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そこは荒らしてはならぬ!

「子供が生まれたら、最初の半年は小百合ちゃんと子供を優先してあげた方がええよ」


 ある日、僕が早めに帰宅すると、ロッキーの妻が一人でキッチンに立っていた。つわり真っ最中の小百合はベッドから起き上がれず、他の家族はまだ帰宅していないようだった。


「まだ若いし、嫁の実家やし、人手はあるんやから、遊びに行きたい気持ちは分からんでもないけどね。出産後の半年は、赤ちゃんが生まれて嬉しいっていう以上に、本当に辛い時期でもあるんよ。そういう時期こそ、旦那は奥さんと子供に付き添ってあげるべきなんじゃないかと、私は思う」


 さっそくテレビと友達になろうとしている僕に向かって、ロッキーの妻はそんなアドバイスをくれた。我が家は、やたらアンテナがいっぱい立っているせいか、テレビだけはよく映る。


「半年ですか?」


 僕は聞き返した。


「そう、半年。できれば、一歳から二歳の間の一年間も。平均寿命が八十とすれば、あんたにはまだ五十年以上も時間があるやろ。五十年の中の、たった半年。それだけでいいから、小百合ちゃんと子供を、とにかく大事にしてあげや」


 その時は曖昧に頷いたものの、まだまだ子供が生まれるという実感がほとんど無かった僕としては、ロッキーの妻が伝えようとしていたことの意味を、いまいち分かりきっていなかった。


 小百合の体型はまだまだまるで変化もなかったし、つわりで苦しんでいるというのは分かるのだが、風邪を引いて体調を崩したときとの違いがはっきりとは分からない。


 新生児用品や幼児向けのオモチャが増えていくわけでもなく、リビングのテレビは相変わらず民放のチャンネルばかりを映していた。


 今までは景色の一部としての認識しかなかった親子連れが、やたら目に付くようにはなったが、通り過ぎていくだけの他人の姿と自分の未来が、うまく重なり合うことは稀だった。


 子供と小百合を優先した方がいいと言われたところで、具体的なことは何一つ浮かばない。とりあえず、産後の妻には気を使え、という程度の意味に受け取っておいた。


 ところで、ロッキーの妻は、三十代を超えているにも関わらず、可憐な容姿を維持し続けている貴重な女性だ。よほど近くで見なければ、薄化粧にも関わらず「美少女」という表現が非常によく当てはまる。


 ロボットアニメのヒロインが現実世界に抜け出してきたような、と言うべき容姿の持ち主だが、彼女の頭の中は実際に二次元に飛んでいることが多い。


 それも、ただの二次元ではない。ロッキーの妻は、いわゆる腐女子と呼ばれるご婦人だ。腐女子とは、男性同士の恋愛や性行為に情熱を燃やす女性たちのことを言う。


 そして、ロッキーの妻は、そういった書物を買い漁り、読むだけではなく、自らもかなりの量を制作している。可憐な見た目からは想像がつかないほど、その内容が過激であることを、僕は知っていた。


 なぜ知っているかというと、オフィス・ラブについて、あれこれと取材を受けたからである。ロッキー嫁の希望としては、登場人物はとりあえず「全員男性」で、「課長と部長が」、もしくは「上司と部下が」、というシチュエーションを聞きたがっていたのだが、残念ながら僕は男女のオフィス・ラブにおける実例(現実は、本人たちが思っているほど華々しくはない)しか提供することはできなかった。


 同性愛が間違っているとは思わないし、同性の恋愛を見て第三者が勝手に盛り上がることも、他人に迷惑をかけない限り、別にいいのではないかと思う。


 だが、どちらかと言わずとも異性愛者の僕に、同性愛を扱った書物の詳細な感想を求めるのは間違いではないだろうか。「どう思う?」と聞かれたところで、「いやぁ……」としか言い様がないのは許していただきたい。


 この人の頭の中で、ロッキーはいったい、どういう扱いを受けているのだろうかと不思議に思ったことがあるが、さすがに怖くて聞いたことはなかった。


 ちなみに、ロッキーはそういった妻の性癖を当然知っていて、そういったものすべてを許して、受け入れられる「俺という男!」という雰囲気に酔っているので、放っておいて問題ない。


「一服したら、小百合ちゃんのところに行ってあげや。妊娠中はただでさえ不安定になるし、ひとりだと余計なこと考えるから。分かった?」


 ロッキー嫁、僕が密かに二次元さんと呼んでいる女性は、日常生活においては非常に優秀な主婦であり、心優しい女性なのだが、お茶とお菓子を運んできてくれたその際に、


「ねえ、ところで、何か新しいネタある?」


などと聞いてくるから、少々面倒臭い。


「こないだの、佐藤さん(仮名)がインク切れで困っていた時、田中さん(仮名)がさりげなく替えのカートリッジがある場所を教えてあげてた、っていう話、良かったよ。ネットの反応も上々だったし。他に何かないの?」


