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美しく逞しい魚、ベタ。

「まったく、お前も災難だったなあ。まあ、こうして水替えしてもらってるわけだし、ちょっと堪忍しろよ」


 トラ三世に向かって語りかけながら、僕はひとり、庭で水槽の水替えに勤しんでいた。水槽の水をチェリーが半分近く飲み干してくれたおかげで、水槽は非常に軽かった。


 こうした事態に備えて、僕はいつでも水替えができるよう、水の用意だけは欠かしたことがなかった。


 トラ三世を別の容器に移動させ、庭の井戸の傍に腰を下ろし、水槽を洗う。ついでに、水槽の底に敷いているビー玉や底砂も、綺麗に洗っておいた。


 水草を刈り込み、流木の藻を洗い流し、水槽内の環境を整えてやってから、トラ三世を放してやる。


 僕はしばらく、綺麗になった水槽の中を泳ぐトラ三世をじっと眺めていた。たった一匹ずつとは言え、熱帯魚を飼うようになってすでに五年が経過していた。


 自他共に認める潔癖症で、あまり生き物に触れることが得意ではない僕にとって、それは驚異的な出来事だと言える。


 ベタはもともと頑丈で、逞しい魚だ。過酷な環境で生き抜くために、彼らは魚のくせに肺呼吸を身につけた。ジャンプ力も凄まじく、油断していると水槽から飛び出してしまう。


 そのおかげで、とう言うべきか、ベタは少々手抜きをしても死ぬことは無い。だからこそ、熱帯魚のショップなどでは、ベタはビニール袋に入れられ、縁日のヨーヨーのように投げ売りされている。


 とは言え、僕のようなオーナーのもとで、それぞれ二年近くも生きてくれる彼らに、改めて尊敬と感謝の念が湧いてくる思いだ。


 意匠を凝らした織物のような繊細で鮮やかな尾鰭を優雅に漂わせて泳ぐ、その姿。美しい見た目とは対照的に、攻撃的なその性格。過酷な環境でも生き抜いていける、その逞しさ。


 僕は何年経っても、ベタという魚に惹かれてやまない。


 水槽の仕上がり具合を確かめるために、目の高さに掲げてみる。ちょうど夕陽が差し込んで、底の青いビー玉や底砂に反射した。宝石のようだった。


 この世には、本当に綺麗なものがたくさんある。なぜかその時、そんなことを思った。


「お前だけだよ。俺の味方は」


 つい、そんなことを言ってしまう。トラ三世は特にこれといった反応も見せなかった。彼のこういうところが、僕は好きだ。


 我が家のハスキーたちも、性格はともかく、確かに美しい犬だ。


 血統書がついているとか、純血種であるとか、そういった理屈抜きに、大事に育てられ、しっかりと健康管理され、定期的にシャンプーしてもらい、プロにカットしてもらっている犬は、毛並みの美しさからして、やはり野良犬とは比べ物にならない。


 ガラス戸の向こうのリビングでは、ソファでぐったりしている小百合に二頭が寄り添っている。小百合が二頭の頭をそれぞれ撫でてやっていた。二頭は大人しく撫でられるままじっとしている。僕の前で見せる態度とは大違いだ。


 犬は賢い生き物だ。馬鹿だ阿呆だと言われるハスキーであるが、彼らも例外ではない。小百合がつわりで苦しんでいること、小百合が体の中で新しい命を守ろうとしていること、すべて分かっているのではないかとさえ思う。


「何やってるのー? 早く入っておいでやー」


 起き上がった小百合がノロノロとリビングを横切り、窓を開けて声をかけてきた。僕は頷いて、トラ三世を家の中に連れて入ることにした。


 いくら頑丈とはいえ、ベタは熱帯の魚なのだ。温めた水を入れても、ずっと外に置いておけば確実に水温が下がる。それは、トラの小さな体に負担を与えることになる。


 僕がリビングに入ると同時に、独特のエンジン音がして義父が戻って来た。いつものようにレックスが落ちつかない様子で動き回っている。


 台風が通過した後のような部屋のことを思うと、僕は胃が締め付けられるような思いだった。


 部屋を片付けようか悩んだのだが、同居しているとは言え、いや同居しているからこそ、プライベートな空間に手を出していいものかどうか悩んだのだ。


 僕だったら、いくら部屋を荒らしたのがチェリーとは言え、例えば影さんが、自分が知らない間に部屋に入って、散乱した小百合の下着を片付けたとなると、気分は良くない。


 僕の場合は小百合に対する単なる独占欲だが、義父がどう思うかは分からない。よって、部屋の片付けをするかどうかは、義父に聞いてからにしようと決めていた。


 ちなみに、ロッキーの部屋の後片付けは、二次元さんが早々に済ませてくれた。床に転がった大人のオモチャのことがある。当然、僕は手出しできなかった。


 しかし、二次元さんのことだから、こういった「荒らされた部屋」「偶然、人目に付くところに出てきた大人のオモチャ」というシチュエーションを、新たなネタとして扱うつもりでいると、僕は密かに推測、いや確信していた。


 そこが、ある意味では彼女の強みであり、長所であると僕は思う。たとえ現実世界でどんなに恥をかいても、すべてを二次元のための機動力に変える。やろうと思って、なかなかできることではない。


 義父がリビングに顔を出した。レックスはやはり力尽きていた。同じように、小百合もソファから窓まで歩いただけで力尽きていた。僕は、どうやって話を切り出そうかと、真剣に考え始めた。


「おとーん、チェリーがおとんたちの部屋で大暴れしたみたいー。めっちゃ散らかってるー」


 僕が何か言う前に、小百合が報告してくれた。


「ふうん、そうか」


 義父はそれ以上、何も言わなかった。僕に向かって片付けろとも、自分が片付けるとも言わない。どうするつもりなのだろうかと訝っていたが、僕には自分から聞きだす勇気が無かった。


 答えは、義母が仕事から帰って来てから出た。


「さっさと片付けて来んさいや」


 義父は、黙って部屋に上がって行った。

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