交渉
「初めましてだな。俺がティグリス・ドゥクスだ。アンタがローズマリーだな」
「……は、はい。初めてお目にかかります」
黒い鱗で覆われた硬質な顔立ちで笑いかけるティグリスに、初めは呆気にとられていたローズマリーは慌てて頭を下げる。まさか訪ねた相手が竜頭の亜人だとは思っていなかったのか、表情には動揺と驚愕が張り付いている。
その態度に、ティグリスが気を悪くすることをルプスは危惧するが、彼はむしろ愉快そうに笑った。
「はっはっは。まさか訊ねた相手が蜥蜴だの鰐だののような顔をしているとは思っていなかったようだな」
「……いえ。そのようなことは――」
「構わん。それが普通の反応だ。眉ひとつ動かさぬような奴よりはずっと健常だ」
否定しようにもしきれていないローズマリーを尻目に、ティグリスはローズマリーの目の前にある机の前に腰を下ろした。
「まぁ座れ。話を聞こうではないか」
「はい。失礼します」
着席を勧められ、ローズマリーは緊張した態度で席に着く。
その態度に笑みを含みつつ、彼女を案内してきたルプスも少し離れた場所に腰を下ろした。彼の脳裏には、ローズマリーの口調が以前までの慇懃なものに戻ってしまったことに関する懸念があったが、ティグリスがその態度を嫌がっていないのをみて、敢えて突っ込まずに静観していくことにした。
「さて。どうしても俺の口から聞きたい人間の居場所というのがあるらしいが、一体誰のことだ?」
「はい。貴方であれば、確実にその居場所を知っていると聞いて参りました」
「そうか。で、誰だ?」
「……人がたくさんいる中で訊ねるのは、少し――」
用件を催促されて口を渋るローズマリーに、ティグリスは笑う。
「問題ない。そちらが何かしらの事情があって、人を捜しているのを隠しておきたいという事情があることはフィリアから伝えられている。ここにいる者は皆それを承知済みだ。言った所で、外に漏れることはない」
「………………」
「何か不満でも?」
「……いえ。ではお聞きいたします」
頭を小さく振って、ローズマリーは話を先に進めることを選択する。
おそらく本心では、ティグリスと一対一の場を作り、そこで訊ねたかったことだろう。だが、初対面であまり渋ると相手の機嫌を損ね、聞ける情報を聞けなくなることを危惧したのか、仕方ないと言った按配で彼女は口を開いた。
「捜しているのはソフォス・フィリラという方です。こちらの地域では、【大賢者】などと呼ばれているそうですが……」
「先生に? 捜しているのは先生だったのか」
驚きの声は、少し離れた位置にいたルプスの口から漏れた。
彼の声と時を同じくして、室内でティグリスとローズマリーの会話を聞いていた他の【ヘロスレギオ】のメンバーの中にも、驚きを表情に浮かべる者が何人かいた。
目を丸める彼らに、ローズマリーは不審そうに目を細めながら、ルプスに訊ねる。
「先生、とは?」
「あぁ……。ウチの連中の中には、昔ソフォスの下で修業した奴もおってな。そいつらは奴のことを先生呼びしているんだ」
ローズマリーの疑問に答えたのはティグリスだ。彼は鋭利な右手の爪の先で頬の鱗を掻きながら、薄ら瞼を閉じる。
「なるほど。ソフォスを尋ねてこの都市にやって来たのか」
「居場所は御存知ですか?」
「まぁ、知っている。というか、俺に訊かずともルプスやフィリアでも知っていたけれどな」
顎に手を馳せながら、ティグリスは言った。
きっと彼は、フィリアの口からローズマリーがどうしても自分の口からその人物の居場所を聞きたがっていたということを聞かされていたのだろう。ルプスやフィリアには言わなかったことに対するちょっとした揶揄に、ローズマリーは眉間に皺をつくる。
彼女の機嫌を少し損ねたことを悟ったティグリスは余計な揶揄はそこまでにして彼女が求めている情報について口にする。
「奴なら今、ここから西方の山村・ミスティコ村に住んでいる、はずだ」
「はずだ、とは?」
「ソフォスは放浪癖がある奴でな。よく住んでいる場所から離れたり、旅に出たりしているんだ。奴がそこにいるのを確認したのは一ヶ月ほど前のことだ。もしかしたら、今はそこを離れているかもしれん」
天井を見上げながらティグリスが言うと、それを聞いたローズマリーが険しい表情になる。
「では、今いる場所を確実に知る方法はないのですか?」
「そうだな……。残念ながら、正確な位置を掴む方法はない。現時点で分かっているのは、一ヶ月前までならミスティコ村にいたということだけだ」
「もっとも、先生がそこに留まっている可能性もゼロじゃない。放浪癖はあるけれど、同じ場所に留まり続けることだってある。もしかしたら、ミスティコ村に今もいるかもしれない」
ティグリスに続いてそのような見解を口にしたのはルプスだ。彼は机に肘をついて頬杖したまま、その手の指で自らの頬を叩きながら持論を述べる。
