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「俺は、お前なんか嫌いだ」

 外に履いていく靴もなかった。


 高校生時に履いていたコンバースのスニーカー……カビが生えていた。古くなった食パンに生えていそうなカビだった。

 どうしようもなかったので、俺は七分袖のズボン(膝の辺りにチェックが付いていて、膝から下を切り離せる)を穿き、マラソンランナーが着る半袖のウォームアップシャツを着た。

 靴はカビちゃっているのでツッカケを。


 千円札2枚をマジックテープの財布に入れ、俺は外に出ていた。

 ものすごい緊張だ。尋常でないプレッシャーを感じる。

 通り過ぎる人皆々が、俺の方を見て、何か囁いている。噂している。

 嗚呼、公園にいるヤツらが、俺を指差している。

 俺はただただ道を歩いているだけなのに、人々の……他人の視線が突き刺さる。

 ——俺は道を歩いちゃいけない人間なのか?

 家から数歩出ただけで、俺の頭はパンク状態。

 このままでは精神がぶっ飛んでしまう。

 何か得体の知れないものに押しつぶされそうだ。

 額や首筋、脇の下まで汗がダラダラ流れる。汗ばむ夏の陽気でも、これは異常だった。


「らう、もう帰らないか」

 俺は介助されるが如く、らうに手を握ってもらっている。手のひらは汗でびちょびちょ。

 このままだとコンビニに到着する前に、俺は脱水症状で死ぬかもしれない。


「せっかく外に出たのに? ちゃんと買い物して帰ろう?」

 らうの服装はアサガオの花柄シャツをそのままに、下は水玉の刺繍が施していあるスカートを穿いて、ヒール付きのサンダル。育ちの良い令嬢が、俺の横にいた。

 ダサい格好の俺とはえらい違いだ。というか、俺の家にそのようなサンダルは無かったはずだが……。

 まあ不要な詮索はやめておこう。


 とにかく俺は今、コンビニへの道のりを引き返すべきか考える。

 これ以上、人目が気になって歩けたものじゃない。

「……皆が俺を見ている、どうしよう……あ、起きて顔洗ったっけか俺。いや、死んだ目が悪いのかも……ダメだっ、やっぱり服装がいけないんだ! もしかしたら臭うのかもしれん!」

「落ち着いて、ゆーくん」

 まぁまぁと俺の肩をトントン叩いてらうは、

「べつにゆーくんを見てるわけじゃないよ。どっちかと言うと私を見てる感じ……かも?」

「……は?」

 何言ってんだコイツは。

「普通の人にはお前の姿は見えないし声も聞こえないんだろ?」

「ううん。今は見えてるし声も聞こえてるよ」

「……」

 りっちゃんの前で姿を見せるようなものか。

 体のどこかにスイッチでもあるのか? ドロボーするとき便利だな。


「けど何で姿を現してんだよ」

「だって……私が姿を見せないままだと、ゆーくんのこの手。不自然に汗びしょびしょで怪しまれちゃうよ」

 んなことねーよ。……ねーよ? …………ないよな?

 そう言われると急に不安になってきた。


 と、ここで俺は気がついた。

 俺の横を通り過ぎる人。通行人。その通行人たちの目線の先に。

 凝視しているではないか!

 俺ではなく、らうを——


 通行人たちは皆、「偶然そっちに目線がいったんだ」という雰囲気を醸し出して、チラリとらうへ目を向けている。

「たぶんたけど……ゆーくんより私のほうが見られてる……なんで?」

 通行人(男)は鼻の下を長くして、らうをチラ見して通り過ぎて行く。

 通行人(女)はらうをチラ見した他に俺までチラ見して、「えっ、この醜男にこの女!?」という表情をして通り過ぎて行く……。

 ——公開処刑に等しい感覚を俺はヒシヒシと感じた。


「そ、そうか! そういう事だったのか!!」

 さらに俺は気がついた。

 俺を騙して外に出させたらうは、世の男性が目で追ってしまうその容姿を逆手に取り、「こんな不釣り合いな彼氏、見た事ねえ(笑)」と、通り過ぎ行く人たち皆に思わせて、俺の羞恥心を煽る企みなのだ!!

