君の声で呼んで
短編集『はんぺんシチュー』内の短編『王子様のスイッチ』を改稿したものになります。
なんだか空気がざわついている。
このところ、いつもそうだ。こんな日は、さっさと籠ってしまおう。
バッグを手に取ると、森野ちせはそんなうわついた空気から逃れるように、教室を飛び出した。
そのままの勢いで、図書室に向かおうと階段を上ると、廊下から走ってきた人物と肩がぶつかってしまった。
「あっ! すみません!」
「だいじょう、ぶ!?」
転ばないようにふんばろうとした足が、床を捉えない。
そういえばここ、階段だったぁ~、と思った時はもう遅くて、ちせの身体はぐらりと傾いた。
「危ない!」
なにかに捕まろうととっさに伸ばした手が、力強く引っ張られる。
重力に反した力により、今度はまるで振り子のように反対側につんのめり、たたらを踏んだ。差し伸べられた手により転倒は免れたが、その勢いでメガネが落ち、廊下にカチャンと乾いた音を響かせる。
「あ」
「あ」
シンクロした言葉もむなしく、無残にもメガネはフロントが外れて廊下を滑った。
「あ!」
「あ!」
またふたりの言葉がシンクロする。
ちせは目の前の人物の顔にようやく目をやるが、ぼんやりとしていてよく見えなかった。やけに色素の薄いふわふわの茶色の髪に、白く小さな顔。視界がぼやけていてもわかるほどパッチリとした目。ちせが少し見上げた先に人形のような顔がある。それが思った以上に近くにあって、ちせは慌てて距離をとった。
「ごめん、なさい。眼鏡……壊れちゃった」
その人形のような顔から出たのは、意外にも少しハスキーな声だった。
よく見えないけれど、その声色からとても申し訳なさそうにしているのだろうというのは、ちせにも分かった。
差し出された眼鏡を受け取ると、幸いにレンズは割れていない。これなら、すぐに直してもらえそうだとホッとした。
「ううん、大丈夫。もうひとつあるから、問題ないわ」
「え。眼鏡、もうひとつ持ってるの?」
「うん。これ、買ったばかりなんだけど、ヒンジが緩くて。近々お店に持っていこうと思ってたから前のも持ち歩いてるの」
「ヒンジ?」
「フロント――耳にかけるところね、そこを留めてある部分」
「へえ。ヒンジって言うんだ。よく知ってるね」
「うん。調べたから」
「調べたの? どうして?」
なぜか、その子はちせの言葉にとても興味を持ったようで、質問を重ねる。
「癖……かな。物にはなんにでも名前があるでしょ? 名前を意識したら気持ちが籠って大切に想う気持ちが伝わるんだって、昔パパに言われたの」
「伝わるの? 眼鏡にも?」
「……だから、癖なんだってば」
ちせはバッグから以前使っていた眼鏡を取り出すと、それをかける。するとなぜか、目の前の人物もそれを確認するかのようにじっと見ていた。
「見える? ちゃんと見える?」
「見えるよ。大丈夫」
「ほんとに見える?」
なぜかその子は、ちせの顔を覗き込んでくる。
改めて見ても、その子はやっぱり人形のような整った顔立ちをしていた。
古い眼鏡だから、落としたものよりは見えづらいけれど、これでも充分だ。それなのに一体、この子はなにを言いたいのだろうか。不思議に思いながらも、ちせは頷いた。そこで目に入ったのは、グレーのチェック柄のズボンだった。
(え。お、男の子だったんだ)
身長もそんなに変わらず、華奢な印象だったから、てっきり女の子だと思っていた。
同性だと思って話していたのが、まったくの勘違いだった。そう知ると、なんとなく距離感がつかめなくて、ちせはその場を離れることにした。
「あの……、もう大丈夫。眼鏡も、ネジがなくてもお店で直してくれると思うから。ほんとにもう大丈夫だから」
「そう。なら、良かった」
「じゃあね。私、図書室で用事があるから」
少年とは、それきり、終わるはずだった。
* * *
長いカウンターの定位置に座ると、ちせは入荷した本を手に取った。
誰も頁を開いていない本は、めくり癖がついておらず、紙もピンと硬さを感じる。そんな本を開くと、インクの匂いだろうか、ホッとするようないい匂いがする。
