交配は、重労働。(下ネタ注意)
十二月の、よく晴れた日曜日のことだった。
「さあ、やるよっ! しっかりねっ!」
悠々としているメープルと、まさしく初めてビデオ屋の成人向けコーナーに入ろうとしている男子高校生のように落ち着きが無いチェリーを引きつれ、義母は玄関へと向かって行った。
なぜ玄関なのか。その理由は後に判明することになる。
チェリーはこの日のために、やたら高級な生肉を夕食の度に出されていた。見ている僕の方が涎が出てくるような始末だったが、小百合と義母から「ダメよお。チェリーに精力つけてもらうためのお肉なんじゃけえね!」と言われ、ひとり落ち込んだ。
生きているうちに、一度は食べてみたいと思うような肉を、目の前でガツガツ食べられるのだ。それも、犬に。いろいろ理不尽だと思っていたが、居候の立場である以上、文句は言えなかった。
そんな裏事情もあり、僕は否応なしに浮かんでくるニヤニヤ笑いを抑えられないまま、義母の後に従って玄関に向かった。彼にチェリー(童貞)という名を付けたのは小百合だと聞いた。
人間と犬の違いこそあれど、同じ男として、もう少し名前には気を使ってやった方がよかったのではないだろうか、などと、ひたすらソワソワしているだけのチェリーを見て思った。
「かからんなあ」
容赦なくチェリーのムスコを覗き込みながら、義母は呆れた様子で言った。自分だったら耐えられない状況である。かからない、とは専門用語で、つまり「勃起してない」という意味だ。
どうするつもりなのだろう、と僕はボケッと見ていた。義母は何の戸惑いもなく、チェリーのムスコに手を伸ばし、慣れた手つきでごしごし擦り始めた。僕は、自分の目を疑った。
だが、動揺する僕とチェリーとは対照的に、義母もメープルもあっけらかんとしたものだった。
「よっしゃ、かかった! メープルこっちに連れて来てっ」
義母に言われ、僕は慌ててメープルのリードを引いた。義母に言われるまま、ハスキーの大きな体を四苦八苦しながら向きを変え、チェリーの方に尻を向けさせる。
玄関の向こうを、人間の子供たちの賑やかな笑い声が通り過ぎていった。スズメも鳴いていた。和やかな冬の朝だった。
チェリーも雄だ。発情した雌の尻が近付いてきて、黙っていられるはずはない。興奮した様子で、チェリーはメープルに圧し掛かろうと試みた。その瞬間、メープルが振り向き、チェリーを払い落とすと同時に鋭い声で吼えた。
メープルに吼えられたチェリーは、慌てた様子でその場を飛びのき、玄関の隅に逃げ込んでしまった。さすがチェリー(童貞)だ、などと思ったのは、その日の夜、布団に入ってからである。その時は、僕は無我夢中でチェリーを追いかけていた。
チェリーは、かなり辛そうに見えた。いったん勃ったものをそのままにしておく苦痛は、人間だろうと犬だろうと変わりないのだ。助けを求めるようにチェリーは僕を見てくるが、僕にいったいどうしろと言うのか。僕は、助けを求めて義母を見た。
「いいから、こっちに連れて来て!」
はっきり言われ、完全にビビリまくっているチェリーを促して、なんとかメープルのところへ連れて行こうと試みた。だが、ハスキーは何と言っても大型犬だ。
これが小型犬であれば、片手でひょいと抱えて移動させれば済む話なのだろうが、大型犬だとそうもいかない。本気でビビる大型犬の雄を、力付くでどうにかするのは、至難のわざだった。
これは、確かに女性ひとりでは辛い。義母に、交配の時は手を貸して欲しいと言われた意味が、ようやく納得できた。それはまるで、犬と格闘技でもしているような気分だった。
チェリーも本気だし、僕も本気だった。両者、共に最終目的は「メープルとの交尾」だというのに、なぜか玄関の中で綱引きのような状態になっていた。
ヤリたいのと怖いのが交じり合ってパニック状態のチェリーと、どうにかしてチェリーをメープルのところに連れて行きたい僕。汗だくになって取っ組み合いをしている僕らを、義母は辛抱強く、メープルはクソ虫でも見るような目で眺めながら待っていた。
「さあ、チェリー! 男になって来い!」
何とかメープルのところに連れて行った後で、僕は彼を励ます意味でそう言った。なぜか、義母に一瞬だが睨まれた。
「こっち来て、メープル押さえといて」