 どん底に落ちた俺だが、どん底の底すら抜けて、さらなる深みへ沈み落ちる。


「謀りやがったな! らう! なんてヤツだお前は!!」

「なに言ってるの、ゆーくん。そんなこと考えてないってば。被害妄想やめたら?」

 これが被害妄想だと!?

「はやく買い物しにコンビニ行こう?」

「やだ! 俺は帰る!!」

 帰るぞぉぉぉおお!

 情けない事に俺は、母親に手を引っ張られてデパートのおもちゃ売場を離れる子どものように、らうに腕を組まれて引きずられる。


「離せ! コンビニには行かねえ! 部屋で餓死してた方が百倍マシだ!」

「ゆーくん死んじゃったら私が困るでしょ。養分吸い取れないじゃん」

「アヒャヒャヒャ! それはいい気味だな!!」

 俺は道の真ん中で発狂し、喚き散らす。

 通行人がヒソヒソと喋っていた。


「あの人大丈夫? おかしくない?」

「人を呼ばなくていいの? 女の人が痴漢に遭ってるんじゃ……」

「誰か110番に電話」


 その現状にハッとした俺。

 一時的な錯乱が、取り返しのつかない事態に。

 俺の精神はかなりのダメージを負ってずたぼろになっていた。


 ここから逃げたい。逃げなければ!!


 本能的にそう思った。

 俺は辺りをきょろきょろ見まわして、人影のない路地裏を発見。

 らうをその場に置き去りにして、俺は全力疾走した。

 長いひきこもり生活によって体力が低下していた。すぐに息が上がる。

 風邪のために鼻が詰まって苦しい。鼻水が垂れてくる。涙も流れる。

 片方のツッカケが脱げた。かまわねぇ。無視して走る。

 路地の角を曲がる。

 石に躓いて転んだ。

 地面に肘を強打。皮が擦り剥け、膝からも出血する。

 それでも俺は、走る。

 走って走って走って、逃げる。

 どこまでも——


 人のいない場所に行かなければ!

 俺を駆り立てるのは恐怖そのものだ。

 どんな些細なことでも、俺に向かって言うな。

 俺を見るな。

 俺を指差すな。

 俺を嘲笑するな。

 羞恥と恐怖と怒りと空腹。

 すべてが綯い交ぜになって、吐き気がする。


 路地を抜けて十字路に出た。

 頭がクラクラする。が、立ち止まってはいられない。

 少しでも人通りのない道を!

 一秒でも早く部屋に帰りたい。

 5畳半の部屋が俺の終着地であり、唯一安息できる場所だった。

 脳裏に焼き付いた光景がフラッシュバックする。


 天井隅の蜘蛛の巣、薄汚れた壁、埃まみれの本棚、引きっぱなしの布団や学習机、ノートパソコン、壊れかけの扇風機、アマゾンで買った菓子と雑誌、雑貨——


 頭が熱でジンジン痛む。

 心臓があり得ないほど強く脈を打ち、ドクンドクンと鼓動が聞こえる。

 息苦しい。

 足がガクガクして膝が笑ってる。

 だが一刻を争う。

 家はどっちだ。どう行けば帰れる!

 右か!? ダメだ、人がいる!

 左に行くしかない!