図書委員の仕事は地味なうえに、拘束時間が長いため、人気がない。
カウンターの端に設置されているタブレットで、リクエストも予約も貸し出しもできるため、実際の仕事はとても少ない。そのため、暇を持て余してしまうのだ。名前だけ委員になって、サボる生徒も多いのは、元々そのつもりで委員になったのだろう。そんな中、ちせは毎日のように図書室に顔を出していた。図書委員の特権として、まっさらな本を一番に借りることができるのだ。委員をやりながら好きな本を、しかも誰よりも早く読めるなんて、ちせにとっては天国のような場所だった。
勿論、ちせにも来れない日はあるが、今日のような新作入荷日には必ず図書室に来る。他の委員もそれを知っているのか、積極的にサボることにしているようで、こんな日は大体ひとりだ。ちせにはむしろ、その方が気楽だった。
ひとしきり新しい本の感触を楽しむと、新しく入荷した本一冊一冊に、大きさを合わせて透明カバーを作る。その後で、貸出管理用のバーコードシールを貼り、ようやく本棚に入れることになる。
ちせが大きさがピッタリになるようにと、丁寧に透明カバーを作っていると、図書室という場所にそぐわない大きな音で扉が開けられた。
「王子は、いるっ!?」
パッと目を惹く美しい少女が、そこにいた。
この子が今、乱暴に扉を開けたのだろうか……戸惑ったちせが何も言わずにいると、少女は焦れたように声を荒げる。
「ちょっと、聞いてるの? 王子はいるのかって聞いてるの!」
「おうじ? 誰ですか? それ」
「信じられない! あなた、王子を知らないの!? もしかして、私のことも知らない?」
「知りません。とりあえず、図書室で静かにできない人は、私の知ってる人間にはいません」
この場をぶち壊しにするような少女の存在に、ちせも静かに、だがハッキリとした口調で応じた。
それに少女は益々苛立ったようだ。だが、他に人気のない場所であることは一目瞭然だ。目的の人物がいないことは分かったのだろう。
「うるさいわね。誰もいないんだったら、別にいいじゃない!」
美少女はそう吐き捨てると、来た時と同じように、乱暴に扉を閉め出て行った。
図書室は再び静寂に包まれたが、それでも元の空気感を少女が壊したことへの腹立たしさは残った。
「まったく。礼儀のなっていない小娘め」
誰もいないから騒いでいいとか、図書室はそういう場所ではないのだ。
腹立ちまぎれにそうひとりごちると、足元からプフッと空気の漏れる音が聞こえた。
驚いたちせがカウンター下を覗くと、そこにはカウンターを背に寄りかかって座る、小柄な少年がいたのだ。よく見ると、先ほどの少年だ。
「小娘って……ひとつしか違わないのに」
口を手で覆い、笑いを堪えようとしているが、小刻みに震える両肩でバレバレだ。
ひとりきりだと思って呟いた言葉が拾われ、ちせは面白くない。
大体、この少年は一体なんなのだ。
「部外者はカウンターに入らないでください。そもそも。あなたいつからここにいたの?」
「僕は最初からいたけど……」
「最初?」
「そうだよ。ちせの後をついてきて、それでここに座って、ちせの仕事をずっと見てた」
「最初からって、全然気配が――」
そこまで言って、ちせは違和感に気が付いた。
この少年とは、今日が初対面ではなかっただろうか? なぜ、この少年はちせの名前を知っているのだろう。
そんなちせの考えが伝わったのだろうか。少年がポケットから手帳を取り出した。
「森野ちせ、大崎東高校2年B組。6月5日生まれの17歳」
「あ。それ、私の生徒手帳……!」
「うん。さっき眼鏡落とした時、これも一緒に落としたみたい。でも気づいてなかったみたいだったから、届けに来たんだ」
「そ、そうなんだ」
届けに来たはずなのに、彼はなぜこうしてカウンター下に座り込んでいたのだろう。
「声かけたけど、聞こえてないみたいだったから」
また考えを読んだように応える少年に、ちせは思わず頬に手を当てる。
すると、少年はまたプフッと吹き出した。
