やべっ、警察だ!
時間だけが過ぎる。
ひきこもってばかりで働いていないのに、腹が減った。
でも、食欲がない。
「誰が作ってやったと思っている! 貴様、ふざけるなよ」
シキモが料理を作った。
頼みもしないのに、人んちの冷蔵庫を勝手に開けて、有り合わせの食材で調理した。
「かき揚げ丼だ。残さず食べろ」
独り善がりに強がっているシキモは、ツンツンな態度をとる割にお節介をやいてくれる。
喪服にエプロンとは新しい。
地味に俺を狙っているようだ。これだから売れ残りは見境のない。
だがしかし、所詮死神である。
聞くところによれば死神は人に憑くわけではなく、疫病神のふぅちゃんのようにこの辺りの地域に憑くらしい。
一方で貧乏神のらうは、俺個人に憑いている。
どうやったって、らうの方が影響力を持っている。
かき揚げ丼を食べたいと思う食欲を、——食欲という俺の欲を、らうが根こそぎ吸い取っている。そうでなければ、こんなにも旨そうなかき揚げ丼を無視できるはすがない。
冷蔵庫の寄せ集めと言ってもいいけれど、シキモの作ったかき揚げ丼はかなり旨そうだ。ふわぁっと湯気があがって、甘辛いタレもかかっている。
なのにまったく食べたいと思わない。
「せっかくだけど……ごめん」
俺は自室の窓を開け、外を眺めた。
「真鍋……貴様、食べないと殺すぞ!」
シキモに胸ぐらを掴まれた。
言葉の暴力を浴びせながらも、頬を赤くするシキモ。やっぱり気があるようだ。
しかしそれにすら俺は興味がない、好奇心が湧かない。
「殺してくれるなら、殺してくれ……俺なんか、生きていてもしょうがない人間なんだからさ……」
「シキモ、ゆーくんに乱暴しないでよ!」
らうが俺の背中にそっと寄って来て、後ろから抱きしめる。
「ずっと一緒だよ」
養分を吸い取られるのがわかる。
もう、なにもやる気が起きない。
生きる気力も。
考えることも。
呼吸することさえも、鬱陶しく、煩わしい。
二酸化炭素を吐くついでに、俺は生きているようなものだ。
——らうに取り憑かれている。
このままではダメだ。ダメになる。いや、ダメなのは昔からだけれど……、
「これ以上、沈んではダメだ」
「なにがダメなの?」
耳元に、ぷっくら柔和な唇を近づけて、らうがささやく。
甘くて、とろりと耳に入ってくるコトバ。
力が抜ける。——が、俺よ、考えろ。一体何がダメなんだ。
将来か? 将来の不安……?
確かに、このままひきこもりニートを続けていると生活は行き詰まる。
なぜだ?
なぜ行き詰まる? ああ、そうか。ひきこもりだから、だな。
「今からでも、ひきこもり……やめられるか?」
「どうだろうね……? 外に出てみる?」
後ろから抱きついているらうが、窓の外を、指差した。
公園が見える。
中学生、男女のカップルが、花火をしている。楽しそうに見えた。
世間は、夜になっていた。
俺は愕然とした。
「夜なんだな。でも、……どうでもいいか。今日も……カーチャンとトーチャンは帰ってこないな。どうしてだろ……?」
俺が、ニートだから、だな。
働く意欲がない。どうして、人間は働かないといけないのだろう?
ああ……金がないと、食べ物が買えないし、着る服も買えないし、光熱費が払えないし、生活できないし……。
「今からでも、ニート……やめられるか?」
「どうだろうね……? 働いてみる?」
そう言って、らうが、俺の顔を覗き込んだ。
「ゆーくん? どうして泣いてるの?」
……、俺、泣いてるのか?
どうやら俺は、さめざめと泣いているようだった。
俺自身の事なのに、どうでもよくて、他人事のように、俺は、考えていた。
「なんで、泣いているんだろう?」
俺は心のどこかで、俺自身を、情けなく思っていたから、だな。
——俺は、自分の事を、全力で否定した。
俺がひきこもりになるわけがない。ニートになるわけがない。一人ぼっちになるはずがない。
——俺は、自分の事を、全力で叱った。
勉強しなかったから大学に失敗したんだ、どうしてもっともっと勉強しなかった! なんでひきこもるんだ、殻にこもるな世間に背を向けるな! なんで働こうとしないんだ、バイトして自分の働きで学費を貯めろ! 他人に責任を転嫁するな!
