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ハスキーは、実は馬鹿じゃないんです。たぶん。

 僕と小百合が結婚したのは、今から六年前のことだった。友人の紹介で出会い、今現在は四歳と三歳になる息子もいる。


 誰だったか、潔癖症の男はセックスができない、などと茶化してきた人がいたが、息子たち二人の存在が僕の雄としての能力を証明している。


 確かに、僕は一般的な日本人男性に比べて神経過敏になっているところがある。それは認める。だが、それとこれは話が別なのである。汚いものは汚い。


 だが、そういう考えを自分の嫁に持ち込んだことは一度たりとも無い。そもそも、配偶者にそういう目を向けるような男であれば、結婚などできないはずだ。


 ところで、戸籍上は小百合が僕の籍に入ったことになっているのだが、実際の生活は小百合の実家で、彼女の両親、兄夫婦、姉夫婦と同居している。


 兄夫婦のところの子供が二人で、姉夫婦のところも二人だ。全員集まると、それはそれは凄まじい騒ぎになる。


 なぜ同居かと言うと、経済的な事情というのが専らだ。新婚当初はアパートを借りようかという話になっていたのだが「うちの家族、細かいこと気にせんから大丈夫よお」という小百合の一言に心が揺らめき、新築のための頭金を貯めるまでという期限付きで、同居させてもらうことにした。


 もちろん、その時にはまさか兄夫婦、姉夫婦までもが同居しているとは思っていなかったのだが、気が付いた時には、僕は大家族の一員になっていた。


 世の中には、配偶者の両親、兄弟らとの同居に関して背筋が凍るような恐ろしい確執話がゴロゴロ転がっているものだが、不思議と我が家は問題らしい問題が一度も起きていない。


 小百合の母、僕から見れば義理の母と、小百合の兄の嫁も、なぜかうまく行っている。義母が嫌味のようなものを言っているのを聞いたこともないし、嫁の兄嫁が文句を垂れているのも聞いたことがない。


 家族全員、合わせて十四人。会社で家族構成などを聞かれた際には、必ずと言っていいほど「十四人?」と聞き返される。ネットにアップされた際には、必ず語尾に「(笑)」というマークが付け足されること間違いなしと確信している。


 僕らは何をするにも、たいてい十四人で固まって動く。ファミレスに入るときも、十四人。買い物に出るときも、十四人。それぞれの用があるときは別だし、誰も強制しないのだが、なぜか「買い物に行くよ」などと声がかかると、ゾロゾロと全員が腰をあげるから不思議だ。


 子供のころ「十四匹の~」という絵本がとても好きで、よく読んでいたことを未だに覚えているが、まさか大人になった自分が十四匹を十四人で体現することになるとは思いも寄らなかった。


 十四人が暮らすとなると、家の大きさもそれなりに必要になってくる。しかし、幸いなことに田舎なので、敷地面積は全く問題なかった。それに、母屋そのものも、もともとかなりの広さがあった。


 更に、僕と小百合が同居すると決まったとき、義父が納屋を改築したので、更に広くなった。それでも、不思議と誰も二世帯住宅、三世帯住宅にしようと言い出さなかった。


 僕自身は、両親と姉の四人家族だった。田舎は田舎だが、手を伸ばせば隣の家の屋根が触れるような狭苦しい住宅地に住んでいたので、大家族で大きな家に住むと決まったときは、それなりに不安に思ったりもした。もちろん、潔癖症のこともあった。


 しかし、人間の適応能力はあなどれない。馴れとは恐ろしいとも言うのかもしれないが、六年経った今となっては、大家族が当たり前になって、別居という考えが思い浮かばないほどだ。


 ところで、もともとブリーダーを始めたのは小百合の両親だったと聞いた。小型犬はトイ・プードルを、大型犬はシベリアン・ハスキーを、広大な田舎の敷地を利用し、繁殖させ、血統書を付けて販売している。


 あまり積極的にブリーダーの仕事をしているようには見えないが、儲けがどの程度あるのかは知らないし、聞くべきではないと思っている。僕自身は、ブリーダーの仕事にほとんど関わっていないから、ということもある。


 レックスもまた、今はもう引退しているが、かつては立派に務めを果たしていたらしい。連れ合いのプードルは、二年ほど前に他界した。


 ブリードの仕事を主にこなしている義母曰く、「子供を産ませると、どうしても雌は寿命が縮む」のだとか。


 さて、分からないことはネットで調べれば、たいていのことが分かる今のご時勢「ブリーダー」と打ち込んで検索ボタンを押すと、かなりの数の悪評がヒットする。


 僕のような人間は、つい動物愛護という名の正義に託けて、実は悪口を言いたいだけなのではないかと勘ぐってしまう。誰だって、自分が正義の側であることに安堵する。


 一方、悪口は暗い快感を伴う。罪もない動物を無理やり繁殖させて虐待するブリーダーは、格好の標的というわけだ。義母に確認したところ、残念なことに当たらずとも遠からずと言った答えが返ってきた。


