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前編

 皇帝の魂を守った娘の物語があり、そして他の物語が存在する。

 美しい女官服、一杯のカーフォ、青い花――手にしたのは誰なのか、手にするのは誰なのか。


 身分の高い男と、身元のわからない娘、そして翼を持つ虎。

 はるか昔の記憶、ずっと先の未来、それとも「もしも」の出来事。


 ゼフェナーン帝国の片隅、霊廟のある丘で起こった、もう一つの物語。




翼をもたらす者



前編



 陽は中天高く昇り、広大な草原に所々生えている低い木の下に、柔らかな陰を作っていた。雨上がりに緑が萌え、生命の息吹が美しい彩りを大地に添えている。


「このあたりだと言ったな?」

 馬の手綱を引いてあたりを見回したのは、紺色の髪と太い眉の青年だった。骨太な体躯はゆったりした服に包まれ、動作に高貴さが見て取れる。

「は。部下は、翼虎が西の方へ移動していくところを見たと」

 すぐ横で馬を止めたもう一人の男が、返事をする。同い年くらいのこちらの男は黒髪を短く刈り込んでおり、ひと目でゼフェナーン帝国の軍人とわかる制服をまとっていた。

「狩場を移動したかな」

 紺色の髪の青年は軽く顎を撫で、その手で前方を指さした。

「ダウード、あの丘に登ってみようか」

「丘の向こうはすぐ村です、翼虎がそう人里に近づくとは思えませんが」

 ダウードの言葉に、青年はうなずく。

「わかっている。高いところからこのあたりを見渡して、しばらく張り込もうと思っただけだ。虎の狩りと同じく、「待ち」の戦法だな。翼虎の仔を捕らえられれば、これからの私の心強い相棒になる」

「しかも吉兆ですしね。いつか、共に肖像画に描かれることでしょう、殿下」

 殿下と呼ばれた青年は笑ってうなずき、そしてその笑みを苦笑に変えた。

「しかしお前の名前は言いにくいな、ダウード」

「そう言われましても、俺の家は代々長男がこの名を継ぐんですから。いつの世になっても皇帝一家をお守りする、その決意を表す名です」

「ふーん」

「俺の夢は、殿下をお守りして戦友と呼ばれることです」

 意気込むダウードに、青年は笑う。

「戦う気満々だな。もう三十年も、ゼフェナーンの風は凪いでいるというのに」

「ええ。これまでは」

「これまでは、な」

 青年はつぶやくと、軽く馬の腹を蹴った。

 二騎は連れだって、草原を駆けていく。風が走り抜け、草の波を立てた。


 丘が近づいてくると、その頂上に朽ちかけた石組が見えた。

「初代皇帝のご生母の、霊廟ですね。あのあたりまで登ってみましょう」

 見上げたダウードが言い、青年はうなずいて丘を登り始めた。しかし、半ばまで上ったところで、手綱を引いた。

「誰かいる」

 つぶやいた声に、ダウードは全身を緊張させて青年の前に出ると、馬を下りた。

「ここでお待ちを」

 彼は姿勢を低くし、藪の間を抜けて丘をゆっくりと登っていく。青年は自分も馬から下りると、少し距離を置いてダウードの後をついていった。


「――だれ?」

 高い声がした。

 石組の陰から、若い女が覗いている。長い黒髪を緩く編んで前に垂らした、小柄でおとなしそうな娘だ。

 そしてその足下から、ひょこり、と姿を現したのは……

「翼虎」

 ダウードが目を見開いてつぶやいた。背中に小さな翼の生えた白い虎が、太く毛深い足を踏みしめてこちらに出てきたのだ。まだ生まれて間もない大きさだ。

 仔は、男二人の方を見て歯をむき出し、シャーッと威嚇の声を上げた。


 ダウードは腰にぶら下げていた麻袋を取り、広げてから一歩踏み出した。翼虎の仔に近づく。

「あっ、何を」

 娘がさっと屈みこみ、仔を引き寄せた。ダウードが命じた。

「娘、その仔は軍で飼育する。渡せ」

 仔が、キューン、と声を上げる。

「お待ち下さい、あの……」

 娘が何か言いかけたとき―― 


 うなり声が響いた。石組の奥、玄室のある地下の方で、黒く大きな影が動く。


「待って、大丈夫だから。ね」

 娘はあわてた様子でその影の方に声をかけると、

「ほら、お母さんが心配してるから、お母さんのところにいなさい」

 と仔を影の方に押しやった。そして、自分は仔の前に立ちはだかるようにすると、男たちを見上げた。

「これ以上は、近づくと危険です。虎の母親が病気で、気が立っております。仔を連れ去ろうとすれば怒って暴れます。連れていかないで下さいませ」


 追いついた青年は、少し高い場所に立っている娘を見上げ、観察した。立襟の膝丈の上着を腰紐で縛り、その下に薄手の下履き。袖をまくったしなやかな左腕に、直りきっていない爪痕がある。

