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後編

 月日は流れ、翼虎の母親は少しずつ快方に向かった。しっかりと肉を食べるようになり、時折石組みの中から姿を見せる。あたりを威嚇するように歩き回る様子は、まだゆっくりしたものではあったし、翼は力なく垂れていたが、全快も近いと思われた。

 そして、仔と同様に母虎の方も、トゥーカが食事を持って近づくのだけは許しているようだ。が、トゥーカが毛を梳いてやろうと櫛を見せた時には、苛立ったようにうなり声を上げた。触れられるのは我慢ならないらしい。

「しかし、この分なら、ここでこのまま過ごせば母仔とも人間を攻撃するようなことにはならなそうだな」

 丘の麓から霊廟を見上げ、バーシュが言うと、ダウードもうなずいた。

「はい。少なくとも、仔が飛べるようになるまでは、ここから動かないかもしれませんしね。その間に」

「ああ。何とか私を、仔に印象づけておかねば」

 バーシュが振り向く。ダウードが彼の視線を追うと、トゥーカが家から出てきたところだった。

 バーシュは黙ってダウードの傍を離れると、こちらに気づいて頭を下げるトゥーカに近づき、彼女と共に丘を登っていった。仔に、いつも彼女と一緒にいて会話しているところを見せ、慣れさせるつもりだろう。

「……殿下はトゥーカを、どうなさるおつもりなのかな」

 ダウードはつぶやくと、そのままそこで周囲の見張りに立ったのだった。


 トゥーカが起き出す早朝には、家の中は静まりかえっている。バーシュと、彼の部屋の隣で眠っているダウードを起こさないようにしながら、トゥーカは静かに身支度をして勝手口から外に出る。

 最近では、翼虎の餌になる肉はダウードの部下が用意するようになっており、彼女はそれを入れた袋を持って丘を登った。気配を感じ取ったのか、仔が霊廟から飛び出して駆け下りてくる。

「はいはい、ちょっと待って。お母さんと一緒に食べるのよ」

 トゥーカは足を速め、息を弾ませて石組みにたどり着くと、そこに袋を置いて広げた。のっそりと出てきた母虎が、彼女をじろりと見る。

「召し上がれ」

 トゥーカはそう声をかけてからその場を離れ、石組みの裏手にある井戸に行って水を汲んだ。桶に入れて戻ってくると、翼虎の母仔が肉に食らいついている横の水入れに桶をあける。

 火をおこし、霊廟を掃除して香を焚き、祈りを捧げると、トゥーカは袋を回収してから急いで丘を下りた。次は朝食の支度だ。

 朝はこんな風にあわただしく過ぎて行くが、昼間は比較的時間が空く。そんな時は、本を読んだり籠を編んだりして過ごすこともあったが、バーシュとダウードが剣の稽古をしているのをこっそり見ることもあった。

 彼女は、バーシュたちが何者なのかはっきりとは知らない。ただ、皇太子の直轄領であるこの地で権限を持っている様子から、おそらくは……と見当をつけていた。

 だが、それが当たっていようがいまいが、どちらにしろ雲の上の人々である。彼女はただ、彼らの役に立てるよう働くだけだった。


 そんな毎日が過ぎるうちに、家に何人かの客人が訪れるようになった。バーシュと同年代か、それ以上の男ばかりで、バーシュやダウードと声を潜めて話をしては、帰って行く。

 客人が来ると、バーシュは家の庭ーーとも言えないような小さな空間だがーーに咲いた青い花を一輪手折り、自分の部屋の入り口脇に置く。この花がある時は近寄るなという合図で、トゥーカも茶などの準備はしなかった。