——俺は、自分の事を、全力で守った。
誰か助けてくれ。りっちゃん、頼むよ。カーチャン、通販の金払っといて。誰か一緒に頼んでよ……魂は取らないでくれ。俺だけの力じゃ、無理なんだ。どうしようもないんだよ……力を貸してくれ。
——俺は、自分の事を、全力で無視した。
誰からも必要とされないし、俺も、俺が、必要ない。死んだって、居なくなって、消えたって、誰も困らない。俺は俺じゃないし、誰なのかも知らない。生きていてもしょうがない人間なんだからさ。
——そして俺は、自分の事を、全力で受け入れた。
「これ以上、沈んだらダメだ。いつまでもこんな生活をしていちゃ、ダメなんだ!!」
俺はらうを跳ね退けて、自室から飛び出した。駆け出した。
目を丸くするらう、びっくり驚いたシキモ、ニヤリと笑ったふぅちゃん。
コイツら悪神を眼中に入れのは一刹那である。
1階に駆け下りて、玄関でツッカケを履くか履かないかのうちに玄関を飛び出した。
「ゆーくん、待ってよ! どこ行くの!?」
らうが追いかけてくる。
俺は右も左も見ないで道路を横断し、自宅前の公園に向かって激走した。
1秒でも早く、悪神の巣窟から這い出なければならない。
それしか俺に残された手段はなかった。いや、逃げる事しか考えられなかった。
安直で安易で愚かでお粗末な行動だが、今の俺には、これが最善の方法だ。
「来いよ貧乏神! お前を追っ払ってやる!」
追ってくるらうに、俺はそう叫び、公園の敷地に踏み入る。
「どけっ! 中坊が!! 帰れ糞餓鬼!」
手始めに俺は、公園にいた中学生同士のバカップルを罵倒する。
「テメェら毎日毎日、公園で花火しやがって! うっせーんだよ! それしかする事ねぇのか!! 殺すぞこの野郎! だいたい楽しくて幸せだと思っているのは今だけだ! 男は顔のいい女しか相手しねぇし、女は金のある男しか相手しねぇ! テメェらはどっちもブサイクで金もねぇだろうがっ! 失せろ、爆ぜろ、消えてなくなれぇぇぇええ!!」
震えおののいたバカップルは、花火を捨てて、一目散に逃げて行く。
「明日も来たら包丁で刺し殺すぞ!! 覚えとけ糞餓鬼がっ!」
走り去る背中に思いっきり言葉のナイフを突き刺してやった。
「ゆーくん! 近所迷惑だよ、急にどうし、」
「どうしたもこうしたもあるか! 近所迷惑だ? んなこと知ったこっちゃねえ!」
俺は肩で息をして、らうに立ち向かう。
「お前がいると、いるだけで、俺は幸せになれねえ!」
拳を握って襲いかかる。
「お前が幸せだろうがなんだろうが俺にはなんもカンケーねえ!」
「キャッ!」
らうは思わず目を瞑って顔を背ける。構わず殴り掛かった俺。
拳がらうにヒットする直前、ツッカケの布地がブチ切れて、
「ぐわあっ!!」
俺は素晴らしいほどにズッコケる。バチが当たった。
「やめなって、ゆーくん!」
「うっせぇっつってんだろ!!」
前に擦り剥いた肘の傷から、じゅわっと血が滲み出す。
それでも俺はらうに立ち向かう。
「俺は捨て身だ! いつ死んでもいい、覚悟は出来てんだ!」
傷口に付着した砂を払い落としもせずに俺はもう一度殴りにかかる。
「うおりゃーー!」
ズルっ!
