追憶
「行くぞ、ロゼ。遅れるなよ」
うららかな陽光が照りつける中、金髪碧眼の少年は少女の手を引いた。
場所はとある王国の城内、赤い絨毯が敷かれた廊下の上である。白く煌びやかな服に袖を通したその少年は、目を表情を輝かせながら、背後を歩く少女の手を引っ張りながら歩き出した。
「待って下さい、王子。また勝手に城を抜け出す気ですか?」
少年に手を引かれながら、制止の声をかけたのは少女だ。朱色の髪に黄緑のドレスを纏った彼女は、その双眸に幼い年頃には不釣り合いの使命感を滲ませながら少年に声を放つ。
「駄目です。いつもは押し切られていますが、今日という今日は許すわけにはいきません。自分の部屋に戻って勉学に励んでください」
「今日するべき勉強はもう終わっただろう。これからは自由時間だ」
「いけません! 自由時間と言っても、勝手に城を出ることは許されていませんよ」
奔放な少年の言葉に、少女は必死に彼を押し留めようと反論する。だが、それを少年が聞き入れる気配はない。力づくにでも、少女を連れて外に出る気だ。腕力は明らかに少年の方が上で、少女は力の上では勝てそうにない。そのため言葉で彼を諌めるのが、暖簾に腕押し、少女の警句は少年の行動を思い留めなかった。
彼女の説得に、少年は笑う。
「ロゼは真面目だなぁ。もう少し柔軟に物事を考えることも必要だぞ」
「柔軟に考えることと規則を破ることは同意ではございません」
引き続き反論を口にする少女だったが、少年はそれを気にも留めない。
そうこうしているうちに、二人は城の建物の中から外へ出る。いよいよ城を出て行く気の少年に、少女は必死の説得を続けた。
「城を勝手に出てはまた城中が騒ぎになります。国王陛下もきっとご心配に――」
「それはない。あの人は、もう俺を見捨てている」
ぴしゃりと、少年は少女の言葉を遮った。
先ほどまで陽気だった声は、その一瞬で凍え、少年の顔から笑みを消す。その反応に、少女は「しまった」と自分の失言を気が付く。
「今更城を出たところで、あの人は『放っておけ』と言うだけだ。これまでだってそうだっただろう? 兄上たちがいる以上、俺のことなんてどうでもいいのさ」
「そ、それは……」
断定的な口調で告げる彼に、少女はまごつく。少年は、その相貌に乾いた笑みと寂寥に満ちた眼光を湛えていた。少年が浮かべる表情にしては不相応などこか達観した顔つきに、少女は下唇を噛み、自身の失言を後悔する。
少年の地位は王子であるが、次代の王位を継承するような立場ではなかった。彼には幾人もの兄が存在し、少年の優先度は下から数えた方が遥かに早い。
そのためか、少年は幼少期より王である父の寵愛をほとんど受けてこなかった。自由奔放な少年の行動は、ある意味父である王の興味を惹かせるための行動でもあったが、最初の頃はともかく、今となっては王は少年のそれに愛想をつかし、半ば放任状態であった。
青々とした芝生の上を、二人はしばらく無言で歩く。口を開こうとしない少年に対し、少女はその背を窺いながら口を開閉させて言葉を探した。掛けるべき声を見つけるには、かなりの時間を要す。
「ですが、多くの人間は王子の身を案じます。今からでも遅くありません。自室に――」
「そんなに嫌なら、ロゼだけ帰ればいい。俺は一人で出て行く」
何とか少年の行動を留めようとした少女だったが、少年は不機嫌そうに言い返す。先の失言の影響も少なからず存在しているだろう、気分を害した様子で告げる少年に、少女は慌てた。
「それは、なりません。私には、王子の身を守ると言う使命があります」
「ならば、一緒に来ればいいだけだな」
振り向き、少年はにかっと笑った。それは齢相応の子供っぽい笑みであり、思わず相手の心の緊張を解いてしまうような魅力ある表情であった。そんな眩しい表情を見せられて、少女は反射的に頬を赤らめて視線を逸らす。
