっていく。すべての口がパッとひらいた。「いた」「みつけた」「ふふ」「どこ?」「あそこ」「ほんとだ」「そこだよ」「あいつだ」「右?」「左?」「正面」「壁のとこ」「ぎひっ」「ぐふっ」「どうする」「何が」「あいつ」「食べる」「食べる?」「右手」「左手」「足」「肝」「頭」「心臓」「ぐふっ」「ぎひっ」「げへっ」「きひひ」「ひゃひゃ」「けへへ」口が笑う。目が笑う。耳がビクビクと震える。


「――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――っ」



 ――いわゆる訳あり物件ですな。



 広海の脳裏にその言葉が不協和音のように鳴りひびいた。

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