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5 霊と墓守と参拝客

 えっ。

 私はゆっくりと、振り向きました。

 背の高い男性が、そこに立っていました。前髪は短めですが、耳の後ろから首筋を隠すくらいまで、髪がさらりと流れています。太い眉にややつり上がった目、すっと通った鼻筋の下に大きな口が弧を描いています。着物のように裾が足首まであって腰で縛る、でも立て襟の服の上に、白い膝丈のガウン。ぺたんこ靴。

 いつの間に入って来たのでしょう。あっ、受付……いえ、それよりも今、なんて。

 男性はゆったりと腕を組みました。

「ずっと様子を見ていたぞ。ほんの数語しか話せないのかと思えば、流暢に話せるではないか。なぜ言葉がわからない振りをしている。異国の間諜か? それにしては、要領の悪い娘だな」

「言葉が……わかる」

 私はびっくりして、一歩男性に近寄りました。

「ど、どなたですか? よく日本語をご存じなんですね……日本にいらしたことが?」

 男性は片方の眉を上げました。

「日本語? 私が話しているのはゼフェニ語だ」

 その時、サダルメリクがさっと立ち上がって、男性の方に近寄りました。

 あっ、いけない! 知らない人に急に! とっさに虎を引き留めようと両手を首にかけましたが、逆に引っ張られました。私は虎ごと男性にぶつかりそうに……。

 あれ? ぶつからない。

 私はサダルメリクに引っ張られるまま、男性の身体をすり抜けてしまいました。手を離すと、サダルメリクは男性の周りを一周し、それから前脚をふみふみして興奮しているようです。

「少し待て、サダル。……お前、異国語を話しているのか。しかし私にも言葉がわかるぞ。ふむ……今の私は、意志の疎通を言語ではないものでしていることになるのか」

 男性はニヤリと笑って顎をなでました。

「死後の霊体も、面白いものだ」

「死後……?」

 つぶやきながらよくよく見ると……男性の身体はぼんやりと透けて、石垣が見えています。

 ゆ、ゆ、幽霊……?

 私は腰が抜けてへたりこんでしまいました。

 男性はそんな私の前に片膝をつき、立てた膝に腕をかけて私の顔をのぞき込みました。

「大丈夫か?」

 そう言って、喉の奥でクックッと笑っています。

「……誰……あなたは、どなたですか……?」

 顔を引くようにしながらもう一度尋ねると、男性は顎を軽く上げて廟を示しました。


「ここに埋葬された、本人だ」


 脳裏に、タラコくちびるの肖像が浮かびました。

 ……眉毛なら、ちょっと似てるような……?

 なんてことでしょう。私の目の前にいるのは、ここに埋葬されたゼフェナーン帝国先帝陛下、その人の霊だったのです。

「これが私から引き離されるのを阻止するとは、良い働きをしたな。娘」

 陛下は目を細め、サダルメリクに優しい視線を送ってから、私を見つめました。

 視線が外せません。何でしょう、こんな、引力みたいなもの……他の人からは感じたことがありません。幽霊だから恐怖を感じているのかと思いましたが、それとも違うみたいです。

 ああ……これが『皇帝』、ということなんですね、きっと。

 皇帝に、何てお返事すればいいんでしょう。頭の片隅を一瞬、「ありがたき幸せ」とか「恐悦至極に存じます」みたいな台詞がよぎります。時代劇みたいです。

 私は唾を飲み込んでから、かろうじてこう答えました。

「いえ……殺されそうだと、思ったら、つい」

 すると、先帝陛下は呵々と笑いだしました。

「そんなことを言っていたな。あの薬は、おそらく眠り薬だ」

 え、な、なんだぁ……。ですよね、先帝陛下が大事にしていた動物をいきなり殺したりしませんよね。殉死とかそういう文化があったとしても、もう埋葬されてからずいぶん経ってるし。

「ど、どんなお世話をすれば……餌はどうするんでしょう」

 サダルメリクと陛下を見比べながら言うと、陛下はまたちょっと笑いました。

「本当に言葉がわからぬのだな。朝、世話係が餌をやっていたぞ。今後は午後に、この丘のどこかに餌を置いておくとか言っていた。足りなければこいつは勝手に狩りに行く」

 あの飼育係さん、そんなこと言ってたんですか。

「参拝客が来たぞ。ここにいて良いのか」

 陛下が門の方へ視線をそらします。

「あっ、はい」

 私は目が覚めたように我に返り、すり寄って来たサダルメリクに捕まってへっぴり腰で立ち上がりました。門の向こうの石段を、おじいさんが一人えっちらおっちらと上ってくるのが見えます。よく早朝の散歩がてら(?)参拝にいらっしゃるおじいさんです。