 ふたたび走り始めた刹那、

「ゆーくん!」

 突然、腕を掴まれた。


「離せよ! 俺に恥をかかせやがって!! くそったれが! 死ねよ、死ね、死ね!!」

 俺はらうに掴まれた腕を振り回して、叫んだ。


 もうやめてくれ。

 俺が何をしたって言うんだ。

 そんなに俺を笑い者にしたいのか。


「ゆーくん! ここには、誰もいないから!!」

 らうも叫んだ。

「嘘だ! そこに人が、」

 俺は右にいる人へ目をやって——


 ……力なく、その場にへたり込んだ。

 人だと思ったのは、電柱に立て掛けられた交通安全の看板。横断中の旗を手に持ったキャラクターの、ヘタクソな絵が書いてある看板だった。

「ゾーン30…………は、ははは……」

 乾いた笑いが漏れる。


「なにやってんだ……俺は……」

「血が出てる」

 と言ってらうは、ハンカチを取り出し、

「動かないでね。ちょっと痛いかも」

 擦りむいた肘と膝の血、そこに付着した砂を丁寧に拭いてくれた。

 痛みはなかった。アドレナリンが出まくっているせいか痛みを感じなかった。


 俺は民家のコンクリート塀に背中を凭せ、体育座りの体勢から片方の足をなげだして、項垂れた。

 少しだけ気が落ち着いて、俺はつぶやいた。

「もう……部屋に帰りたい」


「…………ねえ、ゆーくん? ……ちょっとだけ、いい?」

 俺の隣に、らうがしゃがみ込み、ツッカケの片割れを置いた。

 俺は反応するのも馬鹿馬鹿しくて返事をせずに黙った。

 背中を預けた民家の塀から帽子のツバのように木の枝が伸び出ていて、その青々とした葉が、俺とらうを夏の日差しから守っていた。

 木漏れ日の中で、しばらく沈黙が続いた。


 最初に喋ったのはらうの方だ。

「貧乏神って、取り憑く人間がいないと生きていけないの」

「……」

「養分を吸い取られてダメになっちゃう人間はね、貧乏神が取り憑かなくても、どこかでダメになっちゃう。でも、この世界には貧乏神が取り憑いてもダメにならない人間がいる」

「……俺は前者か」

「ううん。そんなことないよ? ゆーくんはちょっとだけおかしいけど、ダメになる人間じゃない」

 やっぱり、おかしいのか。


 俺はふと顔を上げて、らうの顔に目をやる。

 木漏れ日に照らされて、透き通るような白い肌が浮いて見える。肌にあたった光が乱反射しているようで眩しい。

「でね、私はゆーくんを騙したりしないよ。ちゃんとこうやって貧乏神の説明もしてるし。私はずっとゆーくんに取り憑いていたいからね。だから、ゆーくんが『死にたい』って思うような事はしない」