「ごめん。私、没頭するとそうなっちゃうみたいで……」
「そうみたいだね。だからずっと見てたんだ」
なぜか少年は嬉しそうに笑う。
存在を無視されていたのに、なぜこの少年はこんなに機嫌がいいのだろう。
「ええと……ほんとう、ごめんね。ありがとう」
ちせが生徒手帳を受け取ると、少年はやっと立ち上がった。
こうして気づくまで待ってくれなくても、カウンターに置いて立ち去ってくれても構わなかったのだが、少年の声に気づかなかったのはちせが悪い。
「ごめんね」
もう一度謝ると、なぜか少年はとてもスッキリしたような表情をしていた。
「ううん。僕こそ、ありがとう」
「え?」
「アレを追い出してくれて」
「アレ?」
「そう。さっき騒がしくした小娘だよ」
ちせの発言を思い出したのか、少年がまた笑い出した。
あれはまさか聞いている人がいないと思っていて、思わず零れた言葉だ。正直、忘れて欲しいのだが、この少年のツボにハマってしまったらしい。
「アレのことをそんなふうに言う人、初めてだ。最高にスッキリしたよ」
「そ、それはドウモ……。できれば忘れて欲しいけど」
「あ、僕ね、白峰陽人っていうんだ。1年A組。5月26日生まれの16歳」
「でも、あの子が探してるのはおうじって……」
「そんなの、勝手に言ってるだけだよ。いつからだったか、勝手にそう呼び出して。誰だよソレって感じだよね」
顔を顰めて肩を竦める様子に、ちせは、ようやくそこで、彼こそがあの少女の探し人だったことを知った。
誰もいないと思い込んで追い返したけれど、ここにいたのなら、話は別だ。
「追わなくていいの? あの子、随分な剣幕だったけど」
「あの小娘?」
そう言って陽人と名乗った少年は、またプフッと吹き出した。
「いいんだ。僕はもう、居場所を見つけたから」
なんのことだろうとちせは首を傾げる。それを見て、陽人がまた笑った。
* * *
彼らの噂を聞いたのは、その翌日のことだった。
教室で机を窓際に寄せ合い、友達とお弁当を食べていた時、友達のひとりが弾んだ声を上げたのだ。
「あ、ちょっと! 王子だよ」
「え、王子? どこどこっ? なんだぁ。また姫がくっついてんじゃん」
「おうじ?」
その言葉に反応して、ちせが顔を上げると、窓から見える中庭に陽人と名乗ったあの少年がいた。その隣には、図書館で陽人を探していた少女がいる。
「あの姫がいつもガードしてるから、誰も王子に近づけないらしいよ」
「それだよね~。あー、王子今日も美しいわ~。でもさ、やっぱり姫と付き合ってるのかな」
「姫本人はそう言ってるけど、実際どうだろ。王子は常にクールだけど、彼女に対してもそうなのかな」
しきりに話しかける彼女に対して、陽人はそちらを向くこともなく、黙々とパンを頬張っている。
あれで付き合ってるというのなら、彼女としてはちょっと嫌だ。
それに、ちせが昨日見た陽人は、よく笑う男の子だった。
食べる手を止め、中庭を見下ろすちせに、友達が気づいた。
「ちせ、王子の話題に反応するなんて、珍しいね」
「え? そう?」
「そうだよー。いつも完全スルーじゃん」
そうだったかな? ちせは不満を顔に出すが、友達はそれに頷いた。
再び窓の外に目をやると、やはり話しかけているのは彼女だけで、陽人はまるで彼女など存在しないかのように本を読みだした。
(本――好きなんだ)
「知りたい? 王子のこと、知りたい?」
ちせの反応を興味と解釈した友達が、返事もしないのに勝手に話し出した。
ふたりは共に1年で、入学した時から注目の的だったのだそうだ。
白峰陽人は、おじいさんがスイスのかただとかで、人形のような顔立ちとスラリとした手足に色白美肌という、女子が羨むスペックの持ち主なんだとか。そういえば、ちせも彼を始めてみた時、人形のような子だと思った。恰好を見るまでは、女の子だと思っていたくらいなのだから。
とにかく、そんな風に目を惹く存在だった彼は、皆に“王子”と呼ばれるようになったのだそうだ。