「何か、あったのですか?」

 一度だけ、心配になったトゥーカが仔に餌をやりながら尋ねると、見張りに立っていたダウードが微笑んだ。

「バーシュ様は、この地方に知り合いが多い。それだけだ」

「トゥーカ」

 丘を登ってきたバーシュが、ひょい、と小さな包みをトゥーカに渡す。

「クレエラの菓子だ、うまいぞ」

「クレエラの!」

 トゥーカはぱっと顔を輝かせ、包みに顔を近づけた。

「いい香り! 都の花の香りをつけてあるのかしら……? ありがとうございます!」

「お前は簡単に喜んで、いいな」

 バーシュは腕を組んで言い、仔に視線を落とす。

「こいつもこのくらい簡単だといいんだが」

 ダウードが呆れて言った。

「トゥーカを菓子で餌付けしているようなことを言わないで下さい、バーシュ様」

「ははっ、餌付けされているのはどちらかというと、トゥーカの飯で暮らしている私たちか」

 破顔するバーシュに、思わずトゥーカが噴き出す。バーシュは口の端を上げた。

「笑顔が増えたな」

「あっ……」

 はしたなかったかと俯くトゥーカに、バーシュは眉を上げる。

「何を済まなそうにしている。お前が笑っている方が、私は」

 言いかけて口をつぐんだバーシュを、トゥーカは見上げた。

 視線が合う。バーシュの瞳が何かを語っているような気がして、トゥーカは読み取ろうとした。

 バーシュは目を細めた。

「……仔も、お前が私に笑いかけた方が、警戒しなくなる」

「あ、はい……そうですね」

 何だったのだろう、と不思議に思いながらもトゥーカはうなずき、ためらいがちに微笑んだ。


 ある日、午後の茶を淹れてバーシュに運んでいったトゥーカは、部屋の手前でバーシュとダウードが話しているのを耳にした。

「エニファが?」

 バーシュの声に、ダウードが答える。

「こちらを一度訪ねたいと、おっしゃっているようですよ」

「ふん……姫君が、こんな所にわざわざか」

「皇太子の直轄地で翼虎の訓練場とあれば、一度は見ておきたい……と言うことでしょう。表向きは。婚約者がなかなか顔を見せないわけですし」

「仕方ないな。一度、クレエラに戻るか。エニファに顔を見せておかねば」

「そ……誰だ?」

 ダウードの声が廊下に飛んでくる。はっ、とトゥーカが身体をすくませた拍子に、茶器が騒がしい音を立てた。

「し、失礼します!」

 トゥーカは部屋の入り口に立つと、茶器を載せた盆を板張りの床に置いて、深く平伏した。

「申し訳ありません、お話の邪魔をしてはと……すぐに失礼いたします!」

 彼女はバーシュやダウードの顔も見ず、すぐに身を翻してその場を立ち去った。

 そのまま外に飛び出し、丘を登る。翼虎のいる方は避けて、井戸のある方へ回り込んだ。

 井戸の縁につかまり、はぁ、と息をつく。なぜか動揺している自分に戸惑った彼女は、その場からしばらく動けなかった。

「トゥーカ」

 声がかかり、はっとして振り向く。

 バーシュが立っていた。

「あっ……さ、先ほどは、申し訳」

「何も怒っておらん。謝るな」

 バーシュはトゥーカに近づくと、身体の向きを変えて井戸に寄りかかった。

「あのっ……バーシュ様の婚約者の方が、おいでになるのですか」

 トゥーカは胸に拳を押しつけるようにしながら、声を押さえて話す。

「どんな準備をしたら良いのでしょうか、私」

「いや、こちらには来させない。二日後、私は一度クレエラに帰るから、トゥーカは気にせずとも良い」

 腕を組んで低い声でそう言ったバーシュは、少し声の調子を変えた。

「それより、お前の家はどうだ。最近は、養父母と会ったのか」

「一度、母が出産した時に、お祝いに行きました」

 トゥーカはうつむきながら話す。

「それ以外は、私の方からは訪ねていません。赤子の世話で精一杯で、母も気が立っているからと、父が。霊廟での仕事をしっかりやりなさいと」

「そうか。まあ、ここで暮らすことに文句が出ていないのなら、それで良い」

 バーシュはうなずき、そして言った。

「では、お前に結婚を勧めてくることも、今はないのだな」

「……は、はい」

 トゥーカは視線を泳がせる。

 バーシュはその様子を見て、眉をしかめた。が、そのことには触れず、草原の彼方に目をやった。