「したじゃねーか。俺を外に連れ出して……他人に笑われ、」

「それは! ……ごめん」

 悪気はなかった、と言って、らうは正面を向いたままコクリと頭を下げた。

「それで謝ったつもりか……?」

「こんなことになるなんて……思ってなかった。私はただ……一緒に外に出たかった」


「俺は、ひきこもっていたい」

「私は、買い物に行ってみたかった」


「俺は、人前に出たくない」

「私は、デートしてみたかった」


「俺は、お前なんかどうだっていい」

「私は、ずっと一緒にいたい」


「俺は、…………」

「私は、ゆーくんを……」


 言葉に詰まって、俺は黙り込んだ。

 らうも黙ったまま、己の足下をぼうっと見つめていた。

 俺の気のせいか、らうの頬は紅潮しているように見えた。

 と……。

 らうがその細い腕を伸ばし、俺の手を握ろうとした。

 俺は手を引っ込めた。


「俺は、お前なんか嫌いだ」

「私は、…………」


 らうは目を伏せて、頬を強張らせながらも微笑を浮かべた。それは悲しげな微笑にも見えたし、強がりな微笑にも見えた。

 そしてまた、しばらくの間沈黙が続いた。


 俺は呼吸が整ったので立ち上がる。

 部屋に帰ろう……、そう思ったとき。

 ——ぐぅぅぅ。

 腹が鳴った。

 乱れた感情はクールダウンしたが、空腹はどこまでいっても空腹だった。


 らうも立ち上がって、

「コンビニ、行こう?」

「……コンビニは人通りのある所にしかねーから行かない」

「どうするの? お腹ペコペコなんでしょ?」

 心配そうに見上げてくるらう。

 俺はツッカケを履き、らうを無視して歩き出す。

 今になって擦りむいた肘と膝が痛み出した。強打した痛みもある。

 足を引きずるように歩いていると、食欲を刺激される匂いがした。

 眩い夏の日差しに思わず目を細めて前を見れば——食堂があった。

 暖簾を下げてある。営業中だ。


 店の前に立ち、俺はガラス戸越しに店内を覗く。時刻はいつの間にか昼時を過ぎていて、店内に客の姿はない。

 店内の様子を窺っている俺は心の中で思う。

 ——今の俺の姿、第三者視点で見たら店内を物色する変出者じゃないか、と。


「入るの?」

 らうの問いに、俺は挑戦的な行動を取った。

 入るの? が、入れるの? に聞こえたからだ。

 店内に人影はない。コンビニと違って防犯カメラもない。

 料理を注文して、食って、金払って、店を出る。簡単じゃないか。


 ガラガラとガラス戸を開けて、機敏な動きで一番近くのテーブルに着席する俺。

 壁に吊るしてあるのか貼ってあるのか定かでないがメニューが並んでいて、

「春巻き定食 五六〇円 ひとつ」

 店のオバチャンが水を持ってくるよりも先に注文してやった。


 昭和チックなテーブル。今時売ってないだろうというビニール製のテーブルクロスに水の入ったコップが2つ置かれ、注文を取りに来たオバチャンに、俺の正面に座ったらうが、

「味噌ラーメン」と言った。

 俺は数年前に発行されたボロボロの週刊少年漫画雑誌をパラパラ捲った。漫画の内容なんてどうでもいい。料理が来るまでの時間つぶしと、俺に話しかけるなというアピールだ。


「夏休みだからねえ」とオバチャン。「どこか遊びに行って来たの? 素敵な彼女さんで幸せねえ」

「……」

 俺は無言で漫画雑誌を捲る。たぶん、一秒間に3ページは捲っている。

 早く奥へ引っ込めババア、というのが俺の正直な心情だ。


「妹です」

 空気を読んだのか、らうは適当なことを言ってオバチャンのお節介を往なした。

 すぐに注文した料理が来て、俺はあっというまに完食。腹と食欲を満たした。

 いつもはノートパソコンでネットをしながらメシを食べていたので、カーチャンの料理の味は旨かったのか不味かったのか解らなかったが、——というか気にもとめていなかったが、「春巻き定食 五六〇円」は今まで食べて来た料理の中でベスト3に入る旨さだった。

 水をチビチビ飲みながら俺は、らうが味噌ラーメンを食べ終えるのを待った。

 俺だけが先に店を出ても良かったけれど、ツッカケを拾ってきた借りがあるので待つ。


 そう言えばこの前、貧乏神をネットで検索した際に貧乏神は団扇を持っていて味噌が好きとの情報を得た。

 今と昔で若干の違いはあれど確かな事だ。らうが持っているのは団扇の代わりに扇子だし、味噌が好きだから味噌ラーメン。

 それがどうしたって感じだが、敵を知り己を知れば百戦殆うからずと言うから知って損はないだろう。……俺自身のことを俺が一番知らないが……。


 水を飲み干して、俺はふと思った。

 食欲。

 先ほど満たした食欲。

 らうは性欲や意欲と同様に俺の内から湧いてでる食欲も養分として吸い取ってしまう。

 だが今回は、食欲は満腹感を得たことによって自然と消えたように思えた。

 らうは味噌ラーメンのスープをレンゲで掬って飲んでいる。


「旨いか?」

「うん。美味」

 味噌ラーメンに夢中になるがあまり、食欲という”欲”を吸い取ることを忘れたんだろうと、俺は単純にそう考えた。


 支払い時、俺はマジックテープの財布をバリバリ音を鳴らして千円札をだした。

 らうも金をだした。千円札。

 支払いがそれぞれ別という事にオバチャンは驚いていた。

 俺はらうが金を持っていた事に驚いた。

 どこから出たんだよ、その金は。

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