 青年は、無造作な口調で尋ねた。

「お前は、怪我をしてまでなぜ母虎に近寄るのだ」

「あ、こ、これは、最初に気づかずに近寄ってしまったとき、一度攻撃されただけで」

 娘はあわてた様子で袖を下ろす。

「私も、薬草だけをここに運んで、あとは近づいていません。でも、仔の方がお腹を空かせていて……」

 そこへ、また仔が出てきた。娘に身体をすり寄せる仔を見下ろし、娘は微笑んで言う。

「母虎が狩りができないので、代わりに何か食べ物をと……」

「世話をしているのか」

「はい……ここ三、四日ほどですが」


 男たちは顔を見合わせた。

 ダウードの部下が、草原で母仔連れの翼虎を見かけたのが五日前。その後、母虎が病気で倒れ、この娘が仔を保護した、ということになる。

「……もう少し、早く見つけていればな」

 青年は一人ごちて苦笑し、ダウードは軽く肩を落とした。


 翼虎は、滅多に人に懐かない。だからこそ、手懐けた者は尊敬される。唯一無二の主として、翼虎に選ばれたのだと。事実、一度懐いた人間には翼虎はその力を貸し、他のあらゆるものから守る。

 娘はあまりよくわかっていないようだが、翼虎の仔は娘に懐いている。つまり、娘とそれ以外の人間を区別してしまっているのだ。たとえ娘と引き離して仔を連れ帰っても、手懐けるのは格段に難しくなる。

 おまけに今は、弱っているとはいえ母虎が目を光らせているとあれば、男二人で強引にことを運んだところですぐに追いつかれて喰い殺されてしまうだろう。何しろ、あちらはその翼で滑空するのだ。


「どうします。俺の隊を連れて、また来ますか」

「……いや。余計な血は流したくない。その頃に母親が回復しているかもしれないしな」

「逆に弱っていくかも」

「どうだろう。……なあダウード」

 青年はダウードの肩を抱き、娘に背を向けるようにして囁いた。

「私はここに通おうかと思う。離宮からなら、一色(三時間強)かからない」

「は?」

 ダウードは軽く目を見開き、ちらりと後ろを見た。娘も不思議そうに、こちらを見ている。

「仔は、この娘に懐いているわけだろう?」

 青年は、いかにも良いことを思いついたというように、小声でダウードに語る。

「引き離して余計憎まれるところから始めるよりも、私と娘が互いに敵意がないところを見せた方が、仔は良い印象を持つと思わないか」

「まず娘から落とす、ということですか?」

 ダウードは呆れた声を出したが、うなずいた。

「言い出したらお聞きになりませんからね、殿下は。わかりましたよ」

「殿下はやめろ、娘が萎縮する。バーシュと呼べ」

「懐かしいですね、幼い頃のそのお名前」


 そこまで打ち合わせてから二人が振り向くと――娘と仔の姿はなかった。

「お、おい娘?」

 ダウードが見回すと、石組をぐるっと回り込んだあたりに気配があった。二人が後を追うと、娘は石の祭壇の前に屈み込み、首から下げた火口箱を使って枯れ枝に火をつけているところだった。

 見ていると、彼女は枝からたった煙を身体に受けるようにしてから、両手を合わせて目を閉じている。朽ちかけているとはいえ、霊廟であるこの場所に参っているようだ。

「……あ」

 二人が見ていることに気づいた娘が振り向く。

「仔は、どうした」

 バーシュが尋ねると、娘は立ち上がって答えた。

「母親のところです。ほとんど離れません」

「そうか。……今日は帰るが、また様子を見に来る。案ずるな、母仔を無理矢理離したりはせん」

「本当ですか……?」

 娘の固い表情が、わずかにほころぶ。ダウードが言った。

「ただし、俺たちは翼虎の仔が欲しい。もしも母虎が死んだら、仔は連れていくぞ。母虎が元気になれば、仔がお前に懐いていようが二頭でここを去るだろうから、俺たちは後を追う。どちらにせよ、お前はもう関わりはなくなる。そうだな?」