義母にそう言われ、僕は大人しくメープルの顔の方に回った。そして首のところに腕を回し、抱きつくような姿勢でチェリーがチェリー(童貞)を卒業する瞬間を「よし、来い!」とばかりに待った。
そしてチェリーは義母の助けを借りながらも、男になった。僕はほっとした。安堵のあまり、メープルの首に回していた腕の力が抜けてしまった。事件は、その時に起きた。
なんと、繋がった二頭がそのまま走り出してしまったのである。
当然、メープルを抑えていた僕は押し倒されたことになり、二頭は容赦なく僕を踏んづけて行ったわけだ。その時に見た光景は、お宝ものの無修正(海外版)アダルト・ビデオよりも強烈だったことは言うまでもない。
「犬はな、いったん交尾したら終わるまで離れんのよ。睾丸まで中に入るけん、抜けないんよ」
いつか聞いた義母の言葉が蘇った。実際、どういうプレイのつもりなのかは知らないが、挿入した状態のまま玄関の中をぐるぐる走っている二頭は、繋がったままだ。
我が家では玄関が最も狭い空間だ。この状態で部屋の中を走り回られたら、堪ったものではない。玄関が行為の場所に指定されている理由はこれだったのだ。
「ちょ、走って……! はし……っ! ええっ?」
しかし、現場の僕は、完全にパニックに陥っていた。まさか、交尾しながら走り回るものがこの世に存在するなど、夢にも思っていなかったのである。
サバンナのドキュメンタリー番組では、象だろうがガゼルだろうが、雄は当然のように雌に圧し掛かり、雌は雌で、すべて心得ていると言わんばかりの、余裕のある態度で雄を迎え入れている。
テレビ画面越しに見ている限りでは、スムーズに事が進み、スムーズに事は終わっている。僕は、動物の交尾とはそういうものだと思っていた。どうやら、そういった番組に出演するサバンナの動物たちは、かなりの熟練者が選ばれているらしい。
人間であれば「セックスがうまくいかなかった」という話はあちこちに転がっている。そういった話は、たいてい笑いと同情交じりに酒の席や仕事の休憩時間に話のネタにされることが多いが、僕は動物のセックスには失敗というパターンがあるということを知らなかったし、こんなに賑やかなものだとも想像さえしていなかった。
初心者がスムーズに事を運べないのは、人間も飼い犬も同じようだ。よく見知っている我が家の飼い犬二頭は、ゴソゴソと忙しなく玄関の中を動き周り、その横で僕が言葉にならない言葉を叫びながら右往左往し、そんな僕に向かって、義母が繰り返し指示を飛ばしていた。
犬は、人間ほど表情が作れない。おまけに、ハスキーはもともとあまり愛嬌のある顔立ちではない。一歩間違えれば「殺し屋かっ?」などと言われかねない強面の二頭が、無表情に交尾しながら玄関の中を走り回っているのである。
その光景を思い出す度に、しばらくの間、僕に笑いの神が降臨していた。笑いの神は、降臨の都度、僕の腹筋をさんざん苛め抜いて去っていったのだが、それはすべて事が終わってからの話だ。
走り回っている二頭を押さえろ、と義母に言われた僕は、半ば体当たりのような形でメープルの前方に回りこみ、素早く首根っこを押さえることに成功した。
「首を絞めないように気を付けて!」
慌てて手を緩める。
「だめ! しっかり掴まえとって!」
慌てて力を入れる。
「力入れすぎやって!」
慌てて緩めようとしたとき、メープルが再び走り出そうとした。僕は全力でその首にしがみ付いた。だが、雌とは言え、ハスキーの力はあなどれなかった。結局、僕は押し倒されるような形になってしまった。
だが、なけなしの根性を出してメープルの首は離さなかった。
僕は玄関に横たわり、天井と犬二匹の顔を見ていた。「俺はいったい何をしているんだろう」そんな、考えがチラリと頭の中を過ぎったが、深くは考えないことにした。考えてはならないことだと、心のどこかで警鐘が鳴っていたからだ。
そこで、いきなり玄関のドアが開いた。帰宅したのは、ハスキー顔負けの強面を誇る義兄であった。
世紀末覇者の取り巻きに混じって、火炎放射器を振り回し、「あべしィ!」と叫びながら、指先ひとつにやられて死んでいくタイプのキャラに非常によく似ている義兄を、僕は密かに「ロッキー」と名付けていた。もちろん「ロックな義兄さん」という意味からのロッキーである。