「お互い、色々と面倒だな。この地で、翼虎の訓練だけしながら、トゥーカの飯を食って暮らせたらいいのだが」

 トゥーカが顔を上げると、バーシュが彼女を見つめて微笑む。

「お前が、そんなのは嫌か」

「……いいえ……」

 バーシュの瞳から目が離せないまま、トゥーカは首を横に振った。バーシュはゆっくりと、井戸から身体を離す。

「トゥーカ」

 バーシュの手がふと伸び、トゥーカの額にかかっていた髪を指先で払った。思わず、トゥーカは身を竦ませる。

「……必ず戻るから、仔を頼む」

 バーシュは手を下ろすと、丘を下っていった。トゥーカは胸の前で両手を握りしめ、その後ろ姿を見送った。


 その夜。

 翼虎の咆哮が聞こえ、トゥーカはハッとして目を開いた。

 すぐに寝床を抜け出し、寝間着の上に外衣を羽織る。勝手口から外に出ると、丘の上、霊廟のあたりに灯りが見えた。

「トゥーカ」

 声がして振り向くと、バーシュが彼女の隣に立ったところだった。

「霊廟に近づくな。今、兵士が様子を見に行っている」

「はい」

 外衣の前をかき合わせ、トゥーカは丘の上を見上げたまま待った。何が起こったのかと、心配で胸が苦しくなる。

 丘の上にあった灯りがいくつか、草原へと下り始めた。そのうちのひとつが、バーシュとトゥーカの方へ近づいてくる。

 灯りの中に、ダウードの顔が見えた。

「何者かが、夜中に霊廟に入り込みました」

 ダウードがバーシュに報告する。

「翼虎のいる石組みの中に、火のついた松明を投げ込んて逃げ去ったようで。今はもぬけの殻です。翼虎が、口に何かぶら下げて草原を滑空する姿を兵士が目撃しましたので、おそらく仔を連れて逃げ出したのだと」

「何者かが、虎を追い出したというのか」

 バーシュが怒りの気配をまとう。トゥーカは両手で口を押さえたまま、何も言うことができなかった。

「……怒った虎に遭遇しては危険だ。向こうは夜目がきく。朝になってから捜索するように、兵士たちに伝えろ」

「は。……くそっ、こんな時に」

 舌打ちをしたダウードは、すぐにその場を立ち去った。こんな時、とは何のことか、トゥーカにはわからなかったが、彼女は黙っていた。

 バーシュはしばらく何か考えていたが、やがてトゥーカを見ると、軽く肩を叩く。

「……心配するな、そう遠くには行かないだろう」

「でも……」

 もう、この場所が嫌になってしまったのではないか。そう心配したトゥーカは、続ける。

「もし、母仔を見つけて、私が何かの役に立つようでしたら、お申し付け下さい」

「わかった。今日はもう休め」

 バーシュはうなずき、もう一度彼女の肩を叩くと、部屋に戻っていった。

   

 翼虎の母仔は見つからないまま、バーシュとダウードはクレエラに出発していった。

 トゥーカはいつもどおり、霊廟をきれいに保ち、翼虎の餌だけは用意しながら、翼虎とバーシュたちの帰還を待った。しかし、五日が経ち、六日が経っても、どちらも戻っては来なかった。

「こんな時に」と言った、ダウードの口調が思い出される。バーシュたちに何かあったのではないかという不安を抱きながら、トゥーカは時折クレエラの方角を眺めるのだった。


 その頃、トゥーカの養父が家を訪ねてきた。

「翼虎がいなくなったそうだな。村はどうなるのだ、また以前のように戻るのか」

 心配する養父に、まだ何もわからない、と首を振るトゥーカ。養父は続ける。

「お前はどうなる。女官の任を解かれるのか?」

「わからないわ。とにかく、バーシュ様たちがお戻りになるのを待たないと」

「戻らないならばいっそ、お前をクレエラに連れて行って下されば良かったものを」

 悔しげに、養父は首を振る。

「若い娘に手をつけておいて、このような小さな村に捨て置かれては……嫁ぎ先も見つかるまい」

「お父さん、私はそんな! バーシュ様には女官としてお仕えしていただけよ!」

 驚いて声を上げるトゥーカを、養父は痛ましげに見つめる。

「周囲がどう見るかということだ、トゥーカ」

 何も言えず、トゥーカはうつむく。養父は立ち上がり、

「私はお前を見捨てはしない。遠方の親戚の所へ行ってもいい、そこなら噂も届かないだろう。心配はいらないから」

と言いおいて帰って行った。

 