「はい、それは……わかりました。……あの……お二人は」

「首都クレエラから来た。私はバーシュ、こっちはダウードだ。お前は」

 娘はほんの少し、笑みを見せた。

「トゥーカと申します」


 トゥーカは、少々変わった娘だった。このあたりでは珍しい黒い瞳をしており、言葉にやや異国風の訛がある。

「幼い頃に、草原を一人で歩いていたそうです。運良く、ここの村で保護してもらえて、子どものいない夫婦に引き取ってもらえました」

 翌々日に訪れたバーシュとダウードに、トゥーカはそう説明する。

「今は、養父母の元で糸の染色をして暮らしています。この時期は、必要な材料が揃わないので少し暇なんです」

 言いながらも、石の上に腰掛けたトゥーカは何かの蔓で籠を編んでいる。売り物にするのだろう。

「虎に餌をやるのは、一日に何度だ?」

「朝と夕方、二回ですね」

 トゥーカの話によると、丘の付近に簡単な罠をしかけてあり、ネズミを捕まえては仔に食べさせているとのことだった。母虎は草ばかり食べているらしく、病気からの回復を待っているようだ。

「朝と夕方以外にも、お前はずっとここにいるようだが」

 バーシュに問われ、トゥーカはちょっと俯いた。

「……ここで一人でいるのが、好きなんです」

 何か理由があるのかもしれないが、トゥーカはそれだけ言って口をつぐんだ。

「それは済まんな、押し掛けて」

「いえ、いいんです。その、私がこの場所が好きなだけで、ここは私だけの場所じゃないし、そもそも初代皇帝陛下のご生母様の……」

 トゥーカはあわてたように言うと、微笑んで話を変えた。

「お二人とも、クレエラからいらしたんですよね。いいな、私、行ったことないんです」

 十六歳だという彼女は、都への憧れを表情に浮かべた。

「都のお話を本で読んで、想像するばかりで」

「お前は文字が読めるのだな」

「はい」

「そうか。いつでも連れていくぞ。今日、一緒に来るか?」

 バーシュがとっておきの微笑みを向けると、トゥーカは真っ赤になって、またあわてたように首を横に振った。

 その様子を、霊廟の石組の陰で見張りのように立ちながら、ダウードが眺めていた。

 やがて近寄ってきたバーシュに、ダウードは軽く眉をしかめ、小声でわざとこう呼んだ。

殿下(・・)。やりすぎないで下さいよ。あの娘といい仲になってご落胤騒ぎはごめんです。彼女に信用さえされれば、それでいいでしょう」

「まあな。でも、私を好きにならせるのが一番手っとり早いじゃないか」

「女の敵ですねバーシュ様は。仔を手に入れたらここには来ないんでしょう? 彼女を捨てることになるじゃないですか。それは可哀想です」

「ダウード、お前まさかトゥーカに惚れたのか?」

 明らかに冗談の口調でバーシュが言い、ダウードは眉間に皺を寄せる。

「違います。親が出てきたり、彼女がクレエラに追いかけてきたりしたら面倒でしょう」

「はは、わかったわかった。そんな心配はいらん」

 バーシュはダウードの言葉を笑い飛ばしたのだった。


 その二日後、バーシュとダウードがやってきたときも、トゥーカは霊廟にいた。

「母虎はどうだ」

「仔がネズミを持っていったら、食べたみたいです」

 トゥーカはにこりと微笑む。

「少し、良くなってきたのかも」

「そうか」

 バーシュはうなずくと、トゥーカの足下に近寄ってきた仔にひょいと一歩近づいた。仔はとびすさって、うなり声をあげる。

「なかなか慣れないな。……お前には最初から懐いたのか?」

 バーシュが尋ねると、トゥーカは苦笑した。

「いいえ、でも夜も……あ」

 ふと、言葉が途切れる。

「何だ」

「いえ、何でも。と、とにかく、それほどすぐに懐いたわけではありません」

 ふーん、と仔を眺めるバーシュに、あたりを見て回っていたダウードが戻ってきて近寄った。

「殿……バーシュ様、ちょっと」

 バーシュとダウードは、トゥーカから少し離れる。

「バーシュ様。彼女、どうやらここに住み込んでるみたいです」

「何? 霊廟にか?」

「あちらの石組の陰に、寝床のようなものが作ってあるんです。煮炊きの跡がないのを見ると、村に食事だけしに戻っているか、誰かに食べ物を運んでもらってるんじゃ……」

「言われてみると、我々がここに来るといつもトゥーカはここにいるな」

