産婦人科におけるダンナの歴史を塗り替えないために。
その日は、朝から誰彼となくソワソワしていた。チェリーまでもが、いつもの楽天的な性格からはとても想像がつかないような、妙に落ち着かない犬になっていた。
まるで獲物の匂いを嗅ぐブラッドハウンドだ、と言いたいところだが、チェリーの性格上、床の匂いを嗅いでいても、ただ嗅いでいるというだけで、特に何か理由があるというわけではない、と僕は個人的に推測していた。
犬の出産の兆候は、毎朝きっちりと基礎体温をつけることで知ることができる。
熱帯魚の世話をするのが精一杯である僕にしてみれば、信じられないような話だったが、それを仕事にしている義母たちは、毎朝欠かさず、体温計をメープルの尻に突っ込んでいた。
メープルの基礎体温は、だいだい三十八度から三十八度五分の間だ。いよいよ出産となると、この体温がいきなり三十七度まで下がり、それからゆっくりと上がっていく。
これが出産の兆候で、これが現れると一両日中には出産が始まるものだということだ。
義母は落ち着かない様子で獣医と電話で話をしたり、メープルの傍に膝をついて彼女の腹部を触診したり、頻繁に股間を覗き込んだり、とにかく頭の中はメープルで一杯の様子だった。
メープルはと言えば、いつもにも増して義母の傍から離れたがらないように見えた。
暇さえあれば、何かしらイタズラしているチェリーとは違い、義母がいれば、メープルは必ずその傍に寄り添い、その顔を見上げながら、どこへでも付いて回る。
夕食の支度をしている義母の横に後ろ足で立ち上がり、料理を覚えようとする娘のように、その手元に真剣に視線を注いでいるメープルの後姿は、なかなか印象的であった。
後に、メープルはただ夕食のおこぼれを狙っていただけだと分かったが、その姿はまるで親子のようだった。
義母は携帯電話を片手に、メープルを撫でながら、今度は自分の店に連絡して従業員と思しき相手に指示を送っていた。
もともと忙しい人だ。メープルの出産という一日がかりの仕事が舞い込めば、義母も、義母の職場も一気に慌しくなる。
残念ながら、僕はそこで出勤の時間が来てしまった。僕は多少なりとも不安に思いながら、いつも通り職場に向かった。
メープルの出産については、僕には特にするべきことも、できることも無いに等しい。
ただ、人間と犬の違いこそあれ、メープルの出産に立ち会うことで、小百合の出産の際にパニックに陥ることを防げるのではないかと、密かに期待していた。
周囲にいる既婚男性たちの話によれば、嫁の出産という一大イベントで「やらかして」しまった夫は、意外にも世の中に数多いという。
誰もが皆、僕個人とは全く関係ない「XXさんから」聞いた話なんだが、という前置きの元で語ってくれるのだが、その中でも最もよく聞く話が「ぶっ倒れる」であった。
今現在であれば「現実の誰かから聞いた話」ではなく「ネットで見聞きした話」ということになるのだろう。かつては今ほどネットが身近ではなかった。時の流れを感じてしまう。
ところで、昨今の日本における「日本男児」がどのようなイメージを持たれているのかは分からないが、僕個人は、血が苦手だ。
男のくせに、などと僕が子供時代には言われていたものだが、苦手なものは苦手なのだから仕方がない。
映画やドラマなどで、明らかに血糊だと分かるシーンであっても、その場を逃げ出したくなる。仮に本物の血を……それも小百合の血を大量に……見てしまった日には、自分がどういう結果になるか、嫌でも想像がつくわけだ。
子供のころ、調子に乗って自転車を走らせていて、思い切り電柱にぶつかったことがある。怪我そのものは大したことがなかった。
せいぜい、手足などを擦り剥いた程度のことだったが、流れている血を目の当たりにして、僕は気絶した。
更に良くないことに、一緒にいた友人が悪かった。普通に付き合う分には気のいいヤツなのだが、自分の血を見て気絶した僕を見て、友人は完全に理性を失った。
パニックに陥った友人は「僕が死んだ」と表現した。しかも、悪いことは続くもので、友人がその事実ではない事実を、真っ先に伝えたのが、通りすがりの老人(戦争経験者)だった。
老人は、血を流して道路に倒れている僕を見て、友人の言葉を疑いもせず、信じてしまった。
しかし、もともと大した怪我でもないのだ。僕はあっさりと意識を取り戻し、起き上がった。僕が起き上がった時、老人がどういう反応をしたかは、想像に難しくないのではないだろうか。