彼はモテた。彼に近づこうとした者は、同級生だけではなく、上級生や他校生にまで及んだ。だが、そこにいつも立ちはだかるのが“姫”と呼ばれるあの少女だ。姫は、陽人の幼馴染らしく、いつも一緒だった。しかも艶やかな黒髪に、目じりの上がった意思の強い瞳が印象的な美少女だったため、皆もうかつに陽人に近づくことはできなかった。
「よく知ってるね」
「当たり前でしょ! それでね、前は女の子っぽかった王子なんだけど、身長が伸びて声変わりが始まったら、またファンが騒ぎ出したのよ」
「そうそう。なんていうか、色気が加わったって言うのかな。なんか見てるだけでドキッとしちゃうんだよね」
「最近は王子が姫の追跡を逃れて、ひとりで行動するようになったっていうのもあるかも。ワンチャン狙ったファンの子がざわついてるのよ」
「あれを見る限り、姫の片想いっぽいしね~」
最近、なんとなく校内の空気がざわついている気がするのは、そのせいだったようだ。
それにしても、昨日の彼女の様子を見れば、陽人がひとりの時間を過ごすこともたやすくはないだろう。
可哀想に……と、ちせは心から同情した。
「ふぅん。モテるっていうのも、大変なのね」
「クラスが違うのが幸いしてるわね。姫が王子のクラスに行くと、もう姿を消してるらしいから」
「今日は姫のクラスの方が、先に授業終わったのかな。かわいそ~」
陽人の指は、なかなか先へとページをめくれないでいる。
あんな風にまとわりつかれては、仕方がないのかもしれない。
「ねえ、次体育だよ。ちせ、早く食べちゃいなよ」
「ていうかさ~、お昼食べた後の体育ってありえなくない? 眠いし体重いしさ~」
「わかる。着替えるのも面倒だよね。せっかく長い昼休みなのにさ」
友人の言葉に、ちせも窓から視線を外し、思考から彼らを追い出した。
考えても仕方がない。昨日、たまたま言葉を交わしただけなのだから。
そう思っていたのに――。
「なんで、いるの」
「あ、ちせ。今日遅かったね」
図書室に入ると、カウンターの下には既に陽人が座り込んでいた。ちせがやってきたことを知ると、ニッコリと微笑む。その顔に、表情の変えないクールな王子の印象は、ない。
貸出カウンターは一度に三人が座れる程の長さがあるから、端にいるぶんには別に邪魔ではないのだが、だからといってなぜそこに座り込むのだろう。
「向こうにテーブルがあるでしょ」
「誰かに見つかるかもしれないから、嫌だ」
「もう私に見つかってるじゃない」
「ちせは、いいの」
だから、なぜだ。
しかもちせの方が先輩だというのに、陽人は最初から呼び捨てだ。それを指摘しても、なぜか陽人は「ちせだから、いいの」と応えた。
いいかどうか、それを決めるのはちせ本人だと思うのだが。
(――さっきから会話が成り立っていないような気がするんだけど……)
先ほどから、ちせの「なぜ」に、陽人は明確な答えをくれない。
どうしたものか、と思ったけれど、今日は傷んだ本の修復作業をしたかったので、陽人のことは放っておいて作業にかかることにした。
バーコードが剥がれていたり、ビニールカバーが破れているものなどが、週に何冊が出てくる。直さないと本棚に戻せないので、入荷がない日にやるようにしていた。
丁寧にカバーを外し、新しいカバーを本のサイズに合わせて作る。続いてパソコンでバーコードを発行すると、カウンターの端にあったプリンターが動き出し、シールタイプのバーコードを長く吐きだした。それが陽人の頭にかかり、気づいたちせが慌てて取ろうとした。
「あ、ごめん。邪魔だったね」
「ううん。大丈夫。……あ、この本」
ちせの手よりも早く、バーコードを取った陽人が嬉しそうに声を上げる。
「読みたかったヤツだ。もう、絶版になってて」
「え、そうなの? 待ってて。これ貼ったら貸し出しできるから」
「うん。ありがとう」
バーコードを貼り、陽人に渡そうと本を差し出すと、陽人はちせの手に自分の手を重ねるようにして本を持った。
「……な、なに?」
「ちせの手、ちいさ~い。爪とか超小さい。なにこれかわいい」
「いいから、本をちゃんと受け取って」
ようやく手を離すと、大きな音をたてて図書室の扉が開けられた。
