1 皇帝に仕える女の資格
先代皇帝陛下の霊廟で働き始めて、数日が経ちました。
あれ以来、翼ある虎のサダルメリクは毎朝、ミルスウドの学院寮にいる私を迎えに来てくれます。先帝陛下であらせられた方の騎獣に、私なんかが乗っていいのかしら、と思わないでもないのですが、彼(雄です)は乗らないと唸って脅して来るのでどうしようもありません。
なんと、帰りも乗せてくれるのです。でもお昼時なので、早朝と違って町に近づくと人目があります。私は初めて帰りも乗せてもらったその時、町の手前でどうにか降ろしてもらい、
「ここまででいいの。いいのよ。また明日。ね?」
と説得して、急ぎ足で彼から離れました。
サダルメリクはちょっと追いかけるそぶりをしてみたり、クォーン、と鳴き声をたててその場でぐるぐる回ったりしていましたが、私が両手で押しとどめる動作をして遠ざかりながら、
「ありがとう、さようなら。ありがとう、さようなら」
と覚えたてのゼフェニ語で繰り返していると、しぶしぶ(?)飛び去っていきました。
もしかしたら朝も来なくなるかな? と思いましたが、翌朝には当たり前のように寮の外の草むらに潜むようにして待っていました。そんなに見張らなくても、逃げないよ?
薄曇りの空では雲が波のようにうねり、その下の草の波の上を、私はサダルメリクの背に乗って飛んで行きます。上を向いても下を向いても、海にいるような感覚です。
霊廟に到着して鍵を開けると、サダルメリクは門から入って自分の小屋の方へ行きました。鍵を開けるまで待っているなんて、律義ですね……飛べばどこからでも中に入れるのに。
サダルメリクを見送った私は「おはようございます」と声をかけ、敷地に入ります。
……中は静まり返っています。
事務所に入り、胸から下げた火口箱を使いかまどに火を熾しながら、後ろを振り返ってみて。
火を熾したら、事務所をいったん出て、ちょっと辺りを見回して。
廟の建物の鍵を開け、内側から窓も開けて光を入れ、中をぐるりと確認して。
裏の井戸で水を汲み、いったん木桶を地面に下ろして一息ついて――また辺りを見回して。
その頃には、私の周りの空気が細かく震えています。
「……っ、おはようございます、陛下!」
私はもう一度、声を励ましてあいさつしました。そもそも日本で「陛下」なんて誰かに呼びかけたことがないので、その呼称を口にするたびにドキドキしてしまうのです。
ふうっ、と陛下の白い姿が現れました。空気の振動は、陛下の含み笑いが伝わっているのです。ガウンを羽織ったお姿は、光の加減によって人間らしく見えたり半透明に見えたりします。陽射しが弱い今日のような日は、陛下のお姿はかなりはっきりと見えていました。
陛下は腕を組んで、喉の奥で笑っています。
「くくっ、ちょこまか動いてはふっと顔を上げて辺りを見回し、またちょこまかと動いては顔を上げ……お前、草原に住む小動物のようだな」
……プレーリードッグとか?
だ、だって陛下がいらっしゃるとわかってるのに、お姿が見えないと気になるじゃないですか……うう。いやでも、気を散らしてたらいけないですよね。ちゃんと働かないと。
「申し訳ありません、集中します!」
私は急いで、重い木桶を両手で持ち上げて廟の入口に向かいます。
「悪いとは言っておらんが」
ちょっと鼻白んだ様な声に、私はまたもや「しまった」と思います。陛下の冗談を変な風に返してしまったようです。融通がきかない所が、私の短所です……。
「トーコは、元の世界では働いていたのだな」
私の様子をじっと観察していた陛下がおっしゃいました。陛下は私にしょっちゅう話しかけて来られます。良い暇つぶし、だそうです。
「はい。車を……えっと、乗り物を扱う会社です」
こちらには自動車がないので、私はそう答えます。こちらの移動は馬か、馬車か、舟なので。偉い方は、サダルメリクのような騎獣を飼ってらっしゃるようですが。
陛下は質問をお続けになります。
「夫は」
「いません。一人暮らしでした」
すると陛下は、右手を伸ばして私の額に手をかざしました。瞳を閉じて、二秒、三秒。
「うむ。嘘ではないようだな」
えっ。あ、そういえば病院のお医者様もこんな動作を……。ええっ。
「心を読めるんですか!?」
「嘘をついているかどうかがわかるだけだ。呪い師なら、もう少し詳しいことがわかるだろうがな」
陛下は手を降ろします。呪い……私にとっては超能力です。すごい!
