『芹沢大剛』
一メートル先もう黙認できないくらいの霧に包まれた白い闇の中を、我輩は駆け抜けて行く。先など見えなくても、人間の匂いがする方へ向かえば良い。我輩にとっては容易いことだ。
道溢れる生命の香りに誘われて、我輩は漸く一人でさ迷う人間の雄を見つけた。
三十前後の巨漢で、服の上からでも分かるほどの、鋼ぬの筋肉に身を包んでいる。
神経を研ぎ澄まし、周囲に警戒を張り巡らせながら、慎重に進むその姿からは幾度も修羅場を潜り抜けて来た、百戦錬磨の達人の風格が見て取れた。
どうでもいいが、食っても不味そうだ。
我輩には用のない人間だが、イレーネの大事な暇潰しだ。このままさ迷わせる訳にもいかない。
我輩は木の上から飛び降りて、人間に姿を晒してやった。
我輩が地に着地したのとほぼ同時に、男は懐から拳銃を取り出すと引き金を引き絞って三発、発砲して来た。
狙ってやったのではなく反射的に体が動いたのだろうが、なんにしても失礼な人間である。
念動力を駆使して銃弾を反射させて撃ち殺しても良かったが、今は弾き飛ばすだけに留めておく。
「ふんっ、ただの猫か……」
男は我輩を目視すると、銃弾を弾き飛ばしたのにも気付かなかった様子で、小さく鼻を鳴らすとつまらなさそうに吐き捨てた。
この愛らしい姿を見てもなんとも思わないとは、男とはつまらん生き物だ。女だったら我輩を放っておかないはずだ。
我輩は見せつけるように、二本に分かれた白くて長い尾を立てるとゆっくりと左右に動かした。
人間はこの尾に関心をしめすものらしい。我輩に誘導されるまま着いて来るがいい。
「どうやらその裂けた尻尾が自慢らしいな。
だか、そんなものを見せたところで俺の同情は買えんぞ?」
男は人間のくせに生意気にも嘲笑を浮かべて鼻で笑った。
それが我輩の感情を逆撫でし、我輩は思わず念動力で男を弾き飛ばしてしまった。
「ガハッ!!」
男は背中から巨木に叩き付けられて肺の中の空気を吐き出した。
あのくらいで死ぬことはないだろうが、人間と言うのは痛みに弱い。あれで我輩を怖れて逃走でもされたら厄介だ。
森で迷って白骨化するのは勝手だが、イレーネの元に連れて行かねば何を言われるか分からない。
最悪、気を失わせて引き摺ってでも連れて行けば良いだろうと、我輩は男の動向を伺った。
「クッ、やりやがったな!!
なんだか良く分からねぇが、てめぇの仕業だろう?」
驚いた事に男は頭から血を流しながらも我輩を見下ろして睨み付け、懐から拳銃を取り出すと我輩に向けて発砲してきた。
人間にしては中々見込みのあるやつだ。
これなら我輩が逃げれば仕留めようと追って来るだろう。
勝手に我輩に都合が良い方へ状況一変した。我輩はそのまま男の視界を振り切らないように駆け出すと、イレーネの待つ館へ向かった。