「大丈夫。もしロゼが責められそうになったら俺が庇ってやるから」
「……そういうことを心配しているのではありません」
少年が掛けた励ましの言葉に、少女はやや憮然と答える。
確かに少年に付く自分の立場上、彼の行動を諌められ切れなかった場合の責任は少女にかかるが、そんな自分のことよりも、少女が気に掛けているのは少年の身の安全と立場であった。
頻繁に城中を脱して外へ出る少年は護衛をつけておらず、いつ街のゴロツキや野盗どもにその身を狙われても不思議ではない。誘拐や拉致に遭い、王族へ身代金の要求などを起こされる事態になれば一大事だ。少年の命と同時に、彼の立場は一層悪くなり、最悪王族としての彼の居場所がなくなるやもしれない。
そんな危惧を少女は口にしようとする。
「私が心配しているのは――」
「! まずい、見つかった」
諌めようとした少女の声より先に、少年の焦り声が放たれた。少年の視線の方向へ目を向けると、そこでは衛兵が、こちらを指差して駆け寄ってくるのが確認できた。
「抜け道に急ぐぞロゼ。遅れるなよ」
そう言うと、少年は少女から手を離して走り出す。引っ張られることがなくなり解放された彼女は、そのまま衛兵と共に少年を捕まえることも可能となった。しかし、彼女はそのような選択はせずに、逃げる少年の背に続いて衛兵から逃げ出す選択をする。
少年と少女は、駆けつけてくる衛兵から逃げるようにして城中から脱出を図った。
映像がぷつんと途切れたことで、ローズマリーは瞼を持ち上げる。
意識を覚醒させた彼女は、自分が横倒れになっているのを悟ると、自分にのしかかっていたシーツを押しのけて上半身を起こす。視界は暗く、横に置かれたランプの灯火がゆらゆらと手元を照らしている程度だ。
「夢、か」
一人呟き、彼女は自分の現状を頭の中で整理する。
ルプスたち【ヘロスレギオ】に自身の護衛を依頼した後、彼女は翌日の集合場所だけを確認すると、このフルーメンで一番安全といわれた宿屋に案内されたのだ。そこに着いて部屋に案内されたすぐ後、旅の疲れもあって彼女は晩飯も取らずにベッドの上へ横になったのである。
そして、今の今まで眠っていたのだというところまで理解すると、彼女は独り苦笑いを浮かべた。疲れがあったとはいえ、日が落ちるのを待たずに寝てしまった自分が少し間抜けに思えたのだ。
ベッドの縁に座り直しながら、彼女は今見ていた夢の中身を思い出す。懐かしい記憶であった。自分はよくあの少年に手を引かれ、城の外へと出て行ったものだ。
あの夢の続きはどうだっただろうかと、彼女は思い返す。城を抜けた後二人が訪ねた先は、時に街の中であり、時に町はずれの花畑であり、時に王国を尋ねた旅人の許であったりと様々だった。彼に連れ出された自分は、いつもその背に付き従い、好奇心旺盛な少年に後押しされて様々な体験をしたものだ。当時はどきどきはらはらとした行動であったが、今となってはただ懐かしく、楽しいものだった。
そんな郷愁にふけていた彼女だったが、やがてその胸に痛みが走る。
楽しかったあの時には、もう戻れない。
「王子……」
無意識に呟くと、ローズマリーは部屋の窓へと目を向ける。ベッドから立ち上がった彼女はその足で窓へと寄ると、それを通して空を見上げる。幾万にも及ぶ星と月の光が煌めく中で、彼女は胸に手を当てて拳を作る。無意識のうちに力が込められ、肩が、身体全体が震えだす中、彼女は目を伏せた。胸中より噴き出す激情は、一人で押え切るには厳しいものがある。
だがやがて、ローズマリーは頭を振って胸の奥の念を振り払う。彼女は心の奥に秘めた思いを胸の中に収めると、決意に満ちた目つきとなって踵を返す。
――必ずや、私は……
声には出さず、心の中で呟くと、彼女はベッドに再び横になる。
今はまだ雌伏の時――そう自分自身に言い聞かせると、彼女は明日からの行路に備えるべく身体を休ませることに全神経を集中させるのだった。