密かに興奮する私に、陛下は思いっきり冷水を浴びせました。
「お前、その年でまだ結婚していなかったのか」
ぐっさぁ。ま、まだ二十五なのに……まあ、この国では十代で結婚するのが当たり前みたいですからね。
日本の平均結婚年齢の話などして言い訳がましいと思われても嫌なので、私はただシンプルにこう答えました。
「しっ、してませんでした」
微妙に声が上ずってしまったのは気のせいでしょう。ええ、結婚どころか、就職してからこっち恋人もいませんでしたが、それが何か?
「皇帝に仕える女は、独身が基本だ。お前は私の所に、来るべくして来たのかもしれないな」
陛下は顎を撫でながら納得しておいでのようですが、待って下さい。皇帝に仕える?
「私はただの、霊廟という『建物の』管理人ですが」
「大して変わらん」
そ、そうですか? 何だか陛下の理屈だと、お前もう結婚するな、的に聞こえるんですが?
「それにしても……こちらでは私、立派な嫁き遅れ、なんですね……」
ちょっとショックを受けていると、陛下はニヤニヤ。
「だから言っておろう、早く死んでこちらに来いと。嫁き遅れでも私が幸せにしてやるぞ」
何をおっしゃりやがるんですかこの陛下は!
「い、嫌ですっ」
私は建物を飛び出しました。陛下の笑い声が聞こえます――からかわれたんだ、全くもう!
私はぷりぷりしつつも、はっきりと「嫌」と言えたことに、不思議な開放感を感じていました。上司にこんなにハッキリ物を言えたことなんて、あったかしら?
私は独身ですが、血縁者はもちろんいます。母は幼い頃に亡くしましたが、父が最近ようやく素敵な方と巡り合えて再婚したので、実家には父と後妻さんがいるのです。
自分のことに必死で、もうずっと実家に帰っていませんでした……今ごろ、お父さんたち、どうしているでしょう……。
掃除が一通り終わり、私は事務所の前のテラスに露台を出して参拝客を迎える準備をすると、手帳を広げました。自分の鞄に入っていた仕事用のスケジュール帳ですが、後ろの余白ページにこちらで学んだ言葉をメモしてあります。勉強、勉強。
そこに『香木』を意味する言葉があるのを見て、私はふとつぶやきました。
「そういえば陛下、私の香りのこと……」
「何だ」
「わっ」
陛下が私の手帳を見下ろす位置で、露台に腰かけていたのです。いきなり近くに出現されるのは、まだなかなか慣れません。
「いっ、いえ。陛下がおっしゃってたなと。私の香りが、こちらに馴染んでいない、って」
私はつっかえつっかえ言いました。
「香木をお供えするのもそうですが、死者……いえ、陛下は、香りがおわかりなんですね」
「ああ。食欲は全く感じないが、香りで満たされる感覚がある」
陛下はうなずきます。
そういえば日本でも以前、お坊さんが「仏様はお線香の香りを食べるんですよ」っておっしゃってたのを聞いたことがあります。こちらもそういうことなんでしょうか。
「香木の香り、お好きですか?」
「悪くない。……お前の香りも、変わってはいるが悪くないぞ」
「そ、そうですか」
少し陛下の顔が近づいた気がして、思わず私は若干身体を引いてしまいました。