 僕が知っている佐藤さん(仮名)は女性で、田中さん(仮名)は男性なのだが、二次元さんの頭の中では都合よく両方とも男性ということになっているのだろう。ちなみに、二人はそれから交際を始めたが、いつの間にか別れてしまったらしい。


 詳細は興味がないので聞いていない。隣のデスクに座っている同僚からチラリと聞いただけの話だ。


「ほかには……そうですね……今度、同僚にでも聞いてみます」


 僕は、そんな曖昧な台詞でなんとかその場を誤魔化した。早々に逃げ出すために、喉を火傷しそうになりながらお茶を飲み干し、二次元さんの手作りマドレーヌを、二口で胃に納めた。


 僕の傍でチェリーとメープルが、揃って涎を垂らさんばかりにマドレーヌを見つめていたが、人間の食べ物を犬に与えてはならないと小百合から繰り返し言われている僕は、心を鬼にして自分ひとりで食べた。


 確かに、二次元さんが作る洋菓子は美味い。甘いものが苦手な僕でも、平気で食べられるほど美味い。


 しかし、やはり人間と犬とは違う生き物なのだ。犬の健康を考えるなら、いくら美味いとは言え、人間の食べるものを考えなしに犬に食べさせるべきではないという小百合の意見に賛成だった。


 マドレーヌを食べ終わったところで、僕は腰を浮かせた。皿をシンクまで下げようと手を伸ばしたその瞬間、チェリーがさっと身を乗り出してきて、コーヒーテーブルの上に置いてあったマドレーヌの皿を咥え、全力で走り出してしまった。


 二次元さんが呆れたように僕を見る。僕は慌ててチェリーを追いかけた。しかし、元気が有り余っている年若きハスキーが、簡単に捕まるようなら誰も苦労はしないのだ。


 チェリーは、リビングを十周ほど駆け回り、ソファを背もたれごと飛び越え、そこで廊下に向かって走って行ってしまった。


 長い廊下を端から端まで一瞬で駆け抜け、ジャンプして器用にドアの取っ手を回すと、ロッキーと二次元さん、その息子のロッキー・ジュニア一号、二号が使っている部屋に入って行ってしまった。


 その時点で、僕は冷や汗をかいていた。何と言っても、僕は指先ひとつで人間を殺せるような秘術の使い手でもなければ、拳法の達人でもないのだ。


 ロッキーに火炎放射器を向けられ「汚物は消毒だ」と言われれば、大人しく丸焦げになるのを待つしかない。小百合の後ろに隠れてロッキーの怒りが通り過ぎるのを待つのは、さすがに情けなかった。


 頼むから何も壊さないでくれと祈る僕の心とは裏腹に、ロッキー一家の部屋に侵入したチェリーは、竜巻のごとく部屋の中を縦横無尽に駆け回り、ベッドの上を飛び跳ね、棚の上のものを床に落とし、布団を跳ね飛ばし、ベッド脇のチェストに体当たりして中身を床にぶちまけた。


 床に転がるコンドームや、大人のオモチャの類を見て、僕は閻魔大王の前に引きずり出された罪人のような気分になった。


 一方、チェリーは勝手に悔い改めている僕の股の間をあっさりと潜り抜け、逃げて行ってしまった。


 当然、それでチェリーの気が済むはずはない。今度は座敷の方へ猛然とダッシュしたかと思うと、仏壇の香炉を尻尾で払い落として灰を畳にぶちまけ、燭台を吹っ飛ばし、蝋燭と線香をばら撒き、座布団を蹴散らし、走っていく。


 僕の方をチラチラと振り返りながら全力で走るチェリーは、前方に迫る襖に気付かなかった。チェリーが頭から思い切り襖に突っ込んだせいで、襖は外れ、中心より少し下に巨大な窪みを出現させて、縁側に向かってゆっくりと倒れこんで行った。


「貴様、マドレーヌを食わせなかったくらいで、いくらなんでも、度が過ぎるぞ! いい加減にしろ!」


 犬に向かって本気で怒鳴っている自分を、おかしいとはまるで思わなかった。チェリーは相変わらず皿を咥えたまま、僕から十メートルばかり離れたところでこちらを振り返った。上半身を倒し、これ以上ないほど尻尾を振っている。


 完全に馬鹿にされている。認めたくはなかったが、ここまで明らかだと否定のしようがない。チェリーに怪我をさせてしまえば後から家族に何を言われるか分からないが、さすがの僕も頭にきていた。仕事が終わって帰って来たばかりだというのに。


 僕はチェリーに向かって駆け出した。その途端、畳で足が滑って見事にこけた。間の悪いことに、二次元さんに見られていた。口元を押さえて必死に笑いを堪える二次元さんを見ながら、僕は思い切りぶつけた上半身の痛みに耐える。


