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童貞の死、あるいは誕生

愛ゆえに人は死ぬ -100年生きた童貞-


 明日、百歳になる老人がいた。老人の名はトシオ。トシオは病院の一室で家族もなく、一人で死を待っていた。トシオは家族を持つどころか、長く生きた中でセックスを体験したことのない、童貞だった。なぜこうなってしまったのか、とトシオは朦朧とした視界と思考の中考えた。学生時代、トシオは日陰者として過ごした。少ない友達と室内でばかり遊び、女の友達など一人もできないまま社会人になった。社会人になって風俗にでも行けば、童貞を捨て、女を体験することができただろう。

 

 しかし、トシオはそうしなかった。普通の恋愛にまだ未練があったし、そういうところに行って童貞を捨てるのは、なんだか負けたような気もするし、もったいないような気もするし、お金もかかるし、なんだか怖いし、初めてだと馬鹿にされそうだし、あとは、病気になったら大変だから。そんなふうに、トシオはなにかと理由をつけて風俗に行くことをしなかった。


 いつかきっと、自分のことを好きになってくれる女性が現れる、と薄ぼんやりとした希望を持ちながら。トシオは受け身という名の怠慢の下、人付き合いをよくするということもなく、学生時代と変わらずごく小さなコミュニティで生きた。人間関係で苦労することはなかったが、女友達だけはできなかった。定年を迎え、ろくに使ってこなかった貯金を崩してただ生きた。路傍の植物のように、ただ生きた。そうしてトシオはここにいる。一度もセックスを知らず、寝たきりになって、ここにいる。


 半生を振り返り、大きな波がトシオを襲った。後悔という、とても大きな波だ。それは二十歳前後のころからトシオを襲うようになった。最初は焦りとか、そういったものも含まれていたが、今では純粋な後悔となっていた。「なんでもっと積極的に、いろんなことをしてこなかったのだろうか」。小さなコミュニティの他の面々は、学生時代こそ同じようにパッとしなかったが、社会人になってからはちゃんと家庭を作っていた。なんで俺だけ、こんなみじめで、一人でこんなところにいるのだろうか。もっと若い時に、なんで、もっと……。二十歳の時はまだまだやれると思っていた。いや、ずっと、まだいける、まだチャンスはあると考えてこの、涙腺や全身の毛を揺さぶる焦燥の波を、押しやってきた。しかし、今や完全に動くことができない。もう、本当に、チャンスがないのだ。ここが、逃げて逃げて逃げて、逃げ切った最後の袋小路、行き止まり、最終地点。


 ぞわり、と全身の毛が逆立つのを感じた。冷たい涙が溢れてくる。息が乱れる。焦りが手の平を湿らせる。怖い。このまま死ぬのが。やり残したことが、ある。一度も女を抱かずに死ぬ。あの柔らかそうな感触を知らずに逝くのだ。嫌だ。キスだってしたこともないのに。カチリ、カチリ、と時計の針が進む音がする。深夜十二時が目前になる。もうすぐ百歳になる。トシオは死期を悟った。もう一刻の猶予もない。この感覚は久しぶりだった。試験終了間際に答えが分かって、書き込み終わるまでの、あの感覚。膀胱に力が入る。


 カッ、カッと音がする。ナースの巡回だ。トシオは今になってやっと、なにもかもを捨てる覚悟ができた。いくら女に飢えても犯罪にだけは手を染めなかったトシオが、今、我慢を捨てる覚悟をした。若いナースがトシオの傍を通る。ナース服越しに分かる、張りのある体。性欲が頂点に達したトシオにとって、もはや裸同然に見えた。ナースがトシオに背を向ける。ふっくらとした盛り上がりが左右に揺れる。トシオのトシオもふっくらする。ティーンエイジャーの朝立ちにも負けない屹立だった。力が漲るのを感じた。さっきまでろくに動かなかった腕が動く。今ならあの魅惑の丘に手が届く。こうしなければ死んでも死にきれないのだ……。しかし、無情にもトシオの手は空を切った。ナースか靴底を鳴らし、お尻を振りながら去っていく。ああ、いままで決して犯罪行為にだけは手を伸ばさなかった潔白で純真無垢な手だというのに、どれだけ伸ばしてもあの桃尻には届かないのか……。