今度は足が攣って転んだ。
地面に頭を打った。クラクラする。
だが……俺は立ち上がる。
「やめてよゆーくん! 私に暴力振るうとバチが、」
「俺はやめねえ!」
殴りかかってはズッコケて立ち上がり、殴りかかってはズッコケて立ち上がる。
何度も何度も殴りかかってやるのだ。
バチを被っている俺は、らうに殴りにかかってはズッコケて怪我を負う。
バチを当てているらうには擦り傷ひとつないけれど、精神的なダメージを受けているはずだ。
指一本ふれられずに俺はらうの手前でアホみたいにズッコケる。
「お前が離れるまで、俺は何度でも立ち向かってやる!! 皮肉なもんだな。身を守るためのバチが、好きになった男を苦しめるってのは!!」
一世一代、一か八かの作戦だった。
だが、そんな作戦も、最早どうでも良くなって来た。
バチで死のうが、血が噴き出して死のうが、頭が割れて死のうが、骨折して骨がむき出しになって死のうが、どうだっていい。
ただ何もしないで死ぬよりかは、何かをして死ぬほうがいい。
「養分を搾り取られて死ぬ人生よりも、自分の意志で立ち向かって、負けて、死ぬ人生がいい」
殴りにかかって。
転んで。
地面に体を打ち付けて。
あっちこっち擦り剥いて。
タンコブができて、青あざができて、めちゃくちゃ痛い。
しかも錯乱状態だ。
——世間に負ける。
貧乏に負ける。
らうに負ける。
自分に負ける。
「どうせ俺は負ける。けど、それでもやっぱり抵抗しないで負けるのは、俺は大っ嫌いなんだ! 俺は全力で抗うぜ!」
理屈のようで理屈じゃないが、たった今決めた、俺の自分ルールだ。
「……ゆーくん」
らうは俺の奇行にどうしていいのか解らずに茫然と突っ立っている。
突っ立って、ブルブル震えて顔を青くしている。
その顔は今にも泣き出しそうで、
「もう……やめて……ケガいっぱいしてるじゃん…………やめてよ」
ふるふると首を振って、顔を両手で隠して、しゃがみこんだ。
「俺は……まだまだやれ……る、ぞ。……殴ってやる!」
ツッカケなんかはボロボロで履けたもんじゃない。ツッカケを捨てて、裸足になる。
出産直後の子鹿のように足はガクガク笑っちゃって、親指の爪は剥がれ出血しているし、鼻水が垂れてきたから二の腕に擦り付けるように拭ったら鼻血混じりの鼻水で、視界が狭いと思ったら左眼のまぶたが膨れ上がっている。
それでも俺は立ち向かう。
貧乏神のらうと、根性なしのゴミクズ人間の俺自身に、俺は立ち向かう。
俺を突如として突き動かしたこの衝動は、絶望だった。
俺は絶望を全力で受け入れた。
このままではどうしようもないと解った。だから、最後の抵抗だ。
堕ちる所まで、俺は堕ちた。
あとは、なにをやっても上がるしかない。
死んで昇天すれば空に上がる。地獄に堕ちるのも上等だコラ、この世界よりマシだぜ。
覚悟は出来てんだ。
「……ははっ、どうしたんだよ、らう……泣いてんのか? 泣きたいのは俺だ!!」
膝に当てた手を突っ張って、なんとか上体を立て直そうと試みる。
そのときだ。
俺の耳に、
ぷ〜〜ん
という不快な羽音が入ってきた。
——蚊だ。
俺の腕に止まった。
チクリとする感覚や痛みもなく、皮膚に突き刺した口吻で俺の血液を吸う。
この蚊は、ひきこもってトーチャンカーチャンに寄生する俺であると同時に、俺に寄生する貧乏神のらうだ。
憎たらしい蚊だった。
「死ね!」
ベチッ。
簡単に潰れた。
蚊と血がこびり付いた手のひらをらうに見せつけて、
「らう……これはお前だ。そして俺だ。こんな簡単に死ぬのさ。俺は、この蚊のように死にたくない。養分を吸い取って生きる人間になんかなりたくねえ!」
そう叫んで、俺の体はうしろへ倒れた。
体力の限界だった。
ひきこもりニートの分際が、アスリート並に動いて、わずか数分でスタミナ切れ。
情けなかった。
公園の真ん中に大の字に倒れて、外灯に群がる蛾を見上げる俺。
涙が溢れてくる。
悔し涙だった。
このまま終わる自分の不甲斐なさに歯がゆいものを感じた。
ジャリ、ジャリ、と砂の上をあるく足音——
らうが視界の端に入り、そのまま歩いて来て、俺の傍で足を止めた。
俺を見下ろしている。涙を頬に伝わせた顔で、鼻水を啜った顔で、くしゃくしゃな顔で、俺を見下ろしている。
崩れるように地面に膝をつき、大粒の涙をこぼして唇をわなわなふるわせて、
「ゆーくん……ごめんなさい……許して」
養分吸い過ぎた、と言って、らうは俺にしがみついた。鳩尾のあたりに顔を埋め、
