1.逃げます
「今日はいい天気になりそうね。」
久しぶりに朝の散歩ができて、リリーアンヌはご機嫌だった。
昨日の夜、夫のレオルドは仕事に出かけており、そのおかげでぐっすり眠れた。
いつもは眠さやだるさと戦って起きるのに、今朝の目覚めはすっきりしていた。
晴れた空を見ながら散歩を楽しんで、そろそろ私室に戻ろうとしたところだった。
「リリーアンヌ様、大変でございます!」
いつも世話をしてくれる女官が小走りで駆けよってくる。
王宮で働いている女官は、淑女中の淑女。
その中でも優秀なものが王族付きに選ばれるとあって、
そのようなはしたない真似をするのは、とても珍しいことだった。
「どうしたの?何かあった?」
「…それが。」
小走りで知らせに来るほどの何かがあったはずなのに、
女官はなかなか話そうとしない。
そろそろじれったくなってきたと思った頃に、ようやくぼそぼそと話し始めた。
「あの…殿下が…側妃を娶ることになったと…。」
「は?」
「あの…あの…伯爵令嬢のミリナ様が、
殿下の部屋で一夜をお過ごしになったと…。
今もそのまま滞在しているようです。
このまま側妃になるので、伯爵家には戻らないとおっしゃって。」
あまりの衝撃に頭が回らない…側妃?伯爵令嬢と一夜を過ごした?
昨日の夜、私のところに来ず、仕事だと言ってたのに?
「ええと…事実なのよね?それで、レオは?」
「それが…殿下がいないのです。
朝までは居たそうなのですが、侍従を連れて外出してしまったと…。
ですが、その…寝台には純潔を散らした跡があると…。
女官がそれを見つけ、シーツを保管してあるそうです…。」
「…そう。わかったわ。
教えてくれてありがとう。部屋に戻ります。」
冷静さを装いながら、腹が立っていた。なんなの?それ。
そっちがそういうことするなら、私は約束通り逃げることにする。
だって、ずっと窮屈な思いでここにいて、
大変な王妃の仕事までさせられているっていうのに。
結婚して四年。王妃の仕事を任されて二年。
頑張ってきたのはレオがいるから、理由はそれだけだったのに。
私室に戻り、すぐに人払いをする。
そばに残るのは侍女のシーナと護衛のシオンだけ。
この二人は侯爵家から連れて来ている、大事な友人でもある。
「で、どうする気なんだ?姫さん。」
「もちろん、逃げますよね!」
なんで嬉しそうなのよ…シーナ。
「逃げるわ。準備するから、ちょっと待って。
ふたりも自分の荷造りしてくれる?」
「俺は、このまま行ける。」
「私は用意してある荷物を取ってきます!」
なんで用意してあるのかと思うけど…あれ?二人は知ってたの?
レオが側妃を娶るって。だから、あらかじめ準備していた?
あぁ、もういい。何も考えない。とりあえず、ここを逃げてから考えよう。
必要と思われるものをポイポイ魔収納袋に放り込む。
お忍び用の町娘の格好にするか迷ったけど、着慣れている魔術師の姿にした。
荷物の準備を終え、魔術師のフードをかぶって気合を入れる。
ここを出ていくとレオに伝える手紙を書かなければ。
側妃を迎えると聞きました。
私はもう必要ないと判断します。
約束通り離縁してください。
それでは、お幸せに。
リリーアンヌ
短い手紙になってしまったけど、これ以上書けなかった。
書いたら、泣いてしまいそうだった。
「さ、行こう。」
戻って来たシーナといつもより機嫌の悪そうなシオン。
二人の手をつないで転移する。
行き先は魔女の森。何かあったら、そこに行こうと思っていた。
あとは行ってから考えればいい。
何ともならなくても、王宮にはもういたくなかった。
「なんだよっ…頭痛いから揺らすな~。」
「レオルド様~申し訳ありませんっ。大変なことになりました。」
ひれ伏して謝るジョンに、理解が追いつかない。
ここはどこだ…あぁ、カインの店だ。
昨日は借り切って、ジョエルと一緒に飲んで…
うん、ジョエルはまだ向かい側につぶれている。朝方まで飲んでたんだから当然だな。
俺もまだ酔ったままだ。
ジョンが迎えに来たのにしては、早すぎるな。
しかも、なんでこいつさっきから謝ってるんだろう。
「ジョン、なんかあった?」
「本当に申し訳ありません…。」
あぁ、ダメだ。泣き始めちゃったよ。
うーん。他の侍従が説明するまで待つか。
この時の俺は知らなかった。
王宮でこれでもかってほど、めんどくさいことになってて、
そのせいでリリーがいなくなったことを。
他の侍従から話を聞いて酔いが一瞬で醒めた俺は、急いで王宮に戻った。
だけど、その時にはもう、リリーは消えた後だった。