「昼も夜もいるなら、仔が慣れるのもそりゃ早かっ……」

 言いかけたダウードが、ふと表情を変えた。


 バーシュがダウードの視線を追うと、トゥーカが立ち上がったところだった。そのトゥーカに近寄る、もう一人の男。

「トゥーカ。いなくなったと思ったら、ここにいたのか」

 初老のその男は、愛おしげに両手を広げてトゥーカに近寄る。

「心配していたんだ。大丈夫だから、戻っておいで」

「でも、お父さん……」

 声を震わせるトゥーカは、バーシュが初めて見る、何かに耐えるような表情を見せた。

「わかっている、母さんを気にしているんだろう? ただの誤解なんだから、気にすることはない。お前は長年ともに暮らした、私の娘だ」

「でも、やっぱり戻れません。お母さん、お腹の赤ちゃんのことで気が立っているし。お父さんはお母さんを労ってあげて」

「しかしお前、このような場所で寝起きなど」

「私は平気。友達が食べ物を持ってきてくれるし、ここなら水もあるし。ご生母様にもお参りしてお願いして、ここの掃除をさせていただいてるの。お母さんには、私を見つけたこと言わないで」

「何を言うんだ、このままでいいわけがない。とにかく一度、戻って話し合おう」

 平行線の二人の会話に、別の声が割り込んだ。

「トゥーカ」

 バーシュが石組の陰から、一歩外へ出た。ダウードが驚いて目を見張る。

「な」

 誰もいないと思っていた霊廟に身なりのいい男が現れて、トゥーカが父と呼んだ初老の男はぎょっとなった。

「話をしているところ、済まんな。旅の者だ」

 バーシュはゆっくりと言うと、目を丸くしているトゥーカに笑みを向けた。

「水袋が空になってしまった。水を汲めるところはあるか?」

「は……はいっ、あの、ここの井戸は大丈夫なので。こちらです。お父さん、今日は帰って」

 トゥーカが早口に言い、小走りに先に立つ。バーシュはゆっくりとそれについて行きかけて、男を振り返った。

「娘御か。気だての良さそうな、美しい娘だ」

「は……」

 本能的にバーシュの身分を悟った男は、声も出ない様子でただ頭を下げた。バーシュは身を翻し、トゥーカを追った。


 追いついてみると、トゥーカは崩れかけた井戸の縁につかまって俯いたまま、じっとしていた。

「行ったようだぞ」

 バーシュが声をかけると、はっ、と振り向く。

「も、申し訳ありません、お騒がせを」

「子のいない夫婦に引き取られたと、言っていたな。しかし、今は子ができたのか?」

 疑問に思ったことをバーシュが尋ねると、トゥーカはまたうつむいた。

「……子ができたのは、養父と後妻さんの間に、です。養母は亡くなりました。あの、私がわがままで……血のつながりがない上、もうお嫁にいってもいい年なのに、ずっと家にいたからいけないんです、お母さん……後妻さんに色々誤解させてしまって」

「ほう」

 何となく事情が読めてきたバーシュに、トゥーカは自嘲の笑みを見せる。

「そこへ、お母さんが紹介してくれた男の人を嫌がったりしたから余計、こじれてしまって……強く断ると、何だか怖い感じで……私、どうしていいかわからなくなって」

「家出した、と」 

「……はい……わ、私」

 トゥーカの黒い瞳が潤む。

「私のせいで、父に迷惑をかけることになるなんて。拾ってもらって、育ててもらったのに……」

 ふん、と鼻を鳴らしたバーシュは、踵を返した。

「ダウード、来い」

「どちらへ?」

「村長のところだ」


 バーシュはダウードを連れ、馬で村に入った。

 白茶けた泥煉瓦の家が並び、一番奥にやや大きな建物がある。そこが村長の家だった。

 一目で高貴な人間とわかる二人が村長の家を訪れたため、すぐに誰かが村長を呼びに行ったらしい。痩せた老人が出てきて、地面にひれ伏した。

「村長か。私はクレエラの宮殿から、ここ一帯の調査に来た」

 バーシュは馬から下りようともせず、村長たちを見下ろして一方的に宣言する。

「翼虎の母仔が、初代皇帝陛下のご生母の霊廟に住み着いた。ゼフェナーン帝国皇太子が、仔を所望している。ここは元々皇太子の直轄領でもあり、ここ一帯を翼虎の訓練場としたい。霊廟の補修を含め、様々な設備を整える予定である。まずは、丘の麓に管理小屋を作る。それと、先ほどトゥーカという娘と会った。あの娘を、霊廟の仮の管理人とする。下級女官の身分を与えるため、そのつもりでおれ」