「嬉しかったんだよ? こんなに養分のある人、始めてだったから。しばらく憑いていても良いって言ってくれて……私を選んでくれて…………うれしかった」
「うるさい。重い。ウザい。あっちいけ」
「ヤダ! ずっとゆーくんと居るぅぅううう!」
ぶわわっー! 泣き出す。
……泣きたいのは俺だ。いや、もう泣いているが。
「…………俺はもう……悪あがきする気力もない。せんぶ出し切ってしまって残ってない。カラカラだ。焼くなり煮るなり好きにしろよ……」
「ずっと居る! そばに居るから、ね?」
顔を上げたらうは、鼻水を垂らしていて、垂れた鼻水の先が俺の鳩尾に付着して、みょーんと糸を引いている。
「もう、笑う気力もねーよ……。俺は死にたい。死なせてくれ。人生すっからかんで、やり残した事もない。わが生涯に一辺の悔いなしだ。辞世を詠むなら、こんな馬鹿息子ですみません、だ。カーチャンとトーチャンによろしく言っといてくれ。シキモには早く彼氏を見つけろと言っといてくれ。ふぅちゃんには初恋は実らないと言っといてくれ。りっちゃんには………………別にいいや、あんなの。とにかく、みんな幸せになってくれ。俺は地獄で待っ、」
ているから、という言葉を口に出そうとしたとき、らうに口を塞がれた。
口で、口を塞がれた。
らうに唇を重ねられた。
——キスされた。
早い話が、俺のファーストキスだった。
今際にそりゃないぜ、と思った。
にしても、鼻水と涙と砂埃の混じった汚いキスだ。
唇がふれたとき、ジャリっとした。
どれくらいの時間、唇が重なっていたのか解らない。が、唇が離れたときにはやっぱり鼻水が糸を引く。
ほぼゼロ距離にあるらうの泣きじゃくって火照った顔からじんわりと熱が伝わってくる。
「ねえ、ゆーくん。人間の細胞はほぼ半年で入れ替わるって知ってる? 細胞が生まれ変わるの。私だって、一年半以上もゆーくんの養分を吸い続けてるから、体の細胞はゆーくんで出来てるよ? でも……吸い過ぎたらダメだよね。だから、少しだけ、養分を戻してあげた」
そう言ってらうは、再びキスをした。
「うふっ」
なにやってんだコイツ。俺だって風邪引きっぱなしで鼻が詰まってんだ。苦しい。ふざけんな。死ぬだろ。本当に死ぬだろ! からだを、唇を退けろ!
「やめろこの野郎!」
頭突きを喰らわして起き上がろうとしたら、うなじ辺りの首筋がピンッ! と攣った。
息を呑むほど痛い。これもバチだとすれば無性に腹立たしい。
それでも立ち上がった俺は、らうを無視して、円を描くようにその場をすたすた歩いた。
腕を組んで、ぐるぐるぐるぐる回って考える。
俺は今、貧乏神とキスをした。何か言ってたな? 養分を戻した。
養分とはつまり、意欲だ。
物事を始めるときの意欲、活力、元気。
なるほど確かに鈍感だった思考が少しずつ正常化して、体の内側から湧いて出るエナジーはパワフルだ。おう? 今頃になって体中が痛いじゃないか。
この痛みは新鮮だ。やたらめったら刺すような痛みが直接脳みそを刺激する。
「なんで俺はひきこもりをやっているんだ? 外に出ろよ。あ、いま出てるか。……ん?なんで俺はニートなんだ? 働こうぜ、俺。そうだな、うん。いまからでも勉強して大学を目指そう。大学が無理なら専門学校だ。……学費。カーチャンとトーチャンの収入じゃあキビシいから、俺もバイトして、金を稼ごう。明日からバイト探そう。こうしちゃいられないぞ……忙しくなる!!」
嗚呼、生きてるって素晴らしい!
脳みそを突き刺す痛みで、俺は異常にハイな気分だぜ。
モヤモヤした不安要素が一気に霧散した。
俺は両手を天高く上げて、叫ぶ。
——外灯に群がる蛾よ! 我に力を!!
俺の頭はイッてしまうほどにすっきりクリアだ。
大丈夫、オールグリーンさ!!
「……ゆーくん? 大丈夫?」
らうが心配そうに見上げてくる。まるで精神異常者を見るような目で。
「うっせぇぞ! テメェはどっかいけ! 消え失せろ! おっぱい揉ませろや!」
クソ貧乏神を罵倒するほど、俺は元気いっぱいだった。
と……。
公園の入り口に、赤色灯を点灯させたパトカーが1台停車した。車内から警察官が2人降りてくる。
「やべっ、警察だ! さっきの中坊め、通報しやがったな!!」
何をやっているんだキミ!
そこを動くな!
待ちなさい!
んな事いわれて待つ奴がいるとでも?
「逃げるぞ!」と言って俺は、走っていた。逃走していた。
らうの手を掴んで——