後にも先にも、真顔で「死人返り!」と呼ばれ、杖で叩かれそうになったのはその一回きりであった。
どちらかと言えば、杖を銃剣のように構えていた老人の方が死人返りと呼ばれるにふさわしい容姿をしていたように思うが、僕は、小学校を卒業するまで、二度とその道を通ることができなかった。
そんな過去の武勇伝がある以上、僕はまず間違いなく、分娩室で「やらかした」夫たちの仲間入りを果たすことが目に見えている。
立会い出産。
女性が聞くと、魅力的な出産のオプションに見えるらしいこの言葉が、ここ最近、僕の中では悩みの種として巣食っていた。
はっきり言ってしまうと、怖い。何が具体的にどう怖いという具体的なイメージはまるでなかったのだが、漠然とただ「怖い」と思いながら日々を過ごしていた。
もちろん、小百合は僕を分娩室に引きずり込む気でいた。何が何でも連れて行くというよりは、それ以外の選択肢など始めから存在していないかのようでさえあった。
実際に見たことなどないが、出産と言えば嫁が「痛い」「苦しい」と泣き叫んでいるイメージだ。
事実、小百合も出産に関してかなり恐怖を抱いているように見えた。
苦しんでいる小百合の傍に僕が付き添い、いったい何ができるというのか。せいぜい自分も一緒になって悲鳴をあげているのがオチだ。
それに、旦那が気絶した、分娩室から逃亡した、などのよくあるパターンを踏襲するだけならいざ知らず、自分が産婦人科の分娩室における旦那の歴史に新たな症例を書き加える可能性だってある。
それは、さすがの僕も躊躇する。
人生の中でも一位、二位を争う巨大なイベントの際に、小百合が夫である僕に付き添って欲しいと言ってくれることは、そのこと自体は悪い気がしない。
むしろ、夫として、あるいは男として頼られているようで嬉しい。しかし、緊迫した状況の中でクールに振舞える自信など、僕にはまるで無かった。
昔から、犬は安産だと聞く。
だからこそ、人間の女性も妊娠の際には、その安産力にあやかるために「戌の日」などと言ったイベントを設定している。
大型犬とはいえ、メープルも犬だ。僕が仕事を終えるころには、きっともう出産を終えて、いかにも母親らしい流し目を子犬たちに注いでいることだろう。僕は呑気にそんなことを考えていた。
しかし、現実は違った。
僕が会社から帰宅しても、メープルはまだ子犬を腹の中に宿したままだった。
「まだ生まれてないんですか?」
驚いて聞くと、義母は「当たり前よお」と答えた。
「そんな簡単に赤ちゃん生まれるなら、人間も犬も苦労せんわ」
そりゃそうだ、などと思いつつ、僕はいつも通りテレビの前に腰をおろした。背後で義母たちがメープルを間に挟んでバタバタやっているが、僕とチェリーはテレビ画面に分厚いステーキが映った瞬間、そちらに目を奪われてしまっていた。
「ねえっ、聞いてるっ?」
いきなり小百合に声をかけられ、僕ははっとした。
「ごめん、なに?」
慌てて聞き返す。まさかテレビの中のステーキに夢中になっていたとは言えない雰囲気だった。
「兄ちゃんがな、ノロにやられたんよ」
小百合の言う「兄ちゃん」とは、もちろん僕が言うところのロッキーのことだ。
「昔から兄ちゃん、胃腸が弱いんやけん。子供が幼稚園でノロを貰って来たら、すぐ移ったみたいでさあ」
ロッキーは胃腸が弱い、という情報は初めて知った。そう言われてみれば思い当たる節が無きにしもあらずだ。
家族で回転寿司に行った日には、ひとりで三十皿は食べるが、その後必ずトイレとリビングを往復している。なにかと「腹が痛い」と言い、トイレに行く回数が多い。
なぜか、パズルのピースがピタリとはまったような気分だった。
「もしかしたらな、メープルの出産、夜までかかるかもしれんのよ。無事に生まれたらええけど、そうならんかったら病院まで連れて行ってやらないけんの」
「そういうこと、あるの?」
「あるよお。けっこうある! 帝王切開とか普通よお。で、おかんとうちはメープルに付いてるけん。車を出して欲しい」
犬にも帝王切開があるのか、などと思うと少し驚いた。犬好きの人には顰蹙を買ってしまうかもしれないが、僕は本当に、犬は安産で当たり前の動物だと思っていたのだ。
「いいよ。分かった」
僕が言えば、小百合は嬉しそうに笑った。その笑顔に満足する僕は、つくづく小百合の奴隷だな、などと思ってしまうのであった。
それは、夜に起こった。