スッキリするところが違う。
つわり、というものがどんなものなのか、僕は自分が経験したことがないから分からない。
しかし、義母に言わせてみれば「乗り物酔い」あるいは「二日酔い」と似たような感じだという。ひたすら気持ちが悪い。胃の辺りがムカムカする。頭痛がひどい。体が重い。そんな状態が昼夜関係なく、三ヶ月以上続くのだとか。
たいていの人は、妊娠五ヶ月目、つまり安定期と呼ばれる時期に入れば収まるものらしいが、人によっては、子供が生まれるその日までつわりに苦しめられるらしい。
日々重くなるつわりのせいで、小百合は寝込んでいることが多くなった。この一ヶ月で、僕の一年分を合わせただけの時間、彼女はトイレに籠もっている気がする。
僕は二次元さんやジュリアナにアドバイスされつつ、なるべく小百合と一緒に過ごす時間を取るようにしていた。
時には邪険にされ、時には泣きつかれ、時にはやたらハイテンションで喋りまくる。話に聞いていた通り、つわりの時期はいつもにも増して、精神的に不安定になっているようだった。
「いくら、あっち行ってって言われてもな。それは本心やなかったりするんよ。だから、あっちに行けって言われても、簡単に逃げたら駄目よ。こういう時こそ男を見せないと!」
ジュリアナに言われ、小百合が懇願するように「あっちに行って」と言って来ても、僕は男の意地でその場に留まり続けたことがある。
その結果、三度ばかり小百合のオナラの音を聞いた。ケースバイケース、という言葉を、僕は身をもって学んだのだった。
妊娠三ヶ月目。小百合はまだまだつわりの真っ最中だったが、同じく妊婦であるメープルは、いよいよ出産の時期が近付いていた。どちらかと言えばスマートな犬であったメープルだが、臨月を迎えた腹は大きく膨れ上がり、僕のような素人目に見ても、はっきり腹に子供がいるということが分かるほどだった。
「梅干のソーメンしか食べれんー。ソーメンー、ソーメンー」
小百合は日々、同じ言葉を繰り返し、ちょこちょことソーメンを口にしていたが、早々につわりの時期を終えたメープルは、チェリーが呆気に取られるほど、旺盛な食欲を見せていた。
「母犬が妊娠中にしっかり栄養を取っていなかったら、後々、子犬の成長に影響が出るんよ」
義母はそう言いながら、メープルのためにしっかりとカロリー計算をし、バランスの取れた食事を手作りしてやったり、市販の犬用ビタミン剤などを与えたりしていた。
妊娠期間中は、万が一にも風呂場で滑ったりすることが無いようにシャンプーは控える。ハスキーはもともとほとんど体臭のない犬だからそれで問題はないのだが、それでも義母はこまめに蒸しタオルで体を拭いてやり、マッサージを兼ねたブラッシングをし、メープルがフローリングの床で滑って転ばないようにマットを敷き詰めていた。
余談だが、犬にもつわりがあるということを、僕はメープルから教えられた。義母の触診により、早くから妊娠は分かっていたのだが、メープルの妊娠が獣医による超音波検査でいよいよ確実になったころ、メープルはそれまで大好きだった値段の張る缶詰をほとんど受け付けなくなった。
代わりに、やたらドライフードばかり食べるようになり、時には食べたものを一気に吐き戻すこともあった。
嘔吐するとき、たいていメープルはフローリングではなくソファかカーペットの上を選んでいた。僕なら半狂乱になっていたかもしれない状況であるが、義母は顔色ひとつ変えずに嘔吐物を始末し、時間をかけて拭き掃除をしていた。
臨月を迎えたメープルは、それまでの素早い身のこなしが嘘のように、のんびりと動くことが多くなった。毎日のように、家の中を駆け回るハスキーに手を焼かされていた僕としては、大人しくじっとしているハスキーが珍しくて仕方なかった。
相変わらず、チェリーはハスキーならではの天真爛漫さを失っておらず、日々バッタを追いかけ、ボールを齧りまくり、僕の服をタンスから引きずり出しては涎と毛でコーティングし、ところどころ穴を開けて斬新なファッションに仕立てあげてくれていた。