「は、はっ」

 ひれ伏すばかりの村長に、「この村に、悪いようにはせん」と付け加えると、バーシュは馬の向きを変えた。


「殿下……どういうおつもりで?」

 ダウードに呆れ声で尋ねられ、馬上のバーシュはさらりと答えた。

「どうもこうも、そのままだ。翼虎の仔を連れ帰れないのなら、ここで私に懐かせ、訓練するところまで済ませてしまえば良い。何もおかしいことはないだろう? 父上のお許しが出るまで、私とダウードで付近を調査。トゥーカは霊廟の管理人だ。女官の身分を与えれば、彼女の父親も文句はあるまい」

「そりゃそうですが……結局、俺たちのやることは変わりませんよね。ここに数日おきに通い、トゥーカが仔の世話をするのを見守る」

「ここは『拠点』だ」

 ニヤリと笑うバーシュに、ダウードは軽く目を見張った。

「なるほど」


 翌々日、ダウードから差し出された女官服を見て、トゥーカは目を丸くした。

「こんな、綺麗な服……私、似つかわしくありません」

「これは、お前の鎧だ」

 ダウードの後ろから、バーシュが声をかける。トゥーカはハッと顔を上げた。

「鎧……」

「身分という鎧だ。これがお前を守る。お前が望まぬなら着ずとも良いが、これを着ていれば、意に染まぬ男はお前に手を出せない。いつまでも宿無しのような暮らしはできんだろう、父親の心配事も一つ減る。孝行したいのなら一つの方法だぞ」

 トゥーカは迷うように視線をさまよわせた。

「でも……村で私だけ、こんな……」

「霊廟が再建されたら、年に一度の祭礼を復活させる。その準備を村に任せる。ある程度金が動けば、村全体が潤う。お前はその窓口になれ」

 重ねてバーシュが言うと、トゥーカは恐る恐る、服を受け取った。滑らかな手触りを確かめるように表面を撫で、またバーシュを見上げる。

「……でも……」

「まだ何かあるのか」

「こんな綺麗な服、仔が爪でも立てたらどうしよう……」

 バーシュはダウードと顔を見合わせてから、笑いだした。トゥーカは何かおかしな事を言ったかと、不安そうに男たちを見比べていた。


 やがて、丘の麓に管理用の小屋が造られ、トゥーカはそこで暮らすことになった。

「小屋、だなんて」

 自分の荷物を手にしたトゥーカは目を丸くして、建物の門を眺める。

「なんて立派な」

 石柱の門と石造りの壁で囲まれた家は、複数の部屋と台所や浴室があり、都の家はこのような風だろうかとトゥーカに思わせた。少し離れた場所には、あたり一帯を守る兵士が寝泊まりする泥煉瓦の別棟も建設されつつある。

「お前が暮らすのだからと急がせたが、まだ使用人が決まっておらん。今日のところは、食事を村から調達させよう」

 バーシュがダウードに命じようとすると、トゥーカがあわててそれを止めた。

「だ、大丈夫です、竈もありますし私が作ります! あの、バーシュ様、ダウード様、大したものはお出しできませんが、よろしければ召し上がって下さいませっ」

「そうか? では、これで材料を買ってこい」

 バーシュが懐から、何やらずっしりした小袋を放った。自分の荷物を放り出すようにして小袋を受け止めたトゥーカは、その中身を見て卒倒しそうになっていた。

 

 トゥーカが大急ぎで用意したのは、魚の薫製と野菜を重ね蒸しにしたもの、それに叩いた肉と木の芽を包んだ蒸し饅頭だった。貴人を待たせてはいけないと、蒸籠を重ねて一度に作れるものにしたらしい。