「確かミスティコ村は先生の生まれ故郷だしな。今もいるんじゃないか」
「そうだな。それに、どこか遠くへ旅立つ時は、いつもフルーメンに立ち寄ってから旅に出る。一ヶ月間、奴がここに来たという話は聞かないし、もし奴がミスティコ村にいなくても、移動先は差して遠くではないはずだ」
「……では、会いたいのならばまずはその村へ立ち寄るのが、彼に会うための一番の近道だということですね」
「そういうことになるな」
二人の話から要点をまとめたローズマリーに、ティグリスは首肯する。
ソフォスの居場所がミスティコ村だという確信はないが、どこか別の場所に行ったにしろそこを訪れることが彼の現在地を知る一番の手掛かりであるのは確かである。
それを知ると、ローズマリーは顎を引いた。
「分かりました。御教えいただきありがとうございました」
そう言って、ローズマリーは席から立ち上がった。
そしてティグリスに対し頭を下げ、踵を返そうとしたところで、それを見たルプスが思わず口を開く。
「おい。どこへ行く気だ?」
「? どこって……ミスティコ村という場所にですが」
ルプスの問いに、何を分かりきったことをといった態度でローズマリーは目を瞬かせる。
その態度に、逆にルプスは呆れ、ティグリスは苦い笑いを浮かべた。
「それは分かっている。だが、まだそこへの行き方も距離も話し終えていないだろう。性急すぎだ」
「ミスティコ村へはまともに歩こうとすれば十日はかかる。道を知っていたとしてもそう簡単に行ける場所ではないぞ」
二人がローズマリーを留めるように言葉を紡ぐと、彼女に今一度席に着くように目配りする。その視線にローズマリーが渋々従うと、二人は互いに目を配り、ティグリスが話を進めた。
「それに今は、西へ一直線に向かうのは危険だ。今あの一帯は、魔獣の動きが活発になっている」
「魔獣、ですか?」
ローズマリーが訊ねると、ティグリスは頷く。
魔獣とは、簡単に言えば人や家畜などに危害を加える危険な獣たちの総称である。その種類や外見は様々であるが、総じて彼らは荒い気性を持ち、人間に対して攻撃的で、災厄や事故を招く危うい存在として知られていた。
「そうだ。噂では、村の一つ二つが壊滅的被害を受けたともいう。ひょっとすれば、魔獣を率いる強力な個体――魔王が出現している可能性だってある」
「そうなのか? そんなこと初耳だが」
意外そうな声を上げたのは、ローズマリーではなくルプスであった。ティグリスが口にした情報を知らなかった彼に、ティグリスは横目で顎を引く。
「お前たちがオークの盗賊団を討伐に出て行った直後に入った情報だ。お前らが知らなくても仕方あるまい」
「被害にあったと思われる場所は、ちょうどフルーメンとミスティコ村の中間にあたる所だ。魔獣の規模も強さも不明だが、相当の被害を受けたというのはほぼ確定的だ」
ティグリスの説明に、その竜頭の背後に控えていた長身痩躯の男性が言い加えた。真っ赤なコートを羽織った彼は、酒と思しき飲み物の入ったグラスを傾けながら、涼しげな目付きでローズマリーの方に視線を送っていた。
「真っ直ぐにミスティコ村へと向かうのは危険だ。最悪の場合、魔獣たちの群れに遭遇して命を落としかねない」
「安全にミスティコ村へ向かうには、南側の街道を迂回するのを薦める。到着するまでの日数は倍になるが、馬を確保できれば七・八日で辿りつける」
ティグリスはそう言うと、視線を再びルプスに向ける。その視線の意味を、以心伝心で悟ったルプスは席から立ち上がった。
「地図を持ってきてやるよ。一人でも、アンタの腕ならミスティコ村に無事辿りつけるはずだ」
「……一つ、確認申し上げます」
先ほどから進みっぱなしであった話に沈黙を続けていたローズマリーが、不意に口を開いた。
部屋の奥へ地図を取りに行こうとしていたルプスが足を止め、他のメンバーが視線を向ける中で、彼女は言う。
「噂では、【ヘロスレギオ】の皆さんは都市連合国家ポリティス・シマヒヤ内において随一の武装ギルドとお伺いいたしました。そのうちの手練れともなれば、魔獣の群れに引けを取らぬということも」
「……何が言いたい」
急に世辞のような言葉を口にし始めるローズマリーに、ティグリスが不審の表情で彼女を見据える。それは【ヘロスレギオ】のメンバーも同じで、ルプスを始めとした店内で彼女とのやりとりを耳にしていた者たちも皆、訝しがるように目を細めていた。
そんな彼らの猜疑の視線に曝されながら、しかしローズマリーは物怖じすることなく口を開く。
「もし私が、貴方がたのうち精鋭の方数名を雇えば、最短距離でミスティコ村へ向かうことも出来るのではないのでしょうか?」
「雇えるならば、な」
彼女の出鼻を挫くように、ルプスはやや冷ややかな声で言う。その口調に、ティグリスが「ルプス」と彼の名を呼んで注意をすると、小さく咳払いをついてローズマリーに向き合う。