メープルはともかく、チェリーには散歩が欠かせない。よく言えばイタズラ好き、悪く言えば破壊行為と無駄吠えの専門家であるハスキーを、少しでもコントロールするためには、とにかく疲れさせることが効果的だと嫌でも学んでいる。僕は、休日など、率先して彼の散歩を引き受けていた。
田舎の広大な田んぼの真ん中で、僕はいつも通り、使い古しのボールを投げてやった。長いリードに繋がれてはいるが、飛んでいくボールを見た瞬間、チェリーは猛然と走り出す。そして、見事にボールに追いつき、口に咥えた。
だが、彼は決してボールを僕の元へ持ち帰って来ようとはしない。ボールを咥えたまま、チェリーは田んぼの中を走り回り、飛び回り、思うがまま転げまわっていた。
そして、田んぼに撒かれた藁の間から、僅かに顔を出している地面を見つけた瞬間、彼の頭の中からボールの存在が綺麗さっぱり消え失せる。
先ほどまで、地球に隕石が落ちてきても決して離すまいという意気込みで咥えていたボールをあっさりと放り出し、彼は猛然と田んぼを掘り返し始めた。
人間もハスキーのように、精神を解き放ってとことん馬鹿になれたら、どれほど幸せだろうか。くだらない考えだが、その時の僕には非常に魅力的な考えに映った。
まるで宝物でも見つけたように必死で泥遊びに高じるチェリーには、これから父親になろうとする者に否応なしに科せられる覚悟のようなものは微塵も感じられなかった。
「お前、そんなんで大丈夫か?」
見事な毛並みを泥だらけにしているチェリーに聞いてみたが、土を掘り返すことに忙しい彼は振り向きもしなかった。
「もし俺がお前みたいに自分の遊びばかり優先させていたら、まず間違いなく世間から白い目で見られるよ」
無論、チェリーは犬で僕は人間だ。人間と犬とを同列に比べるべきではないと分かっているのだが、なぜかその時はそんなことを言いたい気分だったのだ。
「お前も、もうじき父親になる。俺も、もうじき父親になる。いまいち実感が湧かないよな。そう思わないか?」
その瞬間、チェリーに思い切り土をかけられた。潔癖症の僕は、どんな細菌が潜んでいるともしれない土を頭からかけられたことで、恐怖さえ覚えたのだが、土を掘り起こすのに夢中である彼は、僕に土がかかったことなど、気付いてもいないようだった。
当たり前であるが、チェリーに言うだけ無駄なのだ。主人が悩んでいるとき、夕陽を浴びながら、ただ傍に寄り添って遠くを眺めている犬……など、映画の中だけの話だ。訓練された犬だけの話だ。
現実は、人間が勝手に悩んでいて、その横でハスキーはひたすら田んぼを掘り起こしている。そんなものだ。
僕は溜め息をつき、夕焼けの中の耕運機ハスキーを見やった。チェリーはまるで悩んでいる様子はないが、僕はやはり、自分自身が親になるという実感がほとんど湧かないことに、むしろ戸惑いのようなものを覚えていた。
妊娠が原因で日々つわりに苦しめられている小百合とは違い、僕の体には何ら変化はない。気持ちが不安定になるようなこともない。何も変わらない。変わっていない。
朝起きて朝食を食べ、会社に行き、仕事をこなし、残業をこなす。子供が小百合の腹にいてもいなくても、会社に行けば僕がやらなければならない仕事があるのだ。
そして世の中の既婚男性たちが少なからず思うことではあるだろうが、仕事をしなければ給料がもらえないし、給料が無ければ、子供を育てていくのは難しいのだ。
たまに早く帰れた日は、なるべく小百合に付き添い、あるいは彼女に喜んでもらうために犬の世話をすることにしていた。彼女の傍にいれば、嫌でも実感が湧くかもしれないと思ったからだ。
ジュリアナと二次元さんにも、そうした方がいいと言われていた。僕は毎日のように小百合のたわいないお喋りを聞き、相変わらず実感が湧かないでいたお腹の子の様子など聞いてみたりしていた。
僕はなるべく真剣に、小百合の話を聞いた。たとえそれが、会ったこともない小百合の友人の、十日ぶりの排便の話であったとしても、非常に努力して真剣に話を聞くように気をつけていた。しかし、
「無理に聞かなくてもいいっ!」
と、小百合は、逆に機嫌を損ねてしまうことが多々あった。