「お……お口に合いませんでしたら、どうかお捨て置き下さいませ」

 今になって、高貴な人物に自分の料理を差し出すという大それた行動に気づいたのか、トゥーカはおそるおそる料理を載せた盆をバーシュとダウードの前に置いた。

「お金、ありがとうございます」

 床の敷物に直接座ったバーシュは、トゥーカが返した小袋を手にして軽く首を傾げる。

「何だ、全く減っていないではないか」

「もっ、申し訳ありません! 何分小さな村で……ちゃんとしたものを買おうと思っても……」

 トゥーカは半泣きの表情で頭を下げ、脇に置いていた陶器の瓶を押し出す。

「せめてもと、お酒だけは良いものをと思ったのですが、これが精一杯で」

「美味そうじゃないですか」

 ダウードが饅頭をつかもうとしたとたん、バーシュがわざとらしく咳払いをした。あ、とダウードは盆を手にし、

「気が利きませんで。……トゥーカ、自分はあちらの部屋でもらうよ」

とそそくさと部屋を出ていく。

「え……あの?」

 きょとんとしてダウードを見送ったトゥーカが、バーシュに視線を戻すと、バーシュはすでに料理に手を着け始めていた。

「あのっ、お毒味は」

「何か混ざっているなら、少し口に入れれば気づく。慣れているからな。……美味い」

 一言だけ言って、後は時々うなずきながら食べているバーシュに、トゥーカは胸をなで下ろした。

「よ……良かった……」

 食事を終えると、バーシュはトゥーカに尋ねた。

「お前は、料理をするのは好きなのか」

「はい」

 陶器の瓶の封をバーシュに見えるように切ったトゥーカが、微笑んでうなずく。

「そうか。……お前は霊廟の管理があるからと、この家の家事を誰かに任せようと思ったが、料理はお前に任せても良いか。私とダウードもここにいることが多く、忙しくなるが」

「私などでよろしければ。私をこの家の雑用係としてお使い下さい」

 トゥーカは頭を下げる。バーシュは片方の眉を上げた。

「雑用などと、自分を卑下するな。女官になったのだぞ」

「……服に、着られているみたいで……」

 女官服姿のトゥーカは、恥ずかしそうに目を伏せる。きちっと髪を結い上げ、唇に少しだけ紅を差しているのは、何とか服に自分を合わせようとしたのだろう。

 微笑ましく思ったバーシュは、ふと彼女を困らせたくなった。


 翌日、トゥーカを呼びつけたバーシュは言った。 

「女官らしい振る舞いをひとつ、教える。ダウード!」

「はい?」

 隣の部屋から顔を出したダウードに、バーシュは命じる。

「カーフォの粉を持ってきてあっただろう。トゥーカに淹れ方を教えて、ここに持ってこい。三人分だ」

「はあ」

 ダウードは首を傾げながらトゥーカにうなずきかけ、二人は厨房に下がっていく。やがて、トゥーカが不思議そうにしながら、陶器の杯に注がれた黒い飲み物を運んできた。

「都の人間が嗜む飲み物だ。女官もたまに楽しんでいる。飲んでみろ」

「はい」

 杯を手にするトゥーカを、バーシュはにやにやと眺めている。

「……っ、ごほっ!」

 一口飲んだトゥーカはせき込んだ。

「苦……ごほっ、こ、これは何ですか?」

「煎ったカーフォ豆を粉にして、煮出した飲み物だ。女官らしくするなら、これに慣れねばな」

 面白そうに言って杯を傾け、バーシュは試すようにトゥーカを見る。

「うん、美味い。トゥーカもこれを淹れる練習をするがいい。私に淹れる時、自分の分も淹れてこの味に慣れるように」

 すると、トゥーカは表情を引き締めて言った。

「いけません!」

 バーシュは目を見開く。

「……何?」

 トゥーカは杯を置いて、きっぱりと言う。

「これほど苦くては、何か混ざっていてもわからないではないですか。普段のお食事ならまだしも、このようなものを私に任せてはいけません! もっと信用のあるものにお任せ下さい」  

 杯を置いたバーシュが何か言おうとしたとき、はっとしたようにトゥーカは膝をずらし後ろに下がった。

「あの、出過ぎたことを……私、仔の様子を見て参ります」

 部屋を出ていくトゥーカを見送りながら、バーシュはあぐらをかいた自分の膝に肘をついた。ダウードが笑い含みに言う。

「……トゥーカは、バーシュ様の身分に薄々気づいているのでは? それに、おそらく色々勉強していますね、あれは。よく本を読んでいますし」

「……」

 少し黙っていたバーシュは、やがて微笑んだ。

「本人は見かけを気にしていたが、中身はもう女官だな」

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