 飼育放棄、劣悪な環境下での飼育、虐待。ブリーダーと「産ませ屋」の違いを理解している人がどれほどいるかは別にして、どれも、実際にあるということだった。


 妻の実家がブリーダーだから、ブリーダーを庇うというわけではない。劣悪な環境化下での飼育がどのようなものであるのかも、僕には具体的に想像がつかない。


 しかしながら、犬を繁殖させて売るという行為が、大多数の人間から後ろ指を指されなければならない仕事であるとも思わない。根拠をあげるなら、妻の実家で飼われている犬たちが、とても満たされているように見えるからだ。


 チェリーも、メープルも、そしてレックスも、まず間違いなく人間である僕以上の待遇を受けていると断言できる。実際、僕の食事は忘れても、犬の食事を忘れる家族はいない。


 ところで、専門のブリーダーである義母は、そういったブリーダーの実態を、僕以上に、そしてネットにあれこれ書き込んでいる仮面をかぶった人間以上に、この世界のことを詳しく知っている。


 犬を買うときは「信用できるブリーダーからしか買わない」と、義母は事ある毎に言っていた。チェリーはこの家の先代ハスキーたちの直系だが、メープルの方はそういった「信用できる」ブリーダーから嫁に来てもらった犬だと聞いた。


 そして、ブリードに欠かせない繁殖行為であるが、それについては僕個人に強烈な思い出がある。


 それは、チェリーとメープルの子供が欲しいという依頼が舞い込んで来たことから始まった。今から四年前、残暑が厳しい季節のことだった。


「ハスキーはなあ、もうブームが終わってしもうたけんねえ。あんまり欲しがる人がおらんのよ。躾も入りにくいし、手もお金もかかるけんなあ」


 メープルの頭を撫でながら、義母はのんびりと語っていた。義母の本職は、ブリーダーではなくエステシャンだ。自分の店も持ち、特定の顧客も付いているとのこと。


 よって、積極的に犬を繁殖させている様子はなかった。依頼があった時だけ、犬の体調を見ながら、という言い方が正しいかもしれない。


「一時はねえ、日本全国あちこちでハスキーが飼われとって、六割の名前が「チョビ」やったんやけどねえ」


 僕はドラマを思い出し、曖昧に頷いて返した。チェリーの父親と母親にあたるハスキーたちの世代、このブームに乗った様々な人間がやたらハスキーを欲しがっていたということは、小百合から聞いて知っていた。


 ところが、ハスキーはどちらかと言わなくとも飼いにくい犬種だ。一緒に暮らしているから、嫌でも分かる。


 体重もあるし、力も強い。もともとが作業犬なので、かなりタフだ。よって、相当な運動量を必要とする。室内で放し飼いにしておけば充分な小型犬のようにはいかないし、人間の命令をほとんど聞いていない犬も多い。


 結果、ハスキーを持て余して放り出す飼い主が相次いだ。一時期、野良犬と言えばハスキーとさえ言われていた時代もあったらしい。


 しかし、ハスキー専門家である義母に言わせてみれば、大いなる誤解だと言わざるを得ないということだ。


「ハスキーはもともと、ソリ犬やから、飼い主のところに帰って来ようとするより、前へ前へ進もうっていう本能の方が強いんよねえ。それに、厳しい気候の国で仕事しとった犬じゃけんな、リーダーの命令に絶対服従するよりも、自分の判断で生き延びる方法を探さないといけない時もあったんやろうね」


 メープルだけが撫でられていることが気に食わなかったらしい。冷房の前を独占していたチェリーが、いそいそと義母の方に近付いて行った。僕の前はあっさり素通りして行った。


 まるで、僕という人間がこの世に存在していないかのような、見事なまでの完全無視だった。


「そういうハスキーの独特の性質っていうのが、事情を知らん日本人には「馬鹿」というか、「阿呆」に映ったんよね。フリスビーを投げて遊んでやろうと思っても、走り出したら最後、戻って来んし。ペットシートにオシッコする必要を感じないから、自分の好きなところにやってしまうし。ボールを投げて遊んでやろうと思っても、自分が噛むのに夢中になって、飼い主のことなんか忘れとるし」