 間もなく、この地に残っていた兵士にもたらされた知らせが、トゥーカにも伝えられた。

 首都クレエラで政変が起こり、戒厳令が敷かれたらしい、と。


 その日の夕刻も、トゥーカはいつものように、翼虎の餌を準備していた。

 彼女たちのような一介の民は、政変などという歴史的な事件には関係がない。関わろうとしても関われない。彼女にできるのは、ただ待つことだけだった。

 陽が落ちる前にと、井戸で水を汲んでいると、草を踏む足音がした。

 トゥーカは、ハッと顔を上げる。

 しかし、そこに立っていたのはバーシュでもダウードでも、養父でもなかった。

「……あなたは」

 トゥーカは一歩、後ずさる。

 以前、養父の後妻がトゥーカと娶せようとした、初老の男だった。

「そろそろ、寂しくなっただろう? 俺のところに来い」

 男は一歩、トゥーカに近づく。

「翼虎がいない地になど、もうあの高貴なお方も戻っては来るまい。俺は気にしないぞ、お前が傷物でも。妻にしてやる」

「まさか」

 トゥーカはそれに気づいて喘ぐ。

「あなたが、翼虎を追い払ったんですか?」

「あいつらが来なければ、いずれお前は俺のものになったのだ。元に戻るだけだ、そうだろうトゥーカ」

 男が足を速め、手を伸ばしてきた。トゥーカは身を翻し、井戸を回り込んで走り出した。霊廟の石組みの方へ逃れようとして、崩れかけた石につまずく。

「あっ」

 手をついたトゥーカが立ち上がる間に、追いつかれる。どん、と突き飛ばされ、トゥーカは悲鳴を上げて草むらに転がった。

「トゥーカ」

 のしかかられ、荒い息が肌にかかる。悲鳴を上げたつもりが、小さなかすれ声しか出ず、トゥーカは必死で身体をよじった。

 その時、うなり声がした。

「ぎゃっ」

 男がトゥーカの上から跳ね起きる。胸元をかき合わせながらトゥーカが身体を起こすと--

 男の足首に、小さな翼虎が噛みついていた。

「離せっ」

 男が足を大きく振ると、仔は遠くへ飛ばされ草むらに落ちた。しかし、すぐに立ち上がって足を踏ん張り、うなる。

「くそっ」

 近くに置かれていた薪を一本つかむと、男はトゥーカの腕をつかみ、引きずるようにして歩き出した。仔が飛びかかってくると、薪で追い払う。仔の顔を薪がかすめ、きゃん、と鳴き声が聞こえた。

 男が自分を家の中に連れ込もうとしているのに気づき、トゥーカは気力を奮い起こして暴れた。

「……嫌っ、離して……!」

 どうにか男の腕を振り払ったトゥーカは、仔に駆け寄った。このまま残しては行けない、と抱き上げ、逃げようとする。その一瞬に、また追いつかれる。

「お前……!」

 薪を振り上げる男の姿に、トゥーカは反射的に目をつぶった。

 

 ゴッ、と、固いものがぶつかる音。


 トゥーカがおそるおそる目を開くと、男は足下に伸びておりーー

 鞘から抜かないままの刀を手にしたバーシュが、彼女の傍にかがみ込むところだった。

「トゥーカ」

「……バーシュ様!」

 トゥーカが震える腕を緩めると、翼虎は彼女の膝から地面にすべりおりた。興奮してあたりを駆け回っているが、逃げる様子はない。

「翼虎に助けられたか」

 バーシュはつぶやくと、トゥーカの腕をつかんで胸に引き込んだ。良い香りのする外衣に顔が埋まり、トゥーカはうろたえる。

「あ、バーシュ様……この仔を見つけて、お戻りに……?」

「いや、違う。戻ってみたら、翼虎がお前を守っているところだったのだ」

 バーシュは彼女を抱きしめたまま、言う。

「母虎はまだ全快しておらず、途中で飛べなくなったところを別の獣にやられたらしい。死んでいるのが見つかった。仔は見あたらなかったのだが、どうしようもなくなってここに戻ってきたのだな」

「で、では、バーシュ様はなぜ」

「まあ、簡単に言えば、首都から逃げてきた」

 バーシュは苦笑混じりに説明する。

「首都で政変があったのだ。皇帝がその弟に皇帝の座を奪われた。皇太子の位も、兄帝の息子から弟帝の息子に移った。その関係で、まあ……私も用なしになったのだ。ふん、あちらの行動が意外と早かったな」