「王子っ!!」
その音に驚いて振り返ると、例の“姫”がいた。どうやら昨日に引き続き、陽人を探し回っているようだ。
「見ての通り、いません」
ちせが思わずそう応えると、姫はなにも言わず乱暴な手つきで扉を閉めた。
突然の物音に、ドキドキと高鳴る胸を落ち着かせ、椅子に座ったちせは「どうして今、いないって言っちゃったんだろう……」と不思議に思った。
居たことに気づかなかった昨日ならともかく、今日はしっかりと陽人の存在を認識していたのに。
図書室での姫の振る舞いが、好ましくないものだったというのもある。あるけれど、考える間もなく、自然と口が動いていたのだ。
「なんで、いるって言わなかったの?」
小さな掠れた声で陽人に聞かれ、ちせは首を傾げた。
「さぁ……君が、この本をちゃんと読めたらいいなって、思ったから……かな」
考えながら答えるが、言葉にしてみると、それが一番しっくりするような気がした。
陽人は本を読むことが好きなようだが、相手にしてもらえない姫は、それを良く思っていないようだった。
「ふぅん……。それだけ?」
「は? ……そうだけど」
「ねえ、ちせ。眼鏡いつ直すの?」
突然話題を変えられ、面食らったちせは、一瞬言葉に詰まった。
「え、ええと……。平日は行く時間ないから、土曜にでも行こうかなって……」
「そう。店はどこ?」
「西口の――え、なんで?」
今日、何度目かの「なぜ」と口にするが、やはり陽人の応えはズレていた。
「待ち合わせするのに、目的地知っとくのは常識でしょ。じゃあ、10時に西口ね」
「え? だから、なんで?」
「僕が壊しちゃったんだから、当然じゃん。ホラ、スマホ出して」
そうか。
言われてみれば、そうかもしれない。昨日、ちせの眼鏡が壊れてしまったことを、陽人は気にしているのだ。そんなこと気にしなくてもいいのに、と思うが、逆の立場ならちせも気にしてしまうだろう。言われるがままにスマホを取り出す。すると、陽人は慣れた手つきで連絡先を交換した。
「ちせ、ロックとかかけないの? やっといた方がいいよ」
「え、あ、うん。ごめん」
「じゃあ、早速今晩電話するね」
「……だから、なんで?」
陽人の意図がまったくわからないちせの頭の中は、クエスチョンマークが飛び交っている。
「ちせだから」
陽人からは、やっぱり答えになっていない応えが返ってきた。
「もう。さっきから全然会話になってないんだけど。大体、どうして会ったばかりなのに、呼び捨てなのよ。私、これでも一応先輩なんだけど」
「ちせが言ったんだよ」
「なにが?」
ちせが、「今日、こんなふうに聞くの、これで何度目よ……」と半ば呆れながらもそう聞くと、陽人がおもむろに立ち上がった。
「ちせ」
「な、なに」
顔を覗き込むように身を屈める陽人に、ちせは思わず身体を引こうとした。だが、それよりも早く、カウンターに置いていた手に、陽人の手が重ねられる。
「ちせが言ったんだよ。名前を呼ぶことで、大切な相手に気持ちが伝わるんだって」
「え」
「だから、僕はちせのこと名前で呼ぶの。その辺にありふれた、誰を指してるのかわからない先輩だなんて、呼びたくないの」
「そ、それは……。あの、どういう、こと、かな」
思いもよらない展開に、ちせはうまく頭が回らない。それなのに、重ねられた手と、息をするのも困るような近い距離と、繰り返し呼ばれる名前に鼓動が速くなる。
「ちせにも、僕のこと名前で呼んで欲しいな。皆が好き勝手呼んでる、誰のことだか分からない呼び方じゃなくて、ちゃんと名前で」
「え~? ええっと……は、陽人……」
そう口にした瞬間、陽人は眉を下げて嬉しそうに笑った。
「ちせ、もう一回」
「……陽人」
「ちせ、もう一回言って」
「陽人……」
その名前を口にする度に、ちせの胸が高鳴る。
目の前にいるのは、無表情な王子なんかじゃなく、白峰陽人というよく笑う男の子だ。そう意識してしまったら、顔が熱くなってきた。
「ちせは、さっきから『なんで?』って聞いてたけど、僕の想い、ちゃんと伝わった?」
ちせは戸惑いながらも、小さく頷いた。