女性は男に比べて、他人の表情からその心理状態を読むことが得意であるとされている。僕にはとても出来ないことだが、相手のちょっとした視線の動きからでも、相手の本心を読み取ることができるらしい。
特に、妊娠中の女性はその傾向が数百倍にも膨れ上がるのだとか。これは物が言えない赤子を育てるために、嫌でも鋭くならざるを得ない能力のひとつだと聞いたことがある。
赤子にとっては非常にありがたい能力なのかもしれないが、僕にとっては単なる脅威でしかなかった。
おかげで、僕が本当は、小百合の友人が十日ぶりに排便できたという話に、全く興味を覚えていないことがバレてしまった。
その後、僕はその場をどうやって言い繕ったらよいものか、必死に考えなければならないはめになった。
ジュリアナと二次元さんからのアドバイスによれば、妊娠中の小百合には、僕が
「子供が生まれるという実感が持てないでいる」という悩みを持っていることを、話さない方がいいということだった。
つわりで大変な時期に、旦那である僕が「子供がいるような気がしない」という意味の言葉を言ってしまうと、妻はひどく傷付いてしまうらしい。
しかし、その部分を除いてしまうと、なぜ僕が必死で小百合の傍にいようとするのか、その部分が意味不明になってしまう。言葉に詰まった僕を見て、小百合はより一層、機嫌を損ねてしまう。
「会ったことがない人だから、どうしても興味が……」
ようやくそんな言い訳を口にした時にはすでに遅く、小百合に部屋から出て行ってくれと言われてしまったのだった。
そこで部屋から出て行くべきかどうかは状況による。このときは、僕は部屋に留まった。僕に背を向けて涙を流し始めてしまった小百合を、僕は必死で慰めた。
ああでもない、こうでもない、と、涙を流しながら、小百合はとりとめも無いままに、思ったことを思ったまま口にしていた。
要約すると、つわりが辛い、母親になることが不安、子供が無事に生まれてくるか心配、出産が怖い。このような意味であった。
一通り語り終えると満足するのか、小百合はなぜ自分が泣いていたのか分からないといった顔でテレビを見始めたり、今は懐かしきガラケーで友人とメールのやり取りを始めたりする。
彼女がスッキリして良かったと、僕はそう思うようにしていた。
それにしても、小百合がスッキリするきっかけを作ったのが、彼女の友人による十日ぶりの排便だったというのは、何とも皮肉な話ではないだろうか。
基本的に、この時期の小百合は、寝ていることがほとんどだった。ただ、例外もあった。
ある日、僕が夕食を終え、風呂を済ませ、のんびりとテレビを見ている時、突然、二階にいる小百合の悲鳴が聞こえてきた。
その場には、小百合を除く家族全員が集合していた。僕らは一瞬、互いの顔を見合わせ、一目散に二階へ向かって駆け出して行った。
義母は「110」と入力したケータイを持っていた。ロッキーはモップを、影さんと僕は本人の体のみを、義父はトラックの鍵をそれぞれ持って、僕らの寝室に向かった。
何事か、と顔色を変えた僕らは一斉に聞いた。すると、布団を捲り上げてベッドの下を覗いていた小百合は、恐怖を顔に張りつかせながら、
「でっかい蜘蛛が出たっ!」
と答えた。駆けつけた家族は、それぞれ顔を見合わせ「なんだ蜘蛛か」と、蜘蛛の子を散らしたようにリビングへと引き返していったのだった。
しかし、ロッキーだけは違った。ロッキーはその厳つい見た目に似合わず、虫を始めとする「足がたくさん付いているもの」が苦手なのである。
このまま捕獲しなければ、いつ自分に部屋に侵入してくるか不安で、夜もおちおち眠れないというわけだ。
いったん一階へ引き返した彼だったが、二階へ戻ってきた時には手に火バサミを持っていた。兄と妹は、それから一時間近く、真剣な顔で「どこぉ? どこぉ?」と言いながら蜘蛛を探して部屋の中をウロウロしていた。
この時ばかりは、いつも小百合を苦しめていたつわりも、ナリを潜めていた。僕は二人に混じって大きな蜘蛛を探すふりをしながら、このまま彼女からつわりが消えて無くなってくれないものかと願っていた。
しかし、現実はなかなかうまくはいかない。小百合のつわりが終わるまで、それから一ヶ月以上は必要だった。その前に、メープルが出産を迎えた。