「あの、私には、難しいことはよくわかりませんが」

 まだ動揺して震えている声を励ましながら、トゥーカは尋ねる。

「用なしって、それでは済まないのでは?」

「よくわかったな」

 バーシュは笑う。

「処刑されないとも限らないからな。それで逃げてきたのだ。済まない、この地はしばらく騒がしくなる」

「えっ……」

 トゥーカがはっとしてあたりを見回すと、丘の麓には見たこともない光景が広がっていた。

 いつの間にか、騎馬の兵が何百も並んでいる。

「叔父が動くことは、予想していたのでな。ここを拠点に密かに準備をしていた。本当は向こうが行動を起こす前に潰そうと思ったのだが、読みが甘かった。まあ、首都でも色々と根回しをしてあることだし、ここから取り戻す。……翼虎がいなくなった時には、天に見放されたかと思ったが……お前がいてくれたから、翼虎は戻ってきた」

 バーシュはトゥーカを支えて立ち上がった。翼虎がくるくると周りを駆けめぐる。

「トゥーカ、お前は私に様々なきっかけと幸運をもたらす娘だ。本当は全て終わってからと思ったが、もう私のものにする。父と私が帝国を奪還した暁には、お前を妃にしよう。望みも何でも聞いてやる」

「……は?」

 全く縁のない言葉を、トゥーカの頭は完全拒否した。

「申し訳、ありません、何のお話か……」

「これからゆっくりわからせてやる。とにかく、お前をずっと私の傍に置くということだ。皇太子の地位で村娘を妃にするのは難しいが、今なら皇太子でもないしな……私のものにしてから共に首都に入れば……うむ。万事好都合だな」

「な、何の都合でしょう……? あ、そういえば婚約者の方は」

「あれは元々、叔父の方の人間として私に近づいてきただけだ」

 バーシュの話す内容の半分も、トゥーカには理解できなかった。が、二人が連れ立って丘を降りていくと、途中まで上ってきたダウードが武装した姿でにっこり微笑んで、

「良かったなトゥーカ、クレエラに行ってみたいと言っていただろう? バーシュ様が連れていって下さる」

と言った時には、自分が言った意味と全く違うということはよくわかったのだった。


 その後。

 バーシュは兼ねてから集めていた味方と共にその地で挙兵し、父帝を助け出し、叔父から皇帝の座を奪還した。

 そして彼は、トゥーカを皇太子妃にし、宮殿で共に――


「――共に暮らしたいのだが、だめか?」

 丘の中腹から頂上を見上げ、バーシュが腰に手を当てて呆れたように呼びかける。

「私に、首都で皇太子妃など務まりません!」

 霊廟の石組みの陰で、トゥーカは叫び返した。そんな彼女の腰のあたりに、すっかり大きくなった翼虎が頭をこすりつける。

「この地が翼虎の訓練場であることは変わらないのでしょう? では、私はこれからも、ここで霊廟の管理と、この子の世話をして暮らします!」

「なぜ離れて暮らさねばならん!? たまにしか会えないではないか、クレエラに来い!」

「何でも望みを叶えるとおっしゃいました! 私はここが良いのですっ。バーシュ様がいらっしゃるのはご自由にどうぞ!」

「くそっ、サダルスウドがいるから無闇に近づけないな」

 悔しそうに見上げるバーシュに、ダウードが笑って言う。

「おや、サダルスウドはもう、殿下の言うことも聞くのでは?」

「聞くが、トゥーカの命令の方を優先するのだ」

 むっつりと腕を組んだバーシュは、あきらめたように呼びかけた。

「わかった、わかった。もう無理は言わん、降りてこい!」

「首都に行かなくても、良いのですか?」

 警戒するような、トゥーカの声。

「お前が望む通りにする。だから」

 バーシュがやや弱った声で、両手を広げた。

「今すぐ、お前を腕に抱かせてくれ……!」


 丘の上で、トゥーカが翼虎――サダルスウドに、何かささやく。サダルスウドが軽く身を屈めた。


 やがて、翼と共に、ゼフェナーン帝国の皇太子妃が舞い降りてきた。



【外伝 翼をもたらす者 完】

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