 いろいろと身に覚えのある僕は、苦笑いを浮かべながら二頭を見やった。ちなみに、僕がこの家に来た時には、二頭はちゃんとトイレの場所を心得ていた。もしそうでなかったとしたら、僕はきっと早々に逃げ出してしまっていただろう。


「こんなに可愛いのにねえ。綺麗な犬よ、ハスキーは」


 義母はそう言うが、ハスキーを可愛いと思うかどうかは、その人の感性に委ねられるのではないだろうかと僕は思う。


 誰もが知っていることかもしれないが、ハスキーの顔立ちは、よく言えば「精悍」であり、はっきり言うと「怖い」。子犬のうちから「可愛いっ!」ではなく、「こわっ!」と言われる犬種はなかなかいないはずだ。


 今、ヤクザ顔負けの強面ながらも、どこか申し訳なさそうにこっちを見ながらウンコしているチェリーを見て、僕はつい笑みを零してしまうのであった。


 ペットシーツにちゃんと排泄したチェリーを大仰に褒めてやり、義母は嫌な顔ひとつせずに後片付けを始めた。ハスキーの躾には根気と努力が必要であり、義母たちは、そういう努力を惜しまないタイプだった。


 そして、失敗してもそれを許せるだけの寛容な人でもある。それにしても、ウンコが出たという理由で褒められるのは幼児の他には犬だけだ。社会人になって、あまり他人から褒められた記憶のない僕は、ほんの少しチェリーを羨ましく思っていた。


「それで、結局どうするんですか? 繁殖させるんですか?」


 義母から決定的な言葉が出て来ないので、僕は自分から聞いた。義母は笑って頷いた。


「うん、まあ、欲しいって言う人がおるけんな。店のお得意様やし、信用できる人やし、やってみるわ」


 義母はあっけらかんと言っているが、犬については素人同然の僕でも、犬が多産であることくらいは知っている。特に、チェリーもメープルもまだ若い。人間で言うなら、ちょうど二十代に差し掛かったあたりであるはずだ。


 いわゆる精力の絶頂期というやつである。自分にも覚えがある。


 子犬が産まれるのはいいことだ。いいことだが、飼い主が決まらなかったら、その時は大変なことになると否応なしに想像がついた。ハスキー二頭の食費が、僕ひとり分の三倍近いことを知らない僕ではない。


「売れ残ったら、どうするんですか? こいつらの子供が欲しいって言っても、買うのが決まってるのは一匹だけですよね? 十四匹とか生まれたらどうするんですか?」


「今はネットもあるしなあ、お客さんの心当たりもあるから、心配せんでも大丈夫よ」


 僕は、そんなものかと訝ったが、素人がそれ以上、口出しするのは憚られた。メープルが、ぶるぶるっと身震いしてくれたおかげで、大量の抜け毛が舞う。服についた毛をいそいそと払い落としながら、僕は去っていくメープルの後姿を見つめた。


「チェリーもメープルも初めての交配やけんなあ。悪いんやけど、手伝ってくれる? いつもやったら旦那に頼むんやけど」


 手伝え、と言ってきた義母に二つ返事で「いいですよ」と言ったものの、犬の交配において、いったい何を手伝えばいいというのか、当時の僕はまるで分かっていなかった。


 むしろ、チェリーが名前の通りチェリー(童貞)だったと知って、笑いを堪えるのに忙しかったと言っても過言ではない。


 多くの人は、動物の……人間以外の動物の、交尾について、どの程度のことを知っているだろうか。アフリカのサバンナだかセレンゲティだか、広大な自然公園で生きる動物たちのドキュメンタリー番組を見たことがある人であれば、少なからずそのシーンを見たことがあるはずだ。


 もしくは、野良猫あるいは野良犬は、頼んでもいないのに勝手に増えていることは、多々ある。


 犬の場合、妊娠可能な期間は実に限られている。人間の女性でいう月経が、雌の犬にもあって、犬の場合は月経期間中にしか妊娠しない、と義母から教えられた。もちろん、僕はそういった専門知識を教え込まれても、「そうなんですか」としか言えなかった。


 月日は流れ、その年の冬が始まろうというころ、メープルに月経が来た。後ろ足を血で濡らし、床にポツポツと血の雫を垂らしているその姿を見て、義母は仕事モードにスイッチが入っていた。


 一方、僕は「月経って、本当に血が出るんだなあ」などと呑気に思っていた。当然と言えば当然ではないだろうか。女性の月経など、いくら結婚しているとは言え、現実に見たことなどないのだから。


 怪我をしているわけでもないのに血が流れるという現象は、男の僕にとっては非常に珍しいというか、奇妙なことに映った。同時に、血に独特の赤い色を見て、少々血の気が引いていたのだった。

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