 しかしトシオは諦めるわけにいかなかった。今度は声を出し、ナースを呼び止めようとする。が、声が出ない。もう何日も声を出していなかったので、口が動かないし、喉から空気が出てこない。しかしトシオは諦めない。霧がかかった頭の中は、冷たく引き締まるような風が吹いていた。トシオはナースコールを押した。すぐそばにいたナースは当然、トシオの方へやってくる。


「どうかしましたか……?」


トシオは今度こそその体に触れようとするが、ナースはその手の届かない位置にいる。声は掠れた音しか出ない。八方ふさがりだ。カチリカチリと時を刻む音がする。トシオは冴えていた。手が動くのだから、ジェスチャーでこの溢れそうな思いを伝えればいいのだ。ストレートに、この熱い思いを。トシオは、左手で輪を形作り、その中に右手の人差し指を抜き差しした。トシオの思いが伝わり、ナースはにっこりと天使の微笑みでトシオの方へ歩いてきて、容赦ないビンタをかました、と同時に、カチリ。時計の針が日の変わりを告げる。トシオは百歳になった。


 するとどうだろう。トシオは、体に力が漲ってくるのを感じた。その力とは若さだった。若さは、叩かれた頬から、全身を駆け巡った。少量の若さだったが、トシオの体は死にかけの状態から、起き上がれるまでになった。トシオはギラギラとした目をナースに向けた。それは雄が雌を見る、下品で野生に満ちた目だった。ナースは短い悲鳴をあげ後ずさった。さっきトシオをぶった右手を見ると、みずみずしい肌が、朝を迎えたシーツのようにしわしわになっていた。トシオは隣のベッドで寝る老人に近づくと、老人の腕を掴んだ。すると、老人がみるみる干からびていき、反対にトシオの容貌は若さを取り戻していった。しかしまだまだじじいのままだ。老人の若さでは、足りない。トシオは改めてナースを見た。今度は雌を見る目ではない、捕食する獲物を見る目だ。


「い、いや…」


 トシオはナースのたわわな胸を鷲掴みにした。母親以外の女性の胸を触るのは初めてだった。固い布越しに、長年空想のものだった感触がある。トシオの興奮は絶頂だった。しかし、本当に望んだものは、ない。若さが流れてこない。トシオはもみもみと指を動かしてみる。ナースは艶っぽい声を漏らした。しかし、柔らかいだけだ。


「……腕じゃないとだめなのか?」


トシオはナースの胸を離し、腕を掴んだ。


「ああああああああああああ!!!」


ナースが悲鳴を上げる。若さが、今度こそトシオに流れていく。ナースは老け、トシオは初老のおじさんぐらいにまで若返った。


「は、ははは!はははは!俺は、吸血鬼にでもなったのか!若さを取り戻したぞ、なんとも不思議な能力で!ははは!さて……」


 トシオはすっかり絶望しへたり込んだナースに目を向けた。先ほどまでの熱いリビドーを、トシオは忘れたわけではなかった。むしろ、若返った分、トシオの竿はより成長していた。涙目のナースがそこにいる。老けたとはいえ、まだトシオから見れば若く、美しい、魅惑の果実だった。トシオはナース服の前に手をかけ、一気に引き裂いた。老いてたるんだ巨乳が露わになり、合わなくなった下着がずれていて、童貞をこじらせすぎたトシオには刺激が強すぎた。トシオは限界だった。死に瀕したとき暴れだした生の欲求が、今やすべて性の欲求へと変換されている。もう十分待った。待ち過ぎたのだ。トシオは果肉に手を伸ばした。しかし。今度は若さが逆流、ナースに吸い取られていく。


「ぐ、ぐおおおお!?」


 戻りきる前にトシオはナースから手を離した。どういうことだ、一体。


 トシオは部屋から出た。俺は百歳になって謎の力を得た。まずはこの力の謎を解き明かさねばならぬ。トシオは病院を脱出し、闇に消えた。


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