「確かにウチには、魔獣の群れを相手に戦って生き残ってきた人間も何人かいる。だが、そんな精鋭を選りすぐって雇うにはそれだけで金が掛かる。同時に魔獣の群れが活性化する場所を突破して欲しいというなら、それだけで更に危険手当も追加される。そんな大金、お前は持っていないだろう」
彼女の質問に答えながら、ティグリスはその物騒な容貌には似合わない繊細な事情を指摘する。彼女の言うように、【ヘロスレギオ】の精鋭の戦力をもってすれば、魔獣たちの群れに対しても対処することは可能であった。
しかしそのためには、精鋭を雇うにはそれ相応の報酬が必要であり、それがローズマリーには出来ないだろうというのが彼らの見解だった。
「俺らは慈善活動をする集団じゃないんだ。本来はソフォスの居場所を教えるだけでも金を取ってもいいんだぜ? 悪いが嬢ちゃん、その提案は――」
「金貨十枚、でどうでしょう?」
彼女の提案を蹴ろうとしていたティグリスの言葉を、ぴしゃりと遮ってローズマリーは告げた。その言葉に、その場の皆は硬直し、そして訝しがるように彼女に視線を集める。
【ヘロスレギオ】のメンバーの視線に曝されながら、ローズマリーは涼しい顔で懐から皮袋を採り出した。それを目にして、いち早く我に返ったティグリスが疑念で両目を寄せた。
「なんだと?」
「金貨十枚から交渉です。外貨ですが、この国でも相当の価値はあるはずです」
そう言いながら、彼女は皮袋の中から黄金色の通貨を取り出した。この世界において金は貴重な資源であり、殊に金貨は通貨の中で特に貴重なものとして知られている。フルーメンにおける為替で言えば、金貨一枚は銀貨五枚に、銅貨で換算すれば三十枚に相当していた。
それを、一枚ずつ丁寧に、ローズマリーは机の上に並べて行く。
多くの者が呆気にとられる中で、ティグリスとルプスの二人だけが彼女の行動に対し、冷静な思考を働かせていた。
「本気か?」
「はい。本気です」
念のため、ティグリスが訊ねるとローズマリーは顎を引く。その目は真剣そのものだ。
「では、十五枚でどうでしょう」
「………………」
「では、二十――」
「いや。十五枚で充分だ」
皮袋の中から惜しみなく金貨を取りだす彼女を、ティグリスは止めた。
彼は自身を落ち着かせる様に、額へ手をやりながら細長い息をつくと、横目でルプスを見る。その視線がほんの少し動揺と昂揚を浮かべているのを見て、ルプスは眉間に皺を刻んだ。
「ティグリス、本気か?」
「金貨十五枚で、護衛を四人付けよう。期間はミスティコ村への片道間だけになるが、何か問題は?」
「いいえ。ございません」
ルプスの確認を無視して、ティグリスとローズマリーは話をまとめる。
その契約の内容に多くのメンバーは茫然と固まるが、当の二人はそれを尻目に立ち上がる。
「よし、決まった。交渉成立だ」
そう言って、ティグリスは遥かに高い位置からローズマリーに対して手を差しだす。鱗まみれで固い彼の手を、ローズマリーの小さな手が添えられ、二人は握手する。
そのやりとりを見て、ルプスを始めとした【ヘロスレギオ】の面々は表情を改める。先ほどまで人捜しの情報を尋ねに来ただけの来訪者から、彼女は今や【ヘロスレギオ】に多額な報酬を寄越してきた依頼主に変わっていた。
多くが仕事の顔になる中で、ティグリスは視線を再びルプスに戻す。
「そういうことだ、ルプス。お前と、それからフィロ。二人でもう二人を選別して護衛につけ」
「……それは、命令か?」
「あぁ。首領の命令だ」
「だってよ、フィロ」
やや呆れを含めながら、ルプスはティグリスの背後に陣取る赤色コートの青年へ声をかける。彼はグラスを傾けながら、その液体で喉を潤すと顎を引く。
「問題ない。承知した」
「――それで、依頼主殿。護衛の開始、つまり出発の時間についてだが……」
フィロの反応を確認したルプスは、視線をローズマリーに戻して問いを投げかける。
「今から出ると野宿の回数が一度増える。その分魔獣の襲撃に遭う危険性が増えてしまうから、今すぐは止めて明日の明朝にこの街を出ることを薦めるが……」
よろしいか、といった視線を向けると、それを受け取ったローズマリーは迷うことなく顎を引いた。
「分かりました。では明日の夜明けから、護衛をよろしくお願いいたします」
そう頷いた彼女の顔には、つい先刻までのフランクな態度から丁寧な物腰になったルプスをからかうような明るい笑みがはりつている。
その笑みに、ルプスも思う所があったが、今はその感情を押し殺す。
「了解した。では、明日以降の具体的な道程について説明する」
手短に答えて頷くと、ルプスは早速話合いを進めるべく、一度奥にある部屋へ向かって歩き出す。
こうしてルプスたちは、ローズマリーに雇われて西方の山村・ミスティコ村へ向かうことになったのだった。