6 上司と部下とお目付け役
「これは面白いな」
くっくっという声に気づいてハッとすると、陛下が喉の奥で笑っていました。
「お前、名は……そう、トーコとか呼ばれていたな。くくっ、面白い暇つぶしができた」
アルドゥンさんとの会話から、名前はとっくにばれているようです。ちょっと、暇つぶしって……いえ、それよりも!
「あの、陛下、あの、申し上げてもよろしいですか? この状態は、良くないのですよね?」
尋ねる私に、陛下はまた片方の眉を上げます。
「この状態とは?」
「お亡くなりになっているのに、ここにいらっしゃる状態です!」
私は説明を試みました。
「私の国では『化けて出る』って言うんですが、何か未練があってこちらの世界に縛られて、ええと、永遠の眠りにつけなくて周りに悪い影響を与える状態のことです!」
「何だ、お前、自分が害されるのではないかと気にしているのか?」
面白そうな陛下に、私ははっきりと言います。
「私のことじゃありません! 気になるのは陛下のことです!」
すると陛下は、どういう脈絡なのか、ふわりと優しい微笑みを浮かべて言いました。
「ああ……それは気にしなくて良い」
さらりとお話は終了。えええ、いいんですか? 本当に?
そうこうしているうちに、参拝客が次々とやってきて、私は陛下とお話ししている場合ではなくなりました。
半分上の空で対応している間に、午前中はどんどん過ぎ、ふと時計を見たらもう『黄の刻』から『緑の刻』に移り変わろうとしています。ちらりと見回すと、陛下の姿は見えません。
「…………」
私は参拝料を持ち帰るべく、袋に入れて懐に入れました。学院の事務室で保管してもらうのです。それから香木と露台を倉庫に片付けて事務所を施錠し、廟の鎧戸や扉も施錠します。
少し気になって廟の裏手を覗くと、サダルメリクは地面に寝そべっていました。誰もこの虎を繋がなかったってことは、このままでいいんですよね。飛べるんだから出入り自由だし。
陛下はどこに行かれたのかな、とチラチラ後ろを振り返りながら入口まで戻り、門を閉めようとしたら、ヒュオッと風が私の髪を舞い上げました。
ぎょっとして髪を抑え、パッと見上げると、真っ正面の少し離れた場所で、陛下が私を見ていました。こちらには出てきません。
ここから離れられないとおっしゃっていましたが、そういうものなんでしょうか……。
陛下は無表情のまま、こう言いました。
「私のことは、誰にも話すな」
「……他の人には、見えないのですよね? 信じてもらえないでしょうから、言いません」
失礼にならないかと緊張しながら私が答えると、陛下はやや間を置いてから、
「……それでいい」
とうなずきました。
あれ? 誰にも話すなって、そういう意味じゃなかったのかしら……。
「ではな」
声だけを残して、陛下の姿はスッと見えなくなりました。
「失礼します」
私は門を閉め、施錠しました。がちゃん、と真新しい金属製の鍵が、大きな音を立てます。
まるで、あちらの世界とこちらの世界を、はっきりと隔てるように……。
その日、学院の食堂で川魚のフライのような昼食を食べながら、陛下のことを考えました。
気にしなくていい、なんておっしゃってましたけど、本当にあのままでいいんでしょうか。私が怖がってあそこの仕事を拒否したら、どうなるんでしょう。変なうわさが立って、誰も近寄らなくなったりしたら。陛下とサダルメリクの二人っきりで、ずっと……?
結局その日、私は陛下に申し上げた通りハティラ先生にも誰にも、陛下と出会ったことを言いませんでした。
翌朝、まだ薄暗い『赤の刻』。
身支度をした私が寮の裏口から外に出ると、なんと、サダルメリクが待っていました。
「お、おはよう、どうしたのこんな所に」
まだ寮は寝静まっているので、ささやくように声をかけると、彼は私のお腹に優しく頭突きをしました。
恐る恐る首のあたりを撫でてやると、彼はそのまま私をぐいっと押したのです。バランスを崩した私があわててサダルメリクの背中の毛皮に捕まると、彼はすくい上げるようにして私を背中に乗せてしまいました。
「え、ちょっ、どう、きゃー!?」
そのままサダルメリクが助走をつけ、地面を蹴ったので、私は思わず悲鳴を上げました。
「乗る、ちゃんと乗るからちょっと待って!」
朝焼けに照らされた草原の海を、翼ある虎は風に乗って飛んで行きます。ずっと飛び続けることはできないようで、時々地面に足をつけて軽く走り、勢いをつけて再び滑空。まるでトビウオみたい。なんて気持ちいいんでしょう! 揺れないし、毛皮はふわっふわだし、乗り心地最高です。貴人の騎獣になるのもうなずけます。
そうしてあっという間にたどり着いた、丘の上の霊廟。興奮冷めやらぬまま門の鍵を開けると、そこにはすでに陛下の半透明のお姿がありました。サダルメリクはすぐにそちらに向かい、陛下の足元をうろちょろします。
サダルメリクをお迎えに来させて下さったのだろうと思って、お礼を言おうとすると、陛下は口の端を片方だけ上げてゆがんだ笑みを浮かべました。
「お前が私を恐れて来ないかもしれぬと思い、こいつを迎えに行かせた。お前は私のそばに侍るのだ、逃げられると思うなよ」
全く……偉い方の思考って、どうしてこうなのでしょうか。私は内心ちょっぴり呆れながらも、笑って見せました。
「逃げたりしません。それに、侍るつもりもありませんから」
私の腹は、すでに決まっていました。会社でろくな仕事もできないままこちらに来てしまった私です……しかも、覚えていませんが、仕事の辛さから「逃げた」可能性さえあります。
新しいお仕事からは、逃げません。たった一人の上司(陛下)にたった一人の部下(私)という、なかなかハードな職場であっても。
「私は、陛下のご寝所の管理人になったのですから」
そう言うと、陛下は軽く目を見開いてから、さっきと違って心底楽しそうに笑い出しました。
まあ正直なところ、サダルメリクというお目付け役までついて、逃げたくても逃げられない感じになって参りましたが。
私と陛下の日々は、こうして始まったのです。