 そして何事もなかったかのように立ち上がり、再びチェリーを追いかけて走った。今度は、滑られないように気をつけた。


 廊下に飛び出したチェリーは、階段を駆け上がっていった。三段飛ばしで、文字通り彼は階段を飛ぶように登っていく。しかし、そろそろ三十代に差しかかろうかという僕は、日ごろの運動不足も重なって、一気に階段を登ると眩暈がした。


 頭がクラクラしている僕の鼓膜に、義父母の部屋を荒らしまわる物音が聞こえてきた。何とか息を整え、義父母の部屋に飛び込む。部屋そのものが、ゴミ箱の中身になっていた。


 床にはあらゆる衣類が散乱し、本はすべて床に落ち、布団が丸まった状態で放り出されている。カーテンははずれ、ところどころ破れ、パソコンのキーボードは宙ぶらりんになり、あらゆる雑貨が原型を無くした状態で無残に転がっている。


 ベッド脇にひっくり返っているゴミ箱の中から、使用済みのコンドームが覗いていた時には、本当にやりきれない気分になった。


 今日は水曜日。我が地区では、燃えるゴミは火曜日に出さなければならない。大家族にとっては、燃えるゴミの日を忘れると大事件になる。夕べここで起こったことを想像し、僕は落ち込んだ。


 見知らぬ他人の性行為であれば、興味津々で見てしまうというのに、ロッキーの部屋の時もそうだが、家族の性行為を目の当たりにすると勘弁してくれという気分になる。


 夫婦仲がいいのは、けっこうなことだ。けっこうなことだが、家族としては、それを見たくない。結果的に、見たくないものを目の前に差し出してきたチェリーに対する僕の怒りは、ついに沸点に達したわけだ。


 尻尾を激しく振りながら、今度は僕たちの寝室に向かって走っていくチェリーを、僕はジェイソンになった気分で追いかけた。チェーンソーの代わりに、どうにでもなれという投げやりな勇気を手に、僕はチェリーの名を呼びながら寝室に入った。


「もう、何やっとるんよお」


 ベッドには、心なし青い顔をした小百合が寝ていた。その手は、きちんとお座りしているチェリーを優しく撫でている。ベッドのシーツに、チェリーが咥えていた皿が置かれているのを見て、僕は一気に脱力した。


「そいつが皿を持って、家の中を逃げ回ったんだ。義兄さんの部屋と、義父さんたちの部屋をメチャクチャにされたよ。追いかけても捕まらないんだ。もう、どうしようもないよ」


 小百合は哀れっぽい顔で僕を見た。そして両手でチェリーの顔を挟み込むと、自分の顔を思い切り近づけ、怖い顔をした。


「こら、チェリー。悪いことしたのっ?」


 当然、チェリーは何も答えない。今にも走り出したくてウズウズしているのか、時折、前足を落ち着かない様子で動かすが、それでも小百合にされるまま、じっとその場に座っていた。


 そして小百合は、いつになく怖い顔でチェリーの名を呼ぶ。チェリーはじっと、次の言葉を待っていた。


「チェリー、キッチンに! キッチン!」


 小百合は、彼が掠め取った皿を鼻先に翳しながらそう言った。すると、チェリーはパクリと皿を咥え、僕には目もくれず、一目散に部屋から出て行った。


「駄目なことはちゃんと駄目だって教えないと駄目よ。犬だって、ちゃんと教えれば分かるんだから。甘やかしてたら、犬のためにもならないんだからね」


 小百合から食らったダメ出しが、僕の心に思い切りダメージを与えた。何となく居心地が悪く感じ、僕は早々に寝室を出ることにした。何より、チェリーが咥えて行った皿の行方が気になる。


 適当なことを言って寝室から出て、階段を下りる。途中、なぜ僕がダメ出しを食らわなければならないのかと、理不尽さが込み上げてきた。


 僕がいったい何をしたと言うのだ? 仕事から帰って来て、リビングで二次元さんが作ってくれたマドレーヌを食べ、火傷するほど熱い紅茶を飲んでいただけではないか。


 僕の隙をついて皿を掠め取って行ったのはチェリーであり、ロッキー家の部屋と義父母の部屋を盛大に荒らしたのもチェリーだ。


 いっそのこと、やつの名をチェリーからパイレーツに改名したらどうだろうかとその時、思った。やつはもうチェリー(童貞)ではないのだし、精力的に家の中を破壊して回る行為は、パイレーツの名にふさわしいのではないだろうか。


 そんなことを考えながらリビングに戻る。チェリーは、小百合に言われた通り、きちんと皿を二次元さんに返していた。僕の言うことは一切聞かないくせに、小百合の言うことはちゃんと聞くのだと思うと、余計にでも腹が立った。


 しかし、トラ三世の水槽から水をガブ飲みしているチェリーを見ると、なぜか何も言えなくなってしまったのだった。

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