 すうっ、と、陛下が動きました。普通に歩いているように見えますが、スピードが速いです。少し離れるだけで、陛下の姿は光に透けて見えにくくなりました。

 それを見て、私は変に納得しました。幽霊は夜に出てくるものだと思っていたけど、そうじゃないのかも。いつもいるけれど、昼間は光が邪魔をして見えないんだ。

 そして現代日本では夜も明るいから、幽霊が見えにくくなってるけれど、昔の人はもっと見えていて、だからこそ信心深かったのかもしれない……。

 陛下は事務所の露台のところまで行って、口に指を二本当てました。ピィッ、と、風が鳴る音。サダルメリクが耳をピンッ、と立て、私をつかまらせたまま露台の方へと歩いてくれました。私が露台にたどり着くと、虎はサッと方向転換して軽く地面を蹴り、滑空して廟の裏側へすーっと回り込んで姿を消します。気づいたら、陛下の姿もありません。

 昨日聞こえたあれも、陛下の口笛だったんですね。

 ともかく、私はいつもどおりに、参拝客をお迎えすることができました。

 おじいさんから参拝料をもらって香木の包みを渡し、お互いに軽く頭を下げると、おじいさんは廟の方へ歩いていきます。参道の脇に、陛下が立っているのがかろうじて見えます。おじいさんは彼に向かって歩いていきます。二人の距離がどんどん縮まります。

 え、え、おじいさん……。

 陛下は、すれ違うおじいさんに軽くうなずきかけました。おじいさんは何も反応せず、そのまま廟に入っていきました。

「……見えて、ないんだ」

 私は日本語でつぶやきました。

「見えないのが普通だと、私は思っていたぞ。お前が変なのだ」

「わっ」

 ぱっ、と横を見ると、いつの間にか陛下が露台に浅く腰かけて足を組んでいます。悔しいけど、白い服装といい偉そうな態度といい、ぴたりとハマっています。

「お前、呪い師か?」

 まじない……し?

 良く意味がわからない私に、陛下はもう一度言いました。

「日本という所から来たと言ったな。お前の国の民は皆、死者の姿を見、声を聞くのか?」

 私はぶんぶんと首を横に振りました。霊感なんかゼロです。

 陛下は続けます。

「日本……聞いたことがないな。私が知らないのだ、よほど遠いのだろう。ここに来たときの様子を見ていたが、お前は天涯孤独のようだな。売られてきたのか」

 う、売られ……? パスポートはなくなってはいるけど。

「それにしても、我が帝国を知らない者がいるとは……気に入らんな」

 陛下は鼻を鳴らしました。

「お前の国、属国に下してやりたい」

 いやいやいやいや! 日本に何しようとしてるんですか!

「どうやって! あなた死んでるじゃないですかっ」

 思わず突っ込んで、あわてて両手で口を抑えました。偉いお方に、何て口を。

「も、申し訳ありません」

 謝ると、陛下は私を横目でじろっと見てから、口元をゆがめて皮肉な笑みを浮かべました。

「口のきき方を気にしてどうする。私が怒ったところで、せいぜい風を動かすことくらいしかできんぞ。この場所からは離れられないしな。もう死んでいる私におもねる必要はない」

「偉い方だから、おもねる、と言うわけではなくて」

 びくびくしながら、私は言いました。

「私は、死者に敬意を払う国から来ましたので……」

 陛下は口元から笑みを消すと、私を見つめました。そして、片方の眉を器用に上げます。

「ん? ……お前、普通の人間と違うな」

 私は「えっ」と息を呑みました。

「私は、死者だ。この身体が生身ではなく、どこか深い眠りの底から意識だけを投影している感覚がある。お前にも、似て非なるものを感じるな。生身はここにあるのだが、魂の一部だけが重なっていない。どこか別の場所に置かれているようだ」

 陛下は、まるでサダルメリクのように私の周りをぐるっと一周しながら、私を観察します。

「それにその髪も……肌も……顔立ちも。香りもだ。馴染んでいないのだ、こちらの世界に。お前、はるか遠い、異なる世界からやって来たのだな」

 とんでもないお話なのに、腑に落ちた感覚がありました。

 そうか。陛下のおっしゃることが本当なら、私は「日本」が存在しない世界に、迷い込んでしまったのです。誰も私を探しに来ないのは、来られないから、だったのでしょう。

 パスポートだって、道理で持っていないはずです。私は、パスポートで渡る国ではない、パスポートが要らないほど遠い場所へ来ていたのですから。

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