ロッキーのつぶらな瞳が見開かれたのを、僕は見た。実際、ロッキーの目に映っていたのは、夢中になって腰を振っているチェリーと共に、面倒臭そうな顔をしているメープルをサンドイッチしている僕の姿であったのだ。
確かに、何も知らずに帰宅して、玄関のドアを開けた先にそんな光景が広がっていたら、ロッキーでなくともそんな顔になるだろう。
「後で帰ってくるわ」
ロッキーは無表情にドアを閉め、そのままどこかに立ち去って行ってしまった。彼がこの時口にした、玄関ドアを開けて「後で帰る」という言葉、彼以外に使っている人を、僕はそれ以来、見たことも聞いたこともなかった。
ロッキーが逃走してしまったので、助っ人は見込めない。僕は覚悟を決めて起き上がり、行為が終わるのを待った。チェリー(童貞)のくせに長い、などと鬱陶しく思いながらも、辛抱強く待った。途中、メープルを気遣って頭を撫でてやると、鬱陶しい、喧しいとばかりに吼えられた。
「余計なことはせんでええよっ」
義母からも怒られた。僕は、少しばかり気分が落ち込んだが、表情と態度には出さないように気をつけた。これでも社会人十年目なのだ。本音を隠す術はそれなりに身に付けている自信がある。
「今日の夕飯、お刺身を出してあげるけん、そんな顔せんでや」
義母からそう言われて、僕は身の置き所に困った。どちらかと言えば、放っておいてもらい気分だった。
そうこうしているうちに、ついにチェリーがその名に秘められた暗黙の了承を卒業した。役目を終えてリビングへ去っていくその背は、心なしか男の威厳が漂っているような気がした。
リビングの床にオモチャのボールが転がっていた。チェリーはすぐにボールに夢中になり、床の上をゴロゴロと転がりながらボールと戯れ始めた。男の威厳は、一瞬で蒸発した。
しかし、ほっとしたのも束の間、我々の仕事はこれで終わりではなかった。
「メープルの頭、持って! ひっくり返すよっ! いいっ?」
「ええっ?」
僕は何が何だか分からず、義母に言われるままメープルの頭を持った。義母はメープルの両脚を一纏めにし、僕に号令をかけるなり、一気にメープルを逆さまにした。
「しっかり持っといて! まだ離したら駄目やけんな!」
僕は、あたふたと頷いた。メープルが顔を引っ掻いてくるが、義母から離すなと言われたので、僕は意地でも離さなかった。
要は、せっかくメープルの中にチェリーの種が入っても、流れ出てしまったら無駄になる。だから、種が流れ出ないように逆さまにして子宮の奥まできっちり入れてやろうということだ。
しかし、事情を知らない僕は、なぜ交尾を終えたばかりの犬に、噛みつかれそうになりながら、ひっくり返してしばらく持っておかなければならないのか、ただただ不思議であった。
そういえば、僕たち夫婦が子作りで悩んでいた時「子供が欲しいなら、出した後でしばらく逆立ちしとけばええんよ」とアドバイスをくれた人物がいた。小百合の実の姉で、僕が密かにジュリアナと呼んでいる女性だった。
バブルの象徴と言えば、ジュリアナである。妻の姉は、バブル世代ではないのだが、いろいろな意味でバブル全盛期の人間だ。よって、僕は密かにジュリアナと呼んでいた。
ジュリアナが真顔でそんなことを妻に吹き込んでくれたおかげで、僕は夫婦のささやかな至福の時を終えた直後、間髪入れずに「逆立ちするから、足を持ってっ! 早く、早く!」などという切羽詰った小百合の声で、現実世界に引き戻されるという日々が続いた。
「よおし、ええよ。お疲れさん」
義母がゆっくりメープルの足を床に下ろした。僕もゆっくりとメープルを離した。全身、メープルの毛だらけだったが、まるで自分が一戦終えたような、さわやかな気分であった。
その日の夜のことだった。どうでもいい話だが、僕は二頭が見せてくれた「交尾しながら走り回る」というアクロバットな行動を、人間で想像してしまい、興奮する代わりに死ぬほど笑ってしまった。
小百合と一緒に布団の中に入っている時のことだった。ひとりで笑い転げる僕を見て、小百合が何事かとしつこく聞いてくるので、僕が一部始終を話してやると、小百合も大爆笑していた。
おかげで、その日は